"めざすのは最強の弱者" メディア取材が殺到する、NSグループ創業秘話(後編) | 株式会社NSグループ
※本ストーリーは、代表 荻野勝朗著のデジタルブック「創業者物語」を再構成したものです。(前編はこちら) ■荻野 勝朗 プロフィール株式会社NSグループ代表。22歳でスキー専門店 "ヴィクトリア"...
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※本ストーリーは、代表 荻野勝朗著のデジタルブック「創業者物語」を再構成したものです。
■荻野 勝朗 プロフィール
株式会社NSグループ代表。22歳でスキー専門店 "ヴィクトリア" を設立。売上900億円の企業に育てる。その後、サービス業界へ参入するため、現NSグループ(ニュートン・サンザグループ)を創業、「カラオケパセラ」「ホテルバリアン」「安心お宿」「アンダリゾート」など 20業態・100店舗以上の設立に携わる。
「自分で考え、自分で決める働き方を選びたい」「大人になったら商売をやるんだ!」
私が子どものころに描いた将来像は、大学生になっても変わることはありませんでした。会社員になるのは絶対に嫌だった。周りの学生からは、変わり者だと思われていたかもしれません。でも、どれだけ苦労したとしても、自分で考え、自分で決める働き方を選びたかったんです。
ニュートン・サンザグループは、そんな私が創業した会社。自分が嫌だったことを、他の人にやらせたくはありません。当時の私のように「言われたことだけやる、ただの会社員にはなりたくない」という若者が、喜んで入りたくなる会社をつくる。
私たちの挑戦の歴史を、少しだけご紹介させてください。
学生時代、大学にはろくに行かず、ラーメン店の店先にいつも立っていました。
アルバイトではなく、経営者として。
私の父親は、私が小学校2年生のときに病いで亡くなりました。母が女手一つで3人の子供を育ててくれたんです。祖父の時代から受け継がれた数軒の貸家収入で家計はやりくりしていたのですが、貸家がしばらく空いてしまったこともあり、何か自分たちで商売をやろうと家族で話し合ったんです。
学生街だからラーメン屋にしようと決めたはいいものの、誰がやるのか。母はもういい年ですし、当時の兄は大手企業で会社員として働いていた。
そこで、最初の1カ月ぐらいは、私が経営者として店に立とうと決めたんですね。幸か不幸かわからない、私の事業家人生のはじまりです(笑)
大げさじゃなく、学生生活の多くの時間をラーメン屋で過ごしました。アルバイトは採用できても正社員が採用できなかったので、自分で店に立たなければいけない。
当時は店内にエアコンがない店舗も多数あったので、積極的に導入しました。『冷暖房完備』なんて書きません。サッポロラーメンの店だったので、『北海道並みの涼しさです!』なんて、POPも北海道の地図のかたちにして工夫して。
それなりに流行りましたが、当時はラーメン1杯180円という時代でしたから、どれだけ売れてもせいぜい日商は数万円程度。なかなか儲からないなあと悩んでいました。
そのときヒントをくれたのが、ラーメンを食べながらいつもカウンターで札束を数えていた、”怪しいオヤジ”だったんです。
そのオヤジ、実は隣のスキー専門店の経営者でした。
閉店後に、レジの売上をうちで集計していたんですね。カウンターの中でラーメンをつくっていたら、数えているのが見えるわけですよ。
少なくとも200万円くらいの日商はあったんじゃないかな。頭の中でいろいろ計算しました。店の広さはどちらも同じ20坪程度。うちは粗利が7割、おそらく向こうは3割程度だろう。向こうは午前10時に開店し、8時には閉める。うちは昼前から翌日早朝まで必死で働いている。人件費や仕入れコストを考慮しても、向こうの方が数十倍効率の良い商売をしていたことは明白でした。
そこで決めました。『よし、将来はスキー専門店をやろう』。
ヴィクトリアスポーツ
