こんにちは、RASHIKS代表田中です。
今日は、何故私がこれほどまでに終末期に惹かれるのか、私なりの死との接点について
そして、今後の在りたい姿についてお話します。
私は36歳です。
これまでに見送った人は多くありません。
ましてや、亡骸と対面した事は人生で2回しかありません。
私が生きる今日。
多くの命が誕生するのと同じように
多くの命がその灯を消しています。
命の誕生と命の喪失
なぜ、同じ命なのに
これほどまでに生と死に心理的距離を感じてしまうのでしょうか。
「死」とはある程度の距離感を置いて過ごしたい、過ごしてきたというほうが
正しいかもしれません。でも、死は自然の営みの一部ですし、忌み嫌い遠ざける必要もありません。
小学校から死についての教育が少しずつ始まっていればな、なんて思う事もあります。
私自身小学生の頃より、母から「人は生者必滅、会者定離。日々の出会いに繋がりに感謝しなさい」という言葉を聞かされてきました。
言葉の深くまで読み取るには小学生の私にはまだ理解出来ず、夜寝る前にいつか必ずこの息が絶える時がくることを想像すると、恐怖で胸が押しつぶされそうになりその不安から大声で叫び不安を掻き消したくなるような夜を思い出します。
実は、アメリカではすでに5-6歳から少しずつ死の教育がはじまっているようです。
もしこのような教育を日本でも受けていたら少しは違った解釈が出来たのかもしれません。
何故人は『死』に対して恐怖を覚えるのでしょうか。
自分という存在が無になるようで私は怖いです。
その一方で、子どもや家族、誰かの思い出の中に生きれたら
それだけで、自分がこの世に生きた証が残るようにも思います。
それだけで十分なのかなと最近は思っています。
今ある命を精一杯生きるというフレーズもあまり好きではありません。
なんだかいっぱいいっぱいになりそうで。
生きる事が窮屈になってしまいそうで。
そんな四六時中精一杯生きられない自分も
また、自分なのだと受け止め許してあげる事。
そんな余白も残して生きたいと思っています。
話は大分それましたが
私が作り上げたい組織は、テーラーメイド終末期の支援です。
訪問診療、訪問看護、訪問リハビリ、ヘルパー
死が間近に迫った終末期。
だからと言って特別な事は無く、日々淡々とその日まで暮らしが続いていくのだと思います。
だからこそ、その暮らしを丁寧に汲み取り寄り添い支えたい。
今は訪問看護ステーションのみの運営です。
まずは、志を同じくした医師と共に診療所を立ち上げたい。
『死』をより豊かなものとするため一緒に行動起こしてくださる方
この指とーまれっ。
24時間お待ちしております(笑)