米澤 爽(Yonezawa Sayaka)
Contents Director/海士町team
2000年4月生まれ。神奈川県川崎市出身。駒澤大学法学部政治学科に入学。在学中は、鹿児島県喜界島でのボランティアや、島根県隠岐諸島にある、海士町にてインターンシップをするなど地域に飛び込んで活動をする。また、大学2年次に、”人と地域の関係づくり”イベントである九州移住ドラフト会議に参加。3,4年次は事務局として携わり、広報を担当。
2023年4月に新卒としてFounding Baseにジョイン。海士町の観光事業に携わる。
しっかり者の爽ちゃん
私は真面目な父と底抜けに明るく少し抜けてる母の元に生まれました。年子の妹がいることもあり、幼稚園の頃から「しっかり者の爽ちゃん」とよく言われていました。幼稚園のママ友たちに「今日うちの子どうだった?手紙は配られた?」など聞かれて、報告していました笑
今思えば、周りをよく観察する癖はここで養われたのかもしれません。
「しっかり者の爽ちゃん」と言われるのは、嫌いじゃなかったし、むしろ認めてもらえているようだったので好きでした。けど、いつも完璧でいる必要がある気がして、少しらしくないことをすると、「あれ、さやかちゃんらしくないね。珍しいね」と。いい子ちゃんの枠組みで生きていくことが子供の頃の私にとっては正しい道なのだと思うと同時に、少し息苦しさも感じていました。
いつからか人の顔色を伺いながら、自分の意見よりも周りの意見、争いを避けることを第一に考えるような子供になっていました。
そんな性格のままむかえた高校受験。私は県内の自分の実力より上の高校を目指しました。今でも忘れないのが、中学3年生の12月。大量の課題と冬季講習。朝から晩まで塾に行っては、帰宅後深夜まで課題、数時間寝てまた塾。という生活をしていたら、ある時、塾に行こうとした時、急に前が暗くなって次目覚めたら布団の上だったこと。学級委員もやっていた私は、学校の先生や両親、塾の先生、友達、親戚がただただ応援してくれているだけなのに、「この人たちのために合格しないと」と勝手に自分にプレッシャーをかけていました。結果、倒れるまで気づかないくらい追い込まれていました。受かることより、「この人たちをがっかりさせたくない」というプレッシャーと戦っていました。
そんな受験生活を乗り越え、なんとか無事第一志望に合格。
人生の分岐点だった大学受験
無事第一志望の高校に入学した私は、部活と大学受験に没頭します。実は、中学3年生の頃から、「まちづくりに関わる仕事がしたい」と思うようになります。そのためには、地域系の学部がある大学に行きたいと思い、高知大学地域協働学部を第一志望にしました。目標があったため、高校1年生の頃から受験勉強に勤しみました。そしてむかえた受験当日、神奈川からはるばる高知に前日入り。場所や教室を確認して、当日を迎えます。
結果は、不合格 でもなく、受験時間を間違えて、失格。今では笑い話ですが、当時高校3年生の私にとっては、心臓をナイフで刺されるように苦しく、涙っていつとまるの?と思うほど泣いた記憶があります。
あの「しっかり者の爽ちゃん」が受験時間を間違えた、、?塾の先生や学校の先生はみんな二度聞き状態でした。
大きな気づきを与えてくれた1通の手紙
そんな状況を知った祖母が、1通の手紙を送ってくれました。そこには、今でもずっと心に残っている程印象的な一文が記してありました。それは、「失敗”させられた”のです」という言葉でした。そこで私は大きな考え間違えをしていたことに気がつきます。
「私って、なぜ高知大学に行きたかったんだっけ」
まちづくりや地方創生に携わる仕事がしたいという夢があって、そのための手段として高知大学地域協働学部を志望していたはずでした。しかし、あまりにも高知大学を目指している期間が長すぎて、受験に夢中になりすぎて、「高知大学に行くこと」が夢にすり替わっていたのです。
「私の夢は、まちづくりや地方創生の仕事に携わることであって、高知大学に行くことが夢ではない」
そこに気がつくことができたので、夢が変わらないのであれば、理想としていた手段とは違うかもしれないけど、違う手段を選択するのもいいのではないかという考えになりました。抑えの大学は、行政からのまちづくりが学べるような学部を受けていたので、そちらに進学をしました。
祖母からの手紙にあった、「失敗させられる」という言葉。つまり、「この失敗には、今のあなたに必要な気づきがあるはず。」という意味だったのだと思います。
そこから私の中から「失敗」という言葉は消えて、「失敗から何かを学ぶことができたならそれは失敗とは呼ばない」という価値観が生まれました。
