【代表インタビュー】家族崩壊の立て直し、被災地のボランティア、3,000万円の借金──「地球,太陽にデータがないことへの挑戦」を目指すようになった代表の原体験と価値観の変遷
家族を1つにするために甲子園を目指し、消防士志望から一転して独立の道へ。さらには25歳で3,000万円の借金を背負いながらもわずか1年で完済し、現在は年商10億円を実現──。常識外れのハードシングスを駆け抜けてきたのが、株式会社CockPit代表の鯰江です。本記事では、幼少期から現在に至るまでの原体験と、アップデートし続ける価値観の変遷を深掘りします。
鯰江 純樹 / 代表取締役CEO
1994年生まれ。大谷世代として高校生時代にレギュラーとして甲子園出場を経験し、熊本地震のボランティア活動を機に「もっと大きなスケールで人を助けるためにまずは影響力を付ける」と決意して上京。一部上場メーカーの営業職を経て独立。2021年にCockPitにて人を雇用し、経営を始めて4年弱で売上10億円を超える組織へ育てる。
家族を1つにするために甲子園へ──少年時代に芽生えた使命感
ーー鯰江さんのこれまでの人生において、特に大きな影響を与えた出来事や価値観について教えてください。まずは幼少期の家庭環境から伺えますでしょうか。
私の人生において、幼少期の原体験は今の自分を形作る大きな要素の一つです。私の祖父は町の変革者として知られ、当時売上日本一の道の駅を企画したり、野球をするための運動公園を建設したりと、地域に多大な貢献をしておりました。
地域の人々からは「あの鯰江さんの孫か!」と声をかけられるほどで、小学校の行事ごとでは祖父が来賓として話すのが当たり前でした。父もまた、非常に愛情深く、しかし厳格な昭和の男で、筋を通すことであったり、愛や礼儀を重んじる人でした。
しかし、その一方で、家族それぞれの関係性は豊かとは言えない環境でした。祖父母、両親共に子供や孫への愛情は大きいのですが、大人同士は頻繁に衝突していました。自宅でも毎日のように争いが絶えず、子供の僕から見たら崩壊寸前の状態で、家にいるのは苦痛でしたね。そんな状況だったこともあり、小学校高学年の頃に、「長男の自分が家族をなんとかしなければならない」といった使命感が芽生えたんです。長男である自分が、この家族を1つにさせる使命がある、と。そして家族全員が野球好きであったため、「僕が甲子園に行けば、家族は変わるんじゃないか」と考えて甲子園出場を目指すと決めたんです。背負うものが違うからこそ、周りには負ける気がしない部分もありました。そして高校も、最も甲子園に行ける確率の高いであろう高校を選び、無事甲子園にレギュラーとして出場できました。
ーー甲子園出場という大きな目標を達成されたことで、家庭にはどのような変化がありましたか?
家族全員が「応援しよう」と一つの目標に向かって団結したことをきっかけに、家族は驚くほどに仲が良くなりました。そして田舎ということもあり、私の地元ではすぐに噂が広まり、町内のスターのように扱われることで家族皆が誇らしく思ってくれました。野球は楽しいと感じたことは基本ありませんでしたが、この時に心から野球に感謝しました。
甲子園出場も果たし、通常であれば大学でも野球を続けるところですが、私は野球を続けませんでした。目的が「家族を1つにする」ことだったので、それが達成された以上、野球を続ける必要がなかったんです。同時に、「お金は悪」という価値観が根付いたのも幼少期です。精神年齢が高かったからか、客観的に人を見ることが多く、お金が原因で人々が揉めるシーンも頻繁に見ていたので、公務員を目指すようになったのも、安定を求めていたからだと思います。私にとっての本当の人生は、家族がひとつになった18歳、甲子園出場後から始まったと言えます。
消防士から起業家へ。キャリアを大きく変えた「ボランティア活動」
ーー公務員、特に消防士を目指されていたとのことですが、そこから起業へと舵を切ったきっかけは何だったのでしょうか?
