インタビュー記事をご覧いただきありがとうございます。人事部の竹内です。
今回は、合計5メディア/1,000万人フォロワーを有する『StudyIn シリーズ』でもおなじみの、マーケティング部 本部長・清家雄也さんにインタビューしました。
清家さんは、社員がわずか4人だった時代に新卒でブルードに入社。会社の立ち上げから今日に至るまでを牽引してきた人物です。
普段はポップな印象を持たれることが多い清家さんですが、その裏側には「コミュ障」だった自分を変えるために、厳しい環境に自ら飛び込み続けてきた壮絶な過去がありました。
幼少期から大学時代、そしてブルード入社の決断に至るまで――「自分を好きになりたい」という一心で人生を切り拓いてきた清家さんの原点に迫ります。
Part1の今回は、清家さんがブルードに出会い、覚悟を決めるまでのストーリーをお届けします。
「自分の意見を出せる環境が、どこにもなかった」。控えめだった幼少期と、コミュ障の原点
ーーよろしくお願いします!まずは、清家さんの幼少期について教えてください。
よろしくお願いします。出身は大阪府堺市で、ブルードに入社するまで約20年間ずっと大阪にいました。
幼少期はめちゃくちゃ静かな人間でしたね。今こんな感じですけど(笑)。
というのも、父親がとにかく厳しくて、自分の意見を出せるような環境がなかったんですよ。やりたいことを言える場所がなかった。だから割と控えめな子供でした。
小学校ではあまりガツガツしないのが逆にクールに見えたのか、ちょっとモテてたんです。
ただ中学に上がった途端、女性が一気に大人びるじゃないですか。あの変化が自分の予想以上で、もう怖くて話せなくなってしまって。中学3年間で女性と話した回数は本当に数えるぐらい。男性ともそこまで得意じゃなかった。もう本当にコミュ障のコミュ障でしたね。
ーー今の清家さんからはなかなか想像できないですね。高校・大学ではどんな変化がありましたか?
脱コミュ障の最初の一歩は、高校で初めて彼女ができたことですね。
理系コースにいたんですけど、英語コースの女の子とひょんなことから出会って、勇気を出して告白しました。そこでちょっと自分に自信が持てた。ただ、彼女以外の人とはまだ全然話せないままでしたけど。(笑)
「逃げられない環境に飛び込むしかない」。脱コミュ障のために台湾留学を選んだ理由
ーー大学は関西学院大学に進学されたんですよね。なぜその大学を?
留学がしたかったんです。
当時見てた海外ドラマ「LOST」の影響で、英語を話せる人ってかっこいいなと思って。いろんなことを試してもコミュ障がなかなか改善しなくて、家に帰ると家族がいるし、結局逃げられる場所があるんですよね。
だからもう「逃げられない環境を作るべきだ」と思ったんです。留学なら話さないと生きていけないじゃないですか。それで留学に強い大学を探して、関西学院大学を選びました。……あと、好きな女優さんが兵庫出身だったっていうのも決め手の一つです(笑)。
ーー大学生活はどうでしたか?
めちゃくちゃ楽しかったですね。商学部に入って、ESS(英語研究部)という部活に所属してました。昼休みに外に集まって英語で話し合う活動をしていて、いろんな仲間もできて。
で、大学2年の時に1年間の交換留学に行ったんですが、行き先が台湾なんですよ。
ーー台湾?英語圏ではなく?
そうなんです。アメリカに行きたかったんですけど、交換留学のパンフレットを見たらアメリカはめちゃくちゃ費用が高くて。弟も大学に通うことを考えると、親に迷惑もかけられない。
でも英語力はESSの活動で結構伸びてきていたんで、じゃあ脱コミュ障だけを目的にもっと難易度を上げようと。第2外国語で韓国語を取っていた自分が台湾に行ったら、言語的に完全に不利じゃないですか。その「圧倒的に不利な環境」にこそ意味があると思ったんです。
ーーすごい発想ですね。自分の幸せについてずっと向き合ってきたんだなと感じます。
結構自分の幸せについて考えてましたね。どうすれば自分が幸せになるのかを考えた時に、お金とかじゃなくて、「自分のことを好きでいられること」が幸せに繋がると思ったんですよ。
で、自分が好きな自分って誰だろうと考えると、コミュニケーションが取れている自分だった。
学校のヒエラルキーってあるじゃないですか。僕は自他共に認める下の方だったんで、自分に対して嫌悪感を持ってた。幸せ度で言うと、0から100を目指すんじゃなくて、マイナスから0に戻すにはどうしたらいいか、という感覚の方が強かったです。
だからもう台湾留学は、マジで脱コミュ障のためだけに選びました。
街で声をかけまくり、毎日異なる人とコミュニケーション。台湾での壮絶な日々
ーー実際の台湾留学はどうでしたか?
