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地域は今、言語聴覚士を求めています!!
毎年誕生する言語聴覚士の数。およそ1600人~2000人。 PTOTSTNET参照。言語聴覚士の活動拠点として、約75%が医療分野、約9%が老健や特養などの福祉施設となっており、在宅分野では16%と需要があるにも関わらず、まだまだ人手が足りない状況です。今、「病院から地域へ、施設から在宅へ」と医療の体制が大きくシフトしていこうとしています。その中で、言語聴覚士(speech therapist=ST)は、在宅・地域医療において重要な役割を担っています。従来の医療分、病院だけでなく在宅・介護分野での言語聴覚士の需要が...
私が終末期に惹かれる理由VOL.1
こんにちは、RASHIKS代表田中です。今日は、何故私がこれほどまでに終末期に惹かれるのか、私なりの死との接点についてそして、今後の在りたい姿についてお話します。私は36歳です。これまでに見送った人は多くありません。ましてや、亡骸と対面した事は人生で2回しかありません。私が生きる今日。多くの命が誕生するのと同じように多くの命がその灯を消しています。命の誕生と命の喪失なぜ、同じ命なのにこれほどまでに生と死に心理的距離を感じてしまうのでしょうか。「死」とはある程度の距離感を置いて過ごしたい、過ごしてきたというほうが正しいかもしれません。でも、死は自然の営みの一部ですし、忌み嫌い遠ざける必要も...
【余裕がもたらす人生の豊かさ】
自分の会社を作るにあたり大切にしている事は、仕事以外の時間を充実させる事を大切にして欲しいという想い。仕事は人生の一部ではあるかもしれないけれど、仕事だけが人生の全てではないと思っている。それが、子どもと向き合う人もいれば、老いた親と向き合う人も、趣味や続けてきたライフワークと向き合う人だったり、人それぞれ。人生を彩る、人それぞれの楽しみが十分に堪能できる時間を確保する事は代表として大切な役割でもあると考えている。ここからは、私の場合。私自身、子育て世代の真っ只中。私が人生で1番後悔したくない事は、子どもと過ごせる限りある貴重な時間が充分に取れない事...
起業を志した理由
起業の決断に大きな影響を与えたきっかけが2つあります。一つは従兄の急死です。37歳でした。瀬戸で土木会社を営んでいた従兄は豪快な性格で周りにはいつもたくさんの友人に囲まれていました。彼の葬儀に詰めかけたあまりにも多くの人の数に、彼の偉大さを感じました。ある時、「一成も人生に一度は独立して組織の頂点に立った方が良いよ。そこからでしか見えない世界があるから」と一緒に食事をした帰りがけにボソッと言った彼の言葉が彼亡き後、ダイニングメッセージのように私の頭の中からずっと離れませんでした。もう一つは子供の誕生です。子どもが大好きな私にとって、彼等との時間はとても幸せな時間です。仕事よりも優先して一...
RASHIKS|らしくす
【RASHIKS|らしくす】社名の「RASHIKS|らしくす」は”らしく“+複数形Sを合わせた造語です。 人が輝いて見える時、それは、自分らしく生きる事ができる時ではないかと思います。 そして、あなたらしく生きて欲しいと心から願う周りの存在もとても大切です。 障がい・病・加齢。ライフステージが進むにつれ立ちはだかるもの。 それぞれを受け入れ“らしく”生きる人たちを支えたい。 らしく生きる人が波紋のように広がる。そんな想いを社名に込めました。会社のロゴには3つの◇が重なっています。それぞれ、過去―現在―未来のシート、つまり、一人の人の人生を表しています。私たちが関わる方の多くは、病を抱え、...
待ったなし!!2030年看取り難民
「自分の最後をどこで迎えるか」高齢社会=多死社会。2030年には47万人にも達する見込みといわれている死に場所のない「看取り難民」。つまり、終末期のケアが受けられない方の数です。47万人は全死亡者数の28%にあたるとされ、その受け皿をどうするかが深刻な問題となっています。厚生労働省が期待するのは、自宅や介護施設で看取る「在宅医療」の充実です。しかし、多くの方が在宅での最期を望んでいながら、現状では多くの方が願う在宅での最期はかないません。自宅での看取りを可能にするためには2つの大きなハードルがあると言われています。1つ目は、同居する家族の存在です。看取りの場には家族がいる必要があります。...
代表あいさつ
高齢者・障がい者の新しい生き方が明日を生きる子ども達へのGIFTとなる。 RASHIKSは、私自身の人生を振り返ると偶然ではなく必然な流れの中で生まれたように感じます。そのストーリと私の願いを皆様にお伝えします。 私は母子ともに危険な状態でこの世に生まれました。 私の出産がきっかけとなり障がいを持った母。 私の幼少期は「どうせ僕なんか生まれてこなければ良かった」と自分自身を責め続けた日々でした。色々な人との関わりのなかで、「自分らしく生きる」ことを肯定できるようになったのは学生になってからでした。私に理学療法士という仕事を教えてくれたのも母でした。 私が理学療法士を志したのは、身体を...