公務員を目指していたのは、潜在的にはお金に対するネガティブな価値観から来るもので、良くも悪くも決められたレールの上を進む安定したイメージがありました。中でもハイパーレスキュー隊を目指していたので、大学では必死に勉強をしていました。
転機が訪れたのは大学2年生の時。東日本大震災の現場を初めて自分の目で見に行きました。そこで現地のおばあちゃんから「当時、目の前で困っている人を助けられなくて後悔している。そうなったらダメだよ。」と言葉を頂き、衝撃を受けました。その時、「今の自分も人を助けられない」と感じ、すぐに応急手当の資格を取りました。そして京都市と京都消防署が運営する大学生のボランティアサークルに所属し、約200人のリーダーとして小中学校や企業で応急手当を普及させる活動をしていました。「何か自分にもできることがあるはずだ」という使命感があったんです。
そして、この活動をしていた大学4年生の4月、熊本地震が発生しました。就職活動の真っ只中でしたが、「こんなことをしている場合じゃない」と思い、2日目にはすぐにメンバーを集めて現地に向かいました。当時大学生でお金がなかったので、自分の足であらゆる場所を回ってお金を集め、トラック2台分の物資を運びました。現地で活動する中で、私のキャリアを大きく変える3つの出来事がありました。
まず1つ目は、現地のハイパーレスキュー隊員の方との出会いです。彼らは普段の業務で多忙を極める中、唯一の休みを利用してボランティアに来ていたんです。その時、私は「自分なら家族を優先してしまう」と感じました。ハイパーレスキューの方々は、家族が被災している状況でも市民の命を一番に考えている。この差を目の当たりにし、「自分が目指すかっこいい消防士にはなれない」と悟りました。併せてその隊員の方からも「君は影響力を持っているから、消防士ではないことをした方がいいんじゃないか」と言葉を頂き、災害に寄付をしている起業家たちの姿を見て、起業という道がぼんやりと見え始めました。
2つ目は、このボランティア活動を通して、多くの方々から感謝されたことです。活動の様子をFacebookに投稿すると、これまでにない多くのシェアがあり、感動の声が寄せられました。甲子園は家族のため、これまでの活動も身近な人たちへの影響が主でしたが、この時初めて、小さな町の鯰江純樹という1人の人間でも、名前も知らない多くの人々に影響を与えられることに気づきました。これは大きな成功体験です。
そして3つ目。現地には学生や女性、老人ばかりで、社会人がほとんどいませんでした。このことは自分の中では非常に衝撃的で、社会人、ひいてはサラリーマンに失望し、イメージが地に落ちてしまいました。これらの経験も相まって、絶対にいつかは独立しようと決意しました。このボランティア活動がなければ、今の私は消防士になっていたと思います。
「資本主義ど真ん中」での挫折と「かっこよさ」のアップデート
ーー東京に出て、会社を辞め独立されてから、大きな転機があったと伺いました。具体的にどのような経験をされたのでしょうか?
大学卒業後、東京に出てすぐに就職しました。新卒の営業採用枠が1人という海外売上が7割を占める大企業メーカーに入社したのですが、そこを選んだのは「前例のないこと」に惹かれたからです。募集要項の条件には「英語が話せること」が前提とされていました。ただ、私は全くと言っていいほど英語が話せないんです。そんな条件を書き換えることができて嬉しかった事はもちろん、そのような「前例のない意思決定」をしてくれた当時の面接官である本部長や会社に惹かれました。
2年間勤務しましたが、1年半ほど経った頃、「ある程度決めたラインの結果は出せた。人生は思ったよりも時間がない。勝負するか!」と意思決定をしました。ちなみにこの会社が設立されて以来、新卒が3年以内に辞めたことがない会社だったようです。家賃補助も9万円、残業もなくて本当にホワイト企業で、先輩方も良い方ばかりだったのでどう考えても辞めないと思います。でも退職をしたのも自分らしいなと。笑
ーーでは独立後は順風満帆な日々を過ごされていたのでしょうか?