もう面白かったですよ。国立台北大学っていう台湾の大学に行ったんですけど、あるのは新北市っていう場所で、英語もあまり通じない地域なんです。中国語を話せないとご飯を買うのすら難しい。韓国語しか勉強してないのに行ってるわけですから、もう生活するだけで必死でした。
で、僕がやったのは、毎日違う人と言語交換パートナーとして捕まえて、とにかくコミュニケーションの機会を作ること。どうやったかというと、街を歩いてる人に「日本好きですか?」って声をかけまくるんです。大体25敗して1人捕まえられるぐらい。海外だから自分の友達もいないし、失敗しても「あいつ逃げたな」って言う人もいない。だからちょっといけたんですよね。
正確に言うと、最初の声をかけるまでに5時間ぐらい街をうろうろしてるんですけど(笑)。
6時間のうち、最後の1時間でやっと声をかけられる、みたいな。あとは日本語教室にちょっと入って、さらっと日本語を話して「あ、ネイティブだ」って気づいてもらう作戦とか。ニーズがマッチするんですよね、向こうも日本語を学びたいから。
とにかく行動して、言語交換パートナーになってくれる人を見つけて、めちゃくちゃコミュニケーションしました。知らない人にナンパみたいに話しまくって。でもそうじゃないと本当に生きていけなかったんですよ、あの環境では。そこで多分、自分のコミュ障はある程度解消されたかなと思います。
帰国後は「無双状態」。ホテルベンチャーでのインターンと、もっと厳しい環境への渇望
ーー台湾から帰国した後はどんな学生生活を?
正直、無双状態でした。22年間で初めて自己嫌悪がゼロになった。自分を好きになれた瞬間で、何でもできる気がしたんです。
それで、いち早くインターンを始めました。関西ってその当時、インターンをしてる学生はほとんどいなかったんですけど、キャリアバイトみたいなサイトに登録して、ホテル系のベンチャーに応募しました。インターン第1号として入って、フル出勤で月4万円。掃除も受付もマーケティングも、全部やりましたね。
ーーそのホテルベンチャーには入社しなかったんですか?
しなかったです。いい会社だったんですけど、僕の中で「刺激が足りない」と感じてしまった。
僕は環境にすごく左右されるタイプなんですよ。台湾留学でそれを痛感してる。「遊びも仕事も」みたいな雰囲気だと、自分は遊びの方に寄っちゃうと思ったんです。
もっと獣のような人がいっぱいいるような、戦場みたいな環境に身を置かないと自分は変われない。例えるなら、甲子園優勝を目指すレベルじゃなくて、世界大会優勝を目指してるようなヒリヒリ感。そういう感覚の中で20代をベットしたいと思ってました。
リクルートの内定を蹴った理由。「7人目の社員」に見た、大企業のリアル
ーーそこから就活に入るわけですが、どんな軸で進めていたんですか?
軸は「突き抜けたい」。もうこの一心です。
マイナスからゼロになった自分を、今度はもっと上に持っていきたい。何者かになりたい。歴史の教科書の1ページに残るようなことを成し遂げたいみたいな、そういう大きなことを描いてましたね。
多分今の就活生からするとすごいあやふやな軸だと思うんですけど、僕はマジで「突き抜け」一心でやってました。
サイバーエージェントさん、リクルートさんなどの大手・メガベンチャーを受けて、内定もいただきました。ただ、僕はそこでは結構慎重だったんですよ。説明会に出てくる人事の方って、やっぱりキラキラ見せるのが仕事じゃないですか。利害関係もあるし、選ばれし人たちだし。
だから「現場で働いてる人のリアルを知るまでは解像度が上がらない」と思って、人事以外の社員にも会わせてほしいとお願いしたり、Facebookで直接連絡を取ったりして、各社10人ぐらいの現場社員と話しました。
ーーかなり徹底してますね。その結果、何が見えましたか?