飛び回った大学生活
元々行きたかった高知大学はフィールドワークが多いことが魅力的だったため、自分でそれを補おうと、バイトをしては、様々な場所に飛び回りました。
そんな中、大学1年生の春休みに鹿児島県のあるゲストハウスに泊まりました。そこの女将さんは、親身にその日の鹿児島の工程を考えてくれて、マップにボールペンでおすすめスポットをどんどん書き込み、あっという間に自分だけの観光マップが完成。鹿児島が大好きな方で、女将さんに出会うとみんな鹿児島が好きになるような、そんな人でした。鹿児島に行くのは初めてだったのですが、初めて「この人に会いに、もう一度この地域(鹿児島)に行きたいな」と思いました。
「この人に会いに、もう一度この地域に行きたい」というのはどんな箱物を作るよりも、継続的に人が地域に会いにきてくれるきっかけになるのではないか。そう思うようになりました。
大学2年生の時、女将さん経由で知った、「九州移住ドラフト会議」という”人と地域の関係づくり”をするイベントに出会いました。まさに鹿児島で「人と地域の関係がつくられた」経験をした私はこのイベントに参加し、その面白さにハマり、大学3、4年生時は事務局として携わらせてもらいました。
九州の各地域で活動をするプレイヤーの方々と沢山出会う中で、「私もこんな面白い大人になりたい!ワクワクするようなことをしたい!」と思い就職活動を始めます。
Founding Baseとの出会い
就職活動を初めて、”まちづくり”というキーワードで探していました。当時塾でアルバイトをしており、教育に対する塾ではどうにもできない課題、教育の面白さも感じていた私は、「まちづくり×教育」をしているFounding Baseに興味をひかれました。そんな中で私がFounding Baseに入社を決めた理由は2つあります。
1つ目「自由」をUpdateするというMission
失敗から学び、今後の自分に活かすことができたら、それは失敗ではない。自分がその後どう行動していくかの方がよっぽど大切なのだということを学びました。
そんな中、Founding Baseの「自由」とは、「自らの意志に由って今があり、自らの意志が未来を創る」「自ら選択した今を愉しみ、今に没頭し、未来に可能性を開拓する」という意味合いがあります。それが自分の中での経験から創出された価値観と重なり、入社を決めました。
2つ目「この人たちと働きたいと思った」
就職活動をしている中で”一緒に働く人”を大切にしたいと思い、就職活動を進めていました。Founding Baseでも入社前に何人かの方とお話をさせていただく機会がありました。その際、地域の課題に向き合い、打ち手を打ち続けるお話や、大変なこともきちんと話してくれました。大変な話をしているのに、なぜか楽しそうにワクワクしているのが画面越しに伝わってきて、「ここで一緒にこの人たちと働きたい」そう思い入社を決めました。
地域としてと、自分としての未来
地域として自分が成し遂げたいこと、そして、自分のありたい姿があります。
地域として成し遂げたい事は、「自分の地域の未来に期待を持ち、語る人を一人でも増やすこと」です。私はもともと自分の地域に対して”地域愛”のようなものは持っていませんでした。もっていないというか、考えたことがなかったというのが正しいかもしれません。人口150万人の都市に住んでいると、自分がその地域の一員なのだという実感が薄かったように感じます。しかし、ゲストハウスの女将さんとの出会いを筆頭に、大学生活の中で色々な地域に行き、時に地域で働いたり、様々な方々と話をする中で、自分の地域を好きな事、思う事の尊さに気がつきました。そしてそのような人たちの特徴として、自分の地域の未来に対して、期待をし、未来を語っている姿が印象的でした。そもそもそれがどのように生まれるのかを考えた時、「自分の地域にポテンシャルを感じる瞬間」や「外から人が来ること」が自分の地域を再発見したり、見え方が変わる瞬間から生まれていました。そのような瞬間を創れるように、まずは海士町のグランピング施設の運営を切り口に実現に向けて頑張ります。
個人としては、「パワースポットでありたい」ということです。
自分が挑戦をしていたり、何かを頑張り続けていることが、誰かにとっての原動力になっていることが、私の原動力です。綺麗事に聞こえるし、言葉にするとすごく薄っぺらいけど、自分の大切なひとたちには、幸せでいてほしいし、笑っていてほしい。自分の挑戦が誰かの原動力になり、それがまた私の原動力になる。そのために自分自身が変化をし続け、アップデートをし続けられる人間でありたいと思っています。