実は独立してからの1年はまさにどん底でした。退職数ヶ月前に偶然大きな不動産の案件が決まって1案件で大きな収入が入り、24,5歳といった若さもあり完全に調子に乗っていました。背伸びをして家賃30万円以上のマンションに住んだり、海外旅行に行ったり、夜も飲みに行ったりと遊び呆けていました。その中で、大変な目にあってしまい、、、
最終的に、25歳で借金3,000万円を抱えることになりました。貯金も1,000万円ほどあったのですが、そちらも全て無くなりました。人のことを悪く言いたくないですし全て自責なので具体的な内容は省きますが、当時の私は「お金を持っている人が偉い」という資本主義ど真ん中の価値観だったので、キラキラしたものや目にみえるわかりやすいものに簡単に流されてしまったんです。エアコンをつけるお金がなく、扇風機。電車に乗るお金がなく、自転車。飲み物を買うお金がもったいないので、水を汲みに。とはいえ、僕も見栄っ張りだったので周りの人には隠し、後輩には食事を奢るなどしていた時代が懐かしいです。そして当時、新婚だったこともあり妻には迷惑をかけました。
しかし、このどん底の経験が私を大きく変えるきっかけとなりました。不動産や通信関連の販売、人材サービスなど、あらゆる代行業を寝る暇もなくただがむしゃらに実施。その結果、1年間でこの3,000万円を返済しました。もちろん、派手なことをする余裕もなく、ひたすら返済のための期間でした。26歳でもさらに1年間同じようにお金を稼ぎ、キャッシュを蓄えました。この2年間は、まさに自分を立て直す、そして生き方や価値観を見直すための準備期間でしたね。
仲間を巻き込み、社会全体へ。変化し続ける「かっこよさ」の定義
ーー多額の借金を返済し、キャッシュも蓄えられた中で、個人事業主ではなく「組織」として会社を立ち上げようと思ったのはなぜでしょうか?
個人で稼ぐことに満足や限界を感じたというよりは、新しい「かっこよさ」を追求しようと思ったからです。きっかけは、昔からお世話になっている兄貴のような方の影響です。彼はとにかくカリスマで、私が個人事業主の時も関係を持たせていただいていたことはもちろん、プライベートや家族ぐるみでもお世話になっていて今でも一番尊敬する存在です。そんな兄貴が「個人で稼ぐのは俺らは簡単。組織を作り、その組織にいるメンバーを豊かにする方がかっこいいよな 俺はそっちに進むわ。」と言っているのを聞いて、私も「確かに!」と思ったんです。部下がいること、そのメンバーの人生を背負っていること、それが当時アップデートされた「かっこいい」でした。まだその時は社会貢献とか、そういう大義名分はなかったです。
そして27歳から人を雇い始め、28歳で株式会社CockPitとして本格的に組織を動かし始めました。この頃の「かっこよさ」の定義は、「仲間を稼がせること」でした。今とはまた違い、部下の年収がいくらかで、その経営者の偉さを判断するような価値観でしたね。
そしてこの価値観は、30歳を過ぎたあたりからさらに変化してきました。グループ会社の代表や当社の取締役が、それぞれ2,000〜3,000万円を稼げるようになり、そんな仲間を数名輩出できた時に「後は創業メンバーを豊かにすること、そして数字に意味はないからこそ年商10億円で社会的信用を獲得することだ。」と感じたんです。そして、前期に会社として売上10億円という大台を達成することができました。その時により視座が高まり、「地球,太陽にデータがないことへの挑戦、つまり未来の子供,社会全体のために何かをする事がかっこいい」という現在の価値観に到達しました。また余談ですが、私の先祖は誰もが知る歴史上の人物であるということもこのタイミングで知ることになります。このタイミングで知れた、論理では説明ができないような力が働いていることに感謝すると共に、偉大な先祖のことを思うとより使命感が湧きました。
これまでの人生、私は常に「かっこいい」と思う方へ、正直に進んできました。高校時代は「家族に向き合うこと」がかっこいい。独立してからは「資本主義が正しくて、立場やお金持ち」がかっこいい。そして「会社を経営すること / 仲間を稼がせること」がかっこいい、「社会的信用を持っている(年商10億円)人」がかっこいい。と。そして今は「地球,太陽にデータがないことへの挑戦=未来の社会に貢献すること」がかっこいい、というように様々な経験を通して「かっこよさ」の定義が研ぎ澄まされていったんです。
最後になりますが影響力とは、自身の経験の幅に比例すると本気で思っています。資本主義ど真ん中にいた25、6歳の頃は、お金が全てで、人にも厳しく、超が付くほど気分屋でした。お金は人格で、お金さえ稼いでいればそれでいいと。しかし、その経験を経て、今の自分は真逆の思考になっています。自分でも驚くほど別人になったからこそ、さらなる影響力を持てるようになったと信じています。私はこれからも「かっこよさ」を追求し、自分を、そして社会をより良くしていくために生き続けます。地球や太陽に飽きられないように。