基本的に、大手の人事の方はパッションがあるんですけど、現場の方はライスワーク的というか、「仕事は仕事」と切り分けてる人が多かった。
熱量を持って仕事に没頭している感じが伝わってこなかったんです。加えて、大手って仕組みが出来上がっていて、ポジションを埋めていくフェーズじゃないですか。10年後20年後の先がめちゃくちゃ見える。50歳ぐらいのAさんがいて、そこに収斂していくような人生。大切な自分の人生をそこに使うのは面白くないなと思いました。
ーーリクルートの内定を持っていながら入社しなかったのも、その延長ですか?
そうですね。選考が進む中で、リクルーターの方が「いろんな人に会わせてあげる」と言ってくれて、6、7人の社員と30分ずつ話す機会をもらったんです。
1人目、すごい。ギラギラしてて、突き抜けてるなと。
2人目、もうすごい。
3人目、ああはいはい、すごい。
4人目、はいはい……。
5人目ぐらいで「おお、そういうタイプの人もいるんだ」ってなって。
6人目で「おろ?」ってなって。
7人目で「なるほど」ってなったんですよ。
何が起きたかというと、大きな会社は仕組みが出来上がっているから拡張できる。でもその仕組みに甘んじて、突き抜けなくなっている人もいたんです。給料や福利厚生に安住するというか。僕は環境にすごく作用されてきた人間だから、自分も7人目の方に流されてしまうんじゃないかという不安が出た。
それで、メガベンチャーの内定を全部辞退しました。全部です。
ーー全部ですか。
全部。「仕組みができあがっている会社」じゃなくて、カルピスで言うなら原液100%の、濃度が最も高い環境に飛び込みたかった。大手に入って「すごい」と言われるのは、その会社がすごいだけで、自分がすごいわけじゃない。成長したいなら、自分の手で会社を大きくしていく方が圧倒的に効率的でベストだと思ったんです。
Skypeに映った代表の熱量。寝坊・スウェット姿の面談で「就活終わった」と確信した日
ーーそこからブルードに出会うわけですね。
はい。ベンチャーに絞り直して、「ベンチャー × 海外」で調べてポチっと押したのがブルードでした。正直、適当に押したんですよ(笑)。3日後ぐらいに「そういえばあったな」と思い出して、Skypeで面談を組んでもらいました。大阪と東京だったので。
で、当日ちょっと寝坊して。リクルートから内定もらってたし、ベンチャーだしまあ大丈夫でしょって完全になめてたんですよね。スウェット姿で、寝起きの状態でSkypeを開きました。
そしたら、1時間の面談が10分に感じるぐらいの衝撃を受けました。
ブルードに決めた理由は大きく3つあります。1つ目がミッションへの共感、2つ目がメンバーの熱狂、3つ目が成長環境です。
ミッションに関しては、僕自身が留学によって価値観が変わって、好きな自分に出会えた原体験があった。だからこそ「より多くの人に、グローバルという選択肢を」というブルードのミッションを仕事にできれば、自分が一番アウトプットを出せるなと思ったんです。大学時代のインターンでミッションドリブンで動くカルチャーを経験してたんで、ミッションに共感していることがどれだけ自分の成果に紐づくかは実感としてあった。
2つ目のメンバーの熱狂。当時は社員6人とかでしたけど、主要メンバー全員と話させてもらって、全員が自分の理想とする生き方をしてる人だなと感じました。スタートアップってミッションドリブンを掲げるところは多いんですけど、実際に話してみると、A4のコピー用紙にミッション書いて朝やる気なく朗読してるだけみたいな会社もあった(笑)。その中でブルードは、社長もメンバーも同じ熱量で語っていて、「本物のミッションドリブンだな」と。部活の強豪校みたいな密度の高い環境に飛び込んだ方が、大手みたいにいろんな人がいて自分がなりたくない人もいる環境より絶対にいいと思いました。
そして3つ目。面談で代表が「清家君、一緒に経営課題を解決しよう」って言ったんです。経営課題って、その会社の一番重要なことじゃないですか。それをまだ大学生の自分に、本気の目で伝えてくるんですよ。僕、コンプレックスがあった分、人のことをちょっと疑ってみるタイプなんです。営業トークで言ってるんじゃないかなとか。でも代表は、ガチで言ってるなと感じた。本気でユニクロやソフトバンクみたいな世界企業を今から作ろうとしているオーラがあった。この人が本気で新卒を育てようとしている、会社の重要な部分を任せたいと思っているんだと。ここなら成長できると確信しました。
面談が終わって、もう階段を駆け降りて母親に「就活終わった」って言いました。
ーーその日のうちに?
