「たぶん“ちゃんと真っ当に生きよう”って思ったの、子どもができたときだった。」
秋田県・男鹿半島。港町で元気に育った少年が、東京で働く覚悟を決めた。
それが山本直彌さんの“人生の本当の始まり”だった。
ただ生きるために、がむしゃらに働き、必死に立ち上がり続けてきた人生。
だが、そうした“どん底”にこそ、人間の本質が見える──。
■ 恩師がつないでくれた「東京行きの片道切符」
「進学も就職も決まってなかったけど、“働く”以外に選択肢はなかった。」
山本さんは進路も決めずにノープランだった。だが、当時の恩師が動いた。
一本の電話で東京の企業に繋ぎ、面談もないまま“電話口で内定”が出た。
「東京で月給16万5,000円。厳しい条件だった。でも、それでもやるしかなかった。」
まさに“生活のために働く”日々が始まった。
■ 精神疾患──病気との闘いと、そこから生まれた「朝の習慣」
「電車に乗るのが怖くて、でも会社には行かなきゃいけない。だから始発に乗って、1駅ずつ降りて休みながら通勤した。」
普通なら休職を選ぶところだが、山本さんは立ち止まらなかった。
電車の閉鎖空間がダメなら、始発から一駅ずつ休憩しながら向かえば良いと思った。
ただ時間はかかる。その朝の移動時間に生まれたのが、「勉強の習慣」だった。
宅建、管理業務主任者、FP2級。
人生を変える「トリプルライセンス」を全て独学で取得したのも、この頃だった。
「苦しかったけど、自分を変えるしかなかった。スキルもコネもない中で、人生を変えるために本当に戦える武器をつくる必要があった。」
■ 自宅売却で“1000万円の損”から見えた業界の闇
ライセンスを取得し飛び込んだのが、不動産の世界。
管理業務主任者の資格を活かし、大手マンション管理会社へ転職。
順風満帆にステップアップできる手ごたえを感じていた。
だが、転機は、自宅売却の場面で訪れる。
「囲い込みにあって、自宅が想定より1,000万円安くしか売れなかった。しかも当時のグループ会社に。」
調べていくと、両手取引、囲い込み、利益最優先の不動産仲介の慣習。
「これが業界のスタンダード」だと知り、心の底から怒りが湧いた。
「この業界を変えるしかないと思った。誰かがやらないと、ずっと同じままだ。」
■ 「不動産業界の常識を変えるために生まれた会社」への転職
「両手をやらない。囲い込みをしない。不動産業界に風穴を開ける。そう公言している不動産会社へ入社するしかない。」
業界で話題になっていたその会社に、迷わず応募。
入社して実績を出し、チームリーダーにもなった。だが、上場を機に、会社は“利益追求”へと傾いていった。
「大手上場企業にいたくて入社したんじゃない。不動産業界を変えることに人生の時間を捧げるために入社したんだ。」
そうしてすべてを捨てて、山本さんは次なる一歩を踏み出す。
■ さくら事務所との出会い。
そして「一人で100%」より、「三人で210%」を目指す人生へ
さくら事務所グループと出会ったのは、らくだ不動産を通じて。
山本さんは、マンション管理と仲介、両方の経験を買われ、二つの会社・事業を兼務する社員として迎え入れられた。
ただ入社と同時に訪れた新型コロナウイルス。
「どんな苦境な時代でも、必要とされるサービスだからもっと成果がでるはずだ。」
その想いが、彼の営業魂に火をつけた。
がむしゃらに成果を出して、事業を加速させた。
そんな中、代表の大西さんからかけられた言葉が、彼の価値観を根底から変えた。
「あなたがどんなに頑張っても100%。でもあなたと同じ思いを持った70%の人が3人いたら210%になるよね。」
「今までは自分がトップでなきゃ気が済まなかった。でも、“誰かを幸せにする仕組み”を創る方が、よっぽど価値があると思った。」
■ 売上に、魂を込める。それが、さくらのマネジメント。
「売上は嘘をつかない。だからこそ、ずっとそこにコミットしてきた。」
売上は、信頼や努力の“証明”である。
そして最も大事にしてきた「人を幸せにした数」の証拠でもある。
売上至上主義ではない。
だが、“売上をあげる責任”から逃げないのが、さくら事務所のカルチャー。
そして山本さんは言う。
「1件でも多く、“人と不動産の幸せな関係”を増やすこと。そこに人生をかけたいと思った。」
■ こんなあなたに、来てほしい
山本さんは、未来の仲間にこう語りかける。
「過去に失敗したことがあってもいい。むしろその方がいい。
それでも、自分と向き合い、もう一度立ち上がることを選べる人。
“この会社、この仲間と一緒にやりたい”と心から思える人と、僕は一緒に仕事がしたい。」
