宮﨑香帆(Miyazaki Kaho)
1997年生まれ。福岡県北九州市出身。大学で五島列島と出会い、町役場の農業支援事業や観光協会の広報に関わり、NPOの立ち上げ等を経てまちづくりの世界に興味を持つ。その後一年休学し島根県隠岐郡海士町で3ヶ月滞在、岡山県西粟倉村や宮崎県児湯郡新富町を巡る。
2020年4月復学、9月より株式会社FoundingBaseにジョイン。
大分県豊後高田市で、「長崎鼻ビーチリゾート」の運営に携わる。
日本の美しさと自分の生き辛さ
私の人生の記憶の始まりは香川県高松市の小さな町でした。
古き良き伝統が継承され、自然に溢れたその町で、学校から帰っては兄や近所の子たちといつも冒険にでていました。好奇心旺盛で自我が強く、物怖じしない活発少女。れんげ畑で花かんむりを作ったり、道にうつ伏せて田んぼの生き物を観察したり、夕ご飯で呼ばれるまで影踏みをして遊んだり。
毎日どこか怪我をしては泣いて笑って、美しく豊かな自然に囲まれて、今思えばこの頃に五感で得た日本の美しさが私の「まちづくり」の原点の一つなのかもしれません。
そんな生活も小学2年生で福岡県北九州市に移ってから一変します。
田舎と都市では同年代の子達と遊び方や考え方が全く異なっていたため当初は馴染めず、どこか後ろ髪を引かれながら数年、兄と私の思春期がきたころに家庭が不安定になり始めました。家族それぞれにとってつらい時期が偶然重なり、毎日誰かが喧嘩しては、朝は大きな物音で始まり夜は怒鳴り声で終わるような日々があたり前になりました。
しかし、この家庭環境での息苦しさは当時の私に「ほしい未来」や「ありたい姿」を問いはじめるきっかけを与えました。ただし、まだその時は「私がもっと頑張ればいい」という自己犠牲の上に成り立つものであり、常に「自分のことは自分でしなければならない」「もっと自立しなければならない」とばかり考えていました。
世界の広がりと自分の人生に向き合い続けた高校・大学時代
高校に入り、縁あって生徒会の友人とともに近隣大学の学生団体に所属したのがきっかけで、人前に立ったり大人と話す機会に恵まれました。
地域に暮らす“高校生・大学生・社会人”が境界を超えて同じ空間に集う時間に多くの刺激をもらい、未知の世界に飛び込む勇気とその楽しさ、見えた世界から学び取る感動を知ると、「より広い世界、知らない世界を見てみたい」と思うようになりました。そこで、英語が大好きだったこともあったため大学を国際系の学部に進みました。
しかし実際入学してみると、離島の課題発見型の授業を機に私の知りたい世界は徐々にまちづくりへ移っていきます。
最初は興味本位だったのですが、課外活動として様々な離島を訪れたり取り組みに参画するなかで、それまで意識してこなかった地域にとっての私という存在に目を向けるようになりました。
大学、農家さん、行政、NPO、民間企業、個人まで、様々な立場の人たちが個々の想いを胸に複雑に関わり合いながら地域の未来に向き合う姿を近くで見て、地域のことが自分事に、自分事が地域のことに感じました。
私は社会にとって何なのか、社会にとって何でありたいのか。その先の世界に何があるのか。
私の知りたいと思う気持ちが高まると同時に、田舎の自然や伝統の美しさを知る幼い日の記憶が、目の前で起こる人口流出や後継者・継承者減少などの日本の社会課題をより強く意識させました。
「すべてあってこそ今がある」休学の一年間
といっても、大学生活のほとんどはあまり満足できなかったというのが正直なところです。実は、経済的余裕がなくて生活費と大学費用の貯金のために基本的にアルバイト漬けの毎日だったため活動できるのは半年に数日程度でした。
「もっとこんなことがしたいのに」
次第に自分がなんのために大学に来ているのかわからなくなり、つらい時期が続きました。
そんな思いが募りながら3年の夏が過ぎて大学のカリキュラムが落ち着きはじめると、経済的な余裕も出てきたためどうしても自分が自由に学ぶための時間とお金が欲しくなりました。
「このまま流れで就職活動をして社会人になるのは違う気がする。私が大学に来た意味を、私がつくらないとこの先絶対幸せになれない。後悔したくない。チャンスは今しかない。」
そう思うと同時に、自分の所属している学部でまちづくりを学ぶのには限界があると判断し、2019年3月、1年間の休学を決めました。