その日のうちに。パソコン閉じて、階段降りて、「就活終わった」って。
200億%の反対。完全アウェーの中で、最後に信じたのは「覚悟」だった
ーーでも冷静になると、社員4人の会社ですよね。不安はなかったですか?
ありましたよ。8時間寝て起きたら冷や汗が出てきた(笑)。ネイティブ英会話みたいな大きなメディアもまだなかったし、「あれ、社長しか知らんし、大丈夫かな」って。
でもそこでちゃんと考えたんです。ベンチャーに対する「怖い」「危ない」っていう漠然とした不安って、幽霊と同じで、正体がわからないから怖く見えるだけなんですよ。だからシミュレーションしました。
1年で潰れたとしても、第二新卒で全然いける。浪人もしてないし、1年の遅れは何も変わらない。
2〜3年で潰れても、その濃密な時間を武器にすれば転職できる。逆に大手に入って25〜28歳でベンチャーに行こうとしたら、パートナーがいたり、大手の給料や福利厚生に染みついたりして、むしろその時の方がリスクが大きい。
結論、「今行くリスク、ないやん」と。
ーー周囲の反応はどうでしたか?
もう200億%反対です(笑)。
両親がどちらも銀行出身で、大手志向がものすごく強い。ベンチャーの生存率が低いことを数字で理解してる人たちだからこそ、もう「バカだろう」ぐらいの勢いで反対されました。
東京に行く前の送別会では、親戚も含めてほぼ全員がアウェー。店の中で喧嘩みたいになりましたよ。大学の友達にも気を遣われるし、「ベンチャーの幹部として採用された」って格好つけたりしてました(笑)。
最後の最後に母親だけが手紙で「応援してるよ」と伝えてくれたのは覚えてます。
ーーそれでも決断を変えなかった。最後の決め手は何だったんですか?
覚悟ですね。
ベンチャーも大手も、行って成功してる人もいるし、失敗してる人もいる。数学みたいに唯一の正解があるわけじゃない中で、何がその明暗を分けるかって言うと、僕は覚悟だと思うんですよ。
「この選択肢を自分が正解にさせるぞ」という覚悟。
道を選んだだけで自動的に正解になるわけじゃなくて、自分の事後の努力で正解にも不正解にもなる。
もし周りの意見に従って大手を選んでいたら、うまくいかなかった時に絶対家族のせいにしてたと思うんですよ。大学内でのマウントの取り合いなんて1年で終わるけど、仕事は何十年もの生き方の選択。だから後悔のない意思決定をするために、覚悟を決めた。
結果を出すしかないと思ってました。
ーー実際、ご家族との関係はその後どうなりましたか?
これ面白い話があって。僕がブルードに入って数年経った頃、あれだけ200億%反対してた父親が、銀行を辞めてベンチャーに転職したんですよ(笑)。「あの時の言葉はなんだったんだ」って思いましたけどね。
でもこの経験で確信しましたね。自分の人生は自分で決めないと、誰も責任を取ってくれない。周りの人がどれだけ心配してくれても、どれだけ反対しても、自分の人生を一番考えているのは結局自分なんだと。あの時、自分の覚悟を信じてよかったなと心から思います。
こうして清家さんは、周囲の猛反対を押し切り、社員4人のブルードに新卒として飛び込みました。
コミュ障だった過去、台湾での壮絶な日々、大手の内定を全て蹴った決断力。その全ての原動力は「自分を好きになりたい」「突き抜けたい」という一貫した想いでした。
次回No.2では、実際にブルードに入社してからの仕事内容、StudyInネイティブ英会話の裏側、そしてマーケティング部 本部長としてどのように会社を牽引してきたのか。入社後の清家さんのリアルに迫ります。お楽しみに。