一応就職はしたのですが数カ月で辞めました。自分は会社員じゃなく商売がやりたかったはずだと。自宅の倉庫を改装して、スキーショップをやろう。若者の往来もあるし十分にやれるはず。
決意するのに時間はかかりませんでした。改装も自前でやりました。ベニヤ板を100枚くらい買い集め、一週間かけて白いペンキで塗り上げる。背広を来て街を歩く人を横目に汗だくで作業しました。
恥ずかしいとは思わなかった。自分は経営者なんだという自信に満ちていた。
『日本一安いスキー専門店 ヴィクトリア』
真っ赤なペンキで描かれた看板が、ひときわ輝いて見えました。
ところが、まったくと言っていいほど売れなかったんです。
最初のお客様は自分の母親。そこから、売上ゼロの日々がつづき、たまにお客様が来ても靴下300円、スキータイツ2000円、ストック5000円程度の売上にしかならない。
それはそうですよね。若者の往来があったとはいえ、自宅のあった場所は早稲田ですから、ほとんどが早稲田大学の学生。縁のない人が外からわざわざ訪れるような街でもありません。
電車ですぐの場所に、神田や御茶ノ水といったスキー用品店が集まるエリアがあるので、大半の人はそっちに流れる。
スキーシーズン直前、11月末の段階でまだ大量に在庫が残っていた。幼心に怖くなり、仕入れた問屋に買い戻してもらいに行ったら「売った時の10分の1の値段なら買うよ」と足元を見られる。
悔しかった。さすがに、もう駄目だと思いました。
ちょうどそのころです、全国紙の新聞記者が来てくれたのは。「学生街の珍商売」というコーナーの取材でした。お客様は一人もいませんし、暇だったので2、3時間は話し込んだと思います。当時は、広告規制なんてほとんどありませんでしたから、自信満々で「日本一安いんです」と伝えたら、それをそのまま書いてくれた。
記事が出て1週間も経たずに、1日で100万円以上を売上げました。
学生が何やら面白そうなことをやっている、というストーリーが人々の話題を呼んだのだと思います。何を売るかだけじゃなく、どんなストーリーを売るかも同じくらい大切。
23歳で得た学びは、今も自分の経営哲学の中に生きています。
転機となった全国紙での紹介記事
その後は徹底的な顧客目線にこだわり、売上を伸ばしていきました。
「未使用品は原則交換可能」という方針もその一つ。今でこそ当たり前ですが、当時の業界内では珍しいことでした。これは私が幼い頃、長年お年玉を貯めてはじめて買ったスキー靴が合わず、交換しに行ったら突っぱねられてしまったことが背景にあります。あの時は本当に悔しかった。
そういった "世の中のサービスの不便な部分" を解消することは、それだけで大きな価値につながります。
開店してから3ヶ月間は売上がほぼゼロだったヴィクトリアはその後、設立20年を待たずに売上900億円を突破。商品の選定から接客、店頭のPOPに至るまで、すべてにおいて顧客目線を重視することで、他の店舗にはない付加価値を提供してきた結果です。
ヴィクトリアが順調に拡大していく一方で、1つ大きな悩みがありました。
当時のヴィクトリアはメーカーから製品を仕入れて販売することが主でした。そうなると、どうしても利益率は上がらない。
海外からライセンスを買い取って自社オリジナル商品を作ったりもしましたが、ヒット商品を生み出すことが出来ず、少しずつですが行き詰まっていくような気持ちを感じていました。なにより
「自分の商売人としての人生は、モノを売ることだけでいいのか」
そんな考えから、より付加価値の高い事業を求める過程で "モノ(商品)ではなくコト(サービス)を提供する会社" として、現在の株式会社ナチュラル総研の前進となる会社を立ち上げました。
ヴィクトリアの経営も兄弟の役割分担の中で兄に引き継ぎ、再びゼロから新しい事業を作るために試行錯誤を繰り返す毎日。
何かないかと必死に考えている中で突破口になったのは、"世の中は間違ったことで溢れている" という気付きでした。
(以下後編へ続く)