このときから「ほしい未来」と「ありたい姿」そして「地域にとっての私という存在」を本格的に探り始めました。
休学中は日本の様々な地を巡り、できる限り多くの人と出会いました。
特に思い出深い島根県海士町での3ヶ月間は、「失敗“だから”学ぶ」という経験が大きな成長を与えてくれたと感じています。
いつからか当たり前になっていた「自分のことは自分でしなければならない」「私はもっと頑張らなければならない」という意識は、無意識に自分自身に対する強い責任感と孤独感を植え付け、「失敗してはならない」という意識さえつくりあげていました。
海士町が与えてくれた “あえて失敗させる” という経験を通して、私の成長を温かく見守ってくれる存在と自分のリアルに向き合い、もっと周りを頼ってもいいんだ、自分一人でできることなんて限られているんだと強く感じました。そして、いかに自分自身を認めてあげるのが苦手なのかを痛感しました。
これは、失敗”だから”学べたことでした。
すると次第に2つのことに気づいたのです。
ひとつは、「自分に変化が起きている」こと。
私が今まで頑張ってきたすべては、自己犠牲という外的要因のもとで動いていました。自分の意志というよりは使命感に近かったように思います。しかし、大学生活を通してまちづくりの世界に触れ、いつの間にか「もっと知りたい、この世界で頑張りたい」という内的要因が今の自分を動かしていることに気づいたのです。
もうひとつは「すべてが繋がっている」ということ。
幼少期の美しい記憶、生きづらさを感じた時期、広い世界を知った高校時代、そして誰のものでもない私自身の意志と行動で見つけたまちづくりの世界。
今までは人生に起きた「単なる事実」としてだけ捉えていましたが、一つ一つが私とまちづくりの世界を繋げ、私がここにたどり着くまでの大切な要素だったことに気づきました。
そうして、私の意識はすべてあってこそ今がある自分という存在に、私自身が価値を与えようというふうに変わり始めました。
「地域事を自分事に、自分事を地域事に考えているならば、地域の価値は自分の価値のように輝いて感じられるだろうし、自分に価値を与えられる人間は地域にもきっと価値を与えられるはず。」「私は、私にとっても地域にとっても価値ある存在でありたい、そうなりたい。」
これが、わたしの「ほしい未来」であり、「ありたい姿」であり、「地域にとっての私という存在」に対する答えです。
だからまずは私自身がどうするか、どうなるか。私次第で私も地域も変わっていく。まさに「自らに由る」だと思います。
FoundingBaseとの出会い
休学生活が終わる頃、地域を巡った一年間を通してまちづくりに対する私なりの考え方が以下のようにまとまってきていました。
“「産学官民の連携」
「持続可能な取り組み」
「都会(都市)と田舎の関わり」
「自分のフィールドを持ちつつ、同じようにフィールドを持つ仲間が全国にいる仕組み」
この5つが必要であり、そういう組織のもとで働きたい。”
そしてこれを軸に就職活動をすすめた結果、出会ったのがFoundingBaseでした。
実際に様々なメンバーと話をさせてもらい、私のまちづくりに対する軸がすでに組織として体現されていることはもちろん、私と同じように自分のあり方とほしい未来を大前提として大切にしている姿勢に感動し、入社を決めました。
ビーチから目指す “ほしい未来”
現在私は大学に復学し、学問と両立しながら大分県豊後高田市にある「長崎鼻ビーチリゾート」の運営を行っています。
"またこの地に戻ってくるために、旅をする"と思っていただけるような場所を目指し、お客様ひとりひとりにその人にとっての感動体験をご提供できるよう日々携わっています。
たくさんの方と接する中で、自分とお客様そしてこの豊後高田に対して価値を見出し価値を生み出せているという感覚が肌で感じられるのは何にも代えがたい幸せです。
そして、同じように多様な価値を生み出す他拠点のメンバーと共に全国規模でまちづくりを行えている、私が間違いなくその歯車のひとつであると思える今と未来にワクワクは止まりません。
私のつくる私のほしい未来。目指すは「人々が創造的な時間と豊かな日々を自分の手で生み出し送れること」。ビーチから始める私と日本の未来を、この地に訪れてくれるお客様とともにつくっていきます。
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