はじめまして。
株式会社CROSSTOKYOの代表の溝橋です。
前編では、「幼少期の記憶、そこから生まれた原体験、社会人として様々な壁を乗り越えてきた挑戦の数々」について。
後編では、「CROSSTOKYO創業に至るまでの経緯、そして、私たちが目指す未来」についてお話させていただければと思います。
ぜひ、最後までご覧ください。
幼少期の記憶 - そして決意。
私の原点は、決して裕福とは言えない家庭環境にあります。
3歳か4歳の頃、食卓で両親がお金のことで言い争っていた光景は、今も鮮明に記憶に残っています。
決して「ひねくれていた」わけではありませんが、周りの家庭との違いを敏感に感じ取り、どこか負い目のようなものを抱えていたのかもしれません。例えば、誕生日におもちゃを買ってもらえなかったり、友達が持っているゲームソフトを持っていなかったり。友達を家に誘いたくても、狭い我が家を見られるのが恥ずかしかったり。
そして、小学校3年生の時、両親は別々に暮らすようになりました。
離婚はしていませんが、今思うと私の心には常に不安が付き纏っていたと思います。
中学3年の決意 - 自立したい。
中学校3年生の進路相談で、父は先生にこう言いました。「家にお金がないから、手に職をつけて働いてもらわないといけない」。そのため、進路の選択肢は工業高校一択でした。
経済的な状況から早く自立したい。それが当時の偽りのない想いでした。
高校時代、私の心は常に「卒業したら働く」という目標に向かっていました。振り返れば、昔から目的意識が強い子供だったのかもしれません。明確な目標があれば、信じられないほどの集中力と情熱を持って取り組むことができる。しかし、そうでないことに対しては、なかなか心が動きませんでした。
そして、高校卒業を間近に控え就職活動が始まりました。
工業高校では、指定校推薦で大学に進学する生徒もいますが、約7割は就職を選びます。学校に寄せられた求人の中から、私は川崎重工業株式会社を選びました。
原点 - 工場勤務、そして見えた「違う道」
高校卒業後、社会人として待っていたのは、流れ作業の中でひたすら中型エンジンのステンレス部品を製造する日々でした。 毎日決められた工程で同じ部品を100個作る、単調な繰り返し作業。その中で、私は将来について深く考えるようになりました。
「60歳、65歳まで働いても、年収はほぼ決まっている。もっと自分の可能性を試したい。もっと、稼ぎたい。」
給与を上げる方法は、残業、夜勤、そして役職に就くこと。
しかし、高卒で入社した場合、役職に就けるのは最短で36歳。18歳で入社した私にとって、36歳は人生の大きな節目です。そして、その役職は「班長」。班長の上に職場長がおり、たとえ私が天才的なエンジニアだったとしても、 その当時はその上の係長までしか昇進できないというルールがありました。
男の子なら誰しも、「いつか年収1000万円を稼ぎたい」という夢を抱くのではないでしょうか。しかし、係長になっても年収1000万円に届くかどうか。自分の努力だけでは年収を大きく変えることができない現実に、打ちのめされました。
そこで「大学に行こう」と決意し、2年目は仕事をしながらお金を貯めて、大学受験を始めました。
大学時代 - 貪欲に経験を積んだ日々
2年の浪人を経て掴んだ念願の大学生活。「少しでも多くの経験を積み、自分の武器を増やしたい」。その強い想いが、私の大学生活の原動力でした。
入学当初、公認会計士の資格取得も視野に入れ、説明会に参加したこともありました。しかし、「4年間、猛勉強してようやく受かるほどの難関資格」という話を聞き、2年の浪人を経てようやく入学できた私は、「今からまた4年間も勉強漬けの生活は難しい」と感じました。そこで、大学の4年間を有効に活用し、様々なことに挑戦することを決意。
ーアルバイトで開花した才能
大学時代、私は複数のアルバイトにも挑戦しました。某有名飲食店での勤務に加え、大手通信業界の営業にも携わりました。
営業では、「お客様に最適な提案をするためには、まず自分が商品について深く理解しなければならない」と考え、家電量販店で一日中家電について学ぶなど、徹底的に知識を吸収しました。お客様のニーズを丁寧にヒアリングし、最適なプランを提案する。その結果、営業成績は飛躍的に向上し、3年目には2度も日本一の営業成績を収めることができました。
さらに、NTT西日本主催のイベントに 所属会社の代表として招待され、 参加者全体にプレゼンする機会までいただきました。 プレゼンの際、スティーブ・ジョブズの言葉を引用し、「蛇口をひねれば水が出るのに、人々はミネラルウォーターを買う。良いものにはお金を払うのだ」と語り、この思いは今も変わらず大切にしています。またこれらの経験を通して、私は営業の面白さを実感できました。
