「心の玉」。美しい言葉だな、と感じます。
皆さんは「心の玉」と聞いて、どんなイメージが浮かびますか? コウダプロ社長の幸田さんは、心の玉=人間性の底にある玉、と説明します。言い換えるとそれは「良心のようなもの」。
この日の朝礼の冒頭、幸田さんは心の玉について言及しました。身近な人とのやりとりの中で、心の玉について問いかける機会があったそう。
幸田さんは心の玉は「磨く」と「鍛える」で進化していく、と話します。心の玉は2軸で成長し、磨くにつれて透明度を増し、鍛えるにつれて強くなっていくものだとも。
生まれつきの性格や強さには個人差があるものですが、継続的な筋トレによって筋肉量が増えていくのと同じように、心の玉は努力次第で誰でも進化させていける、ともいいます。
ただ、心の玉は意識すればすぐにパーフェクトな状態になるものでもありません。昨日より今日、今日より明日と少しずつ変わっていくものです。
そんな話をされ「まっすぐ生きよう」という意識がアップデートされた感覚です。「誠実な在り方」をベースに思考し行動することが、心の玉を磨き、鍛えることにつながっていると、私なりに考えています。
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こんにちは、プレスラボの池田園子(@sonokoikeda)です。月1回「コウダプロ朝礼レポート」を担当させていただいています。
前回(2025年4月)の朝礼noteはこちらから。
良い企画を出すには「発想をいかに自由に広げるか」視点を持つこと
この日は連休明け初めての月曜日。新入社員が入って1ヶ月半。希望する男性新入社員が挑戦できる研修「ダーツの旅」も始まりました。
彼らがコウダプロに慣れてきたタイミングで、ものづくり企業であるコウダプロとして、幸田さんは、企画開発チームに向けて「良い企画の出し方」をシェアしました。企画づくりへの理解を深めてもらう意図があります。
それにしても、「良い企画を出すには?」というお題があれば、いろいろな人がそれぞれの流儀を教えてくれそうな気がします。それくらい盛り上がるテーマではないでしょうか。また、人によって異なる企画の出し方もありそうです。
幸田さんの意見はシンプルです。「良い企画を出すことは、発想をいかに自由に広げるかが大切」。制限を持たずに、のびのびと考えてみる、というのが重要です。
若手の会社員だったころ、企画を出すシーンで、先輩から「枠にはまった意見はいらない」「枠を飛び出せ」といった助言をもらったことを思い出しました。先輩は枠=制限、枠から出ろ=制限を気にするな、といった意味で言っていたのだと思います。
幸田さんはここで注意を促します。アイデアを出す段階で「現実性を踏まえて絞り込む」必要はないのだと。
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具体的なシーンを想像してみましょう。たとえば企画担当者が「新商品の企画を100個出す」というミッションと向き合った際、実現性や予算などを先に考えてしまうと、発想の広がりがある程度制限される可能性はないでしょうか。
「これはさすがに突拍子がなさすぎるでしょ……」「これは完全に予算オーバーするしなあ……」など、現実味やお金のことにとらわれて、そこで思考がストップしてしまうことも。
このような状態を幸田さんは「アイデアを出す側の自主規制が起きている状態」と言語化。自主規制とはまさにその通りだなと感じました。
自主規制が起きると、本来生まれるはずだった新しい可能性が消えることは容易に想像できます。
・アイデア出しはまず量を出し切る
・その後に精度を高める
幸田さんはこの2ステップを企画出しの基本的なアプローチ方法としてシェアしてくれました。
チーム内で起きる「自主規制」のふたつの弊害
自主規制は可能性の消滅につながりかねない、と書きました。それは「主体性の喪失」と「見識の上限化」という大きな弊害も孕んでいます。
企画担当者個人で考えても良くない状況ですが、企画開発チームというチーム単位で考えても、決して望ましい状況ではありません。
まず、分かりやすい「主体性の喪失」から考えてみます。主体性が弱くなったり、削がれたり、最悪の場合は失われたりすると、企画立案を自分ごととして捉えられなくなります。
結果、企画出しの量も減り、質も低下していくことが考えられます。何しろ、積極性を持って物事を考える姿勢が失われるわけですから。
続いて「見識の上限化」について。企画立案者にとっての見識がチームの限界となり、チーム単位で見ても、常識的な範囲内にあるアイデアしか出なくなる恐れがあります。
最初から「こんな提案をしても『実現性がなく、予算からも外れている』と否定されるに決まっている……」という考えがメンバー皆にあれば、チーム内で否定されない可能性の高いアイデアを皆が出そうとするのも無理はありません。
そうなると、驚くようなアイデアは出ることなく、予定調和なアイデアがたくさん出て、実現しそうだけど目新しさはない、誰かに刺さりそうで刺さらない……そんなモヤモヤが発生しそうです。
幸田さんは「たとえ未完成でもまず出してみること。量を重ねた先に質が見えてくる」という視点を持ってほしいと、アドバイスをくれました。
さらにここからは目から鱗だったのですが、「心理的安全性が高い状況でも自主規制が働く可能性」についても話が及びました。
たとえば、誰に対してもフラットな対応をする、人間としても仕事人としても信頼できる素敵な上司がいたとします。そんな彼あるいは彼女が率いる10人未満のチームに所属していて、安心感があるとします。これって、とても恵まれた環境ですよね。
ただ、このような最高な環境であっても、自主規制は起こり得ると幸田さん。
「どんなに稚拙な意見を出しても、うちの上司は話を真剣に聞いてくれるだろう。でも、内心失望されたらイヤだな。尊敬できる上司を変にがっかりさせたくないから、あえて言わないでおこう」というように。
リスペクトする相手だからこそ、自信のない企画を伝えられない、といった考えに至る人もいるのです。確かに……。その話を聞いて納得感がありました。
実際、コウダプロの各部門も心理的安全性が高く、意見が闊達に飛び交い、自主規制が働きにくい土台はあります。ただ、心理的安全性の高さと自主規制の発動可能性は切り分けて考えるに越したことはありません。
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その時々で最善を尽くす生き方を
幸田さんは「自主規制をすることはある意味で楽。それを選ぶことにはずるさもあると思う。自主規制は減らす方向へ向かいたい」と話します。
確かに、自主規制をすることで、自分にとって不快な意見を言われる可能性を減らせます。言い換えると、他人の指摘によって傷つくリスクを下げられる、ともいえます。
「否定されたくないから、自主的に意見を控える」というスタンスは、私の考えですが、どこか“ずるさ”を感じてしまいます。「それは仕事人としてどうなのだろう?」とも思いました。手抜きをしているのとは違うけれども、100%を出している風には見えないと感じるからです。
幸田さんはこう続けます。「常にその時点での最善を尽くすことの重要性を強調し、状況に応じてベストな決断をすること、そして異なる視点があるかもしれないという考えを持つこと、このバランスが大切」だと。
この言葉を聞いて、自主規制は最善を尽くすことを無意識的に阻害するのは確かなんだろうな、とも考えました。組織に貢献するためには、最善を尽くす努力をする必要があります。今は能力が足りなくても、最善を尽くそうとする姿勢でいることに価値があるのです。
自主規制をせずに自分の意見を表明しつつ、他人を尊重し、場合によっては譲り合うというバランスこそが、「新しい昭和」の考えにおいても重要な要素になると幸田さんは話しました。
▼新しい昭和については、下記の記事に詳しいです▼
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ただし、注意点もあります。自主規制をなくすことが悪手に働くと、そこは無法地帯になるおそれも。その状況を防ぐために、自主規制の必要性を認めつつ、思いを言葉にすることが重要です。
コウダプロ憲法でも、第二十条「建設的な提言」、第二十七条「物が言いやすい」など、社歴に関係なく誰もがフラットに発言しやすい環境の整備を伝えています。コウダプロ憲法はメンバーたちに浸透していて、小さなことでも深掘りして話し合える文化が社内にできています。今後もこの在り方を大事にして、継続することで、自由闊達な企画出しができる組織であり続けるのだと思います。
(編集後記)
そろそろ〆に入ります。私自身も小さな組織の代表として日々働くなかで、「うちは心理的安全性がある組織だ」と自負することもあります。ただ、今回の朝礼を振り返って、特にガツンと来たのは「心理的安全性がある=自主規制が起きない」ではない、ということでした。
「自由に意見して」「遠慮しないで」と伝えたところで、場の空気や関係性によっては、無意識のうちに意見を飲み込んでしまうことがある。そこに思いを馳せる視点を常に持ち続けたいと思います。
例えば、「他には?」「言い忘れていることとかない?」と声をかけること。それが形式的にならないように、どこかに遠慮や配慮が潜んでいないかを察知し、拾い上げる姿勢も必要だなと考えました。
心理的安全性の土台があったとしても、自主規制は起こりうる。これは、組織を率いる立場として忘れてはいけない現実。そして、自主規制のゼロを目指すのではなく、「出しやすい空気を育てていくこと」にこそ、日々の実践の意味があるのだと思いました。ありがとうございました!
Text/池田園子