ーバックパッカーとして世界へ
大学時代、私はバックパッカーとして、世界各地を旅しました。
大学1年の冬には、50万円の所持金で30日間、 ヨーロッパを反時計回りに周遊しました。そして、大学4年の夏には、 45日間の旅で1度目に訪れることができなかった地へ。異文化に触れることで、語学力だけでなく、臨機応変な対応力、そして何よりも「世界の広さ」を実感することができました。
「人間の発想は、見たものから生まれる」。そう考える私は、新しいものを見ることの重要性を強く感じています。視覚情報から得られるインプットは、発想の源泉。様々なものを見ることで、自分の内なる世界を豊かにすることができると信じています。
実際に、2024年2月に10年ぶりに仕事でスペインのバルセロナを訪れ、その後3日間、マドリードとドイツのミュンヘンを訪れた際、私は再びその感覚を強く実感しました。新しいものに触れることで、自分の中に新たなストックが蓄積されていくような感覚。それは、良いもの、見たことのないもの、そして新しい人々との出会いを通して得られる、かけがえのない経験です。
大学卒業後 - 挑戦と成長の奇跡
ー野村證券株式会社
大学卒業後、1社目は野村證券を選びました。
入社式で告げられた配属先は、新宿野村ビル支店。そこは、中小企業のオーナー様に対して、金融商品やM&A、事業承継などを提案する支店でした。
新宿野村ビル支店は、私にとって特別な場所です。野村證券の中でも、全国で優秀な成績を収めた、いわば「スーパースター」が集まる支店。私は、「ここで3年間、全力で頑張ろう」と決意しました。
しかし、野村證券には、 一定期間で必ず転勤になるという当時の決まりがありました。「新宿から地方」に行く、そのキャリアパスに疑問を感じ転職をすることを選びました。
ー株式会社サイバーエージェント
野村證券を退職後、サイバーエージェントへ転職。
所属部署は、インターネット広告事業本部。ここでは、様々な実績と、成果を認めていただける機会に恵まれました。
サイバーエージェントでは、 「マーケティング」「チームで戦うこと」「顧客ファースト」という、ビジネスにおいて重要な3つの要素を学びました。
サイバーエージェントが誇る、最高の戦略チームやクリエイティブチームと共に仕事ができたことは、大きな喜びでした。しかし、充実感を感じる一方で、一通りの経験は積めたと感じるようになり、更なる成長を求めて、新たな環境に身を置きたいという気持ちが芽生えるようになりました。
また、2019年4月に子供が生まれたことも、転職を考える大きなきっかけとなりました。この競争の激しい東京で、愛する息子に最高の教育を受けさせるためには、自分の年収を上げるしかない。そう考えた私は、新たな環境を求め、転職を決意。
ー株式会社セールスフォース・ジャパン
セールスフォース・ジャパンでは、仕事の根本となる重要なことを学びました。クライアントの期待値 の言語化、 「SSM×フェーズ」の概念、「THE MODEL」というセールス手法。これらの学びは、 特に上司からの影響が大きかったです。
セールスフォースは、私にとって非常に魅力的な会社です。
野村證券やサイバーエージェントでも色々なことを学ばせていただきましたが、 セールスフォースの営業スタイルを見たとき、“稲妻が走った”ような衝撃を受けました。「これが営業か!」と。
セールスフォースの「フェーズ×SSM」という概念、そして「THE MODEL」という洗練された営業手法。それらは、私にとって衝撃的な出会いでした。
それまでの私は、話術や先輩に可愛がられること、そして勢いだけで営業をしていたと言っても過言ではありません。
H.R.I株式会社 代表取締役に就任
H.R.I株式会社の 創業メンバーとは、東京にきてからの飲み友達でした。
ある日、その1人から「今何やっているの?」とfacebookで声をかけていただき、 コロナショックからの立て直しのための「売り上げ利益の最大化」をミッションに初めは業務委託として関わることになりました。
営業コンサルタントとして参画したのですが、初月から大きな成果を出すことができ、翌月に正式なオファーをいただき、2020年9月にH .R.I株式会社の代表取締役に就任しました。
H.R.I株式会社に参画した4期目のタイミングでは、会社始まっての初めての赤字決算という厳しい状況でした。
そこからの2年間でYonY150%以上の売上成長と黒字転換を達成。また2022年6月末に株式会社ディルバートにM&Aでグループイン。
これらの経験を経て、私がCROSSTOKYOを創業するに至った背景については、後半部分でお伝えしていきます。ぜひそちらの記事もご覧いただければ幸いです。