株式会社DRIXは、採用支援から事業を広げ、組織と個人の新たな未来を作り出すことを目指している企業です。その成長を支えるキーパーソンの一人が、取締役を務める長谷川陽一さん。大学在学中の参画から始まり、DMM社へのバイアウトを経験し、今は取締役兼HR事業責任者として邁進中――その歩みには、常に「必要とされる役割を自ら見つける」という姿勢がありました。
本記事では、学生時代に入社したインフラトップ社で起きた組織崩壊から、DMMグループへのジョイン時に、コロナウイルスが与えた思いも寄らない出来事などのハードシングスを駆け抜けたこれまでのキャリアをすべて深掘り、ご紹介いたします。
長谷川陽一 / 取締役 兼 HR事業責任者
大学在学中にベンチャー企業であるインフラトップ社の創業期に参画。セールス責任者やプログラミングスクール事業の要である人材エージェント機能の立ち上げを経て、その後のバイアウト時には大阪拠点の立ち上げも実施。DMM子会社の社長室として企業全体の課題を俯瞰するポジションも経験。現在は株式会社DRIXの取締役として、経営に携わる。
大学生から本格的にビジネスの世界へ──ゼロから築いた営業体制
ーーまずは、大学在学中に参画したインフラトップ社について教えてください。
プログラミングスクールを運営していて、DRIX代表の長谷川優ともう一人の方で創業された会社だったのですが、軽いノリで長谷川優に口説かれたのが入社のきっかけでした。僕は理工学部の大学生で、父がエンジニアということもありプログラミングに親しみがあったんです。それと同時に、自分でイベントやバーを運営していた経験から、営業には自信があって。
当時はプログラミングスクールを学生向けに展開していて、僕は紹介営業を任されました。ポイントは「どうすればこの人が僕に協力してくれるか」を徹底的に考えること。相手の背景や本当の動機をつかんで寄り添うことで、自分が動かずとも周囲が人を連れてきてくれる仕組みを作れたんです。月200名ほど新規の方にお会いして、そこから受講につながるケースを生み出したり、逆に紹介側に回ってもらうなど、多くの人を巻き込むことを意識していました。結果的に常にトップセールスとして成果を出しており、2位とはダブルスコアの成績をおさめていました。
おこがましいですが、私は人のインサイトや動機を深く考察し、どういうタイプか、といった人のプロファイリングをすることが割と得意だったので、このような成果を上げることができたのだと思います。
ーー大学生とは思えないほど、本格的な営業活動ですね。
今振り返ると、当時大学1-2年生だったのでよくあの若さでやっていたなと思います。(笑)ただ、まだまだプロダクトアウト寄りのサービスで、事業自体は不安定でしたし、やる気と根性だけで進めていた部分もあり組織的にも崩壊寸前になった時期がありました。一時はメンバーが40人くらいいたのに、数名まで減るという危機的状況だったんです。
しかし、その機会からさまざまなことを学び、サービスの方向転換が進みました。学生向けのサービスから社会人向けのサービスに方向転換し、これまでの紹介営業という手法も大きく変え、サービスブランドを磨き込み、よりマーケティングに力をいれることとなりました。私はマーケティング担当が獲得したリードを受注までもっていく領域を担当することになりました。営業責任者としてその仕組みづくりに深くかかわりつつ、サービスへのフィードバックも行い、新たな集客チャネルの開拓と同時に、学んで終わりだけではなく、学んだあとの「転職保証コース」など新たなサービス形態の開発にも携わっていました。
組織体制とサービスの変革へ
ーー組織崩壊からさまざまなことを学び、組織もサービスも大きく変化したのですね。
そうですね。サービス対象を「学生から社会人へ」という事業ピボットと、それに伴うマーケティング / セールス施策の変更。また、当時業界では初の「転職保証コース」も用意するといったさまざまなことを一気に進めていった時期でした。
また、転職保証コースを用意する=人材紹介業としても機能をさせる必要があったため、企業開拓からキャリアアドバイザー育成なども任されていました。
ーー転職保証など新しいプランも打ち出されましたが、導入当初は大変だったのでは?
大変でしたね。転職できなければ受講料を返金するわけですから、当時としてはかなり挑戦的でした。転職保証コースとは別の、もともとあった学習コースのセールスは通常通りしつつ、人材紹介業の立ち上げを同時にしなければいけない環境は今考えてもなかなか刺激的でした。
ただ、大変だった半面、売上やサービスの反応がダイレクトに返ってくる喜びは大きかったですね。この時期、私は大学4年生の代でまだまだ若い年齢でしたが、このような時期からここまで仕事を任せてもらい、さまざまなことを学べたのはキャリアの資産としても大きく、長谷川優含む、当時の創業者2名には感謝しかありません。
DMM社へのバイアウト――そして、大阪での新たな挑戦
ーーその後、DMM社へのバイアウトが決まったのが大きな転機になったそうですね。
会社としての評価が高まり、私たちが展開していた社会人向けプログラミングスクール事業を全国に展開してほしいというオファーをいただいたんです。特に大阪に拠点を作る話が進んだので、拠点立ち上げに伴い大阪に出向くこととなりました。当初のミッションは「2年で東京と同レベルの売上を出す」と任されていたのですが、せっかくなら1年でやってみようと決めて、走り抜けました。
大阪は企業の開拓もゼロスタートでしたし、東京の業務を並行して見る必要もあって、週の半分は東京、半分は大阪という生活でした。それこそ月曜に東京、火曜も東京、水曜の終電で大阪へ移動し、土曜の終電でまた東京に戻る……というスケジュールを数カ月続けていました。でも、やることが明確だった分、仲間と熱量を合わせて一気に開拓できたんだと思います。
ーー数百社にわたる企業開拓もあったと伺いました。
1年間で400社以上は開拓しましたね。本当に突撃訪問とか、手土産を持って5分だけ時間をもらうとか、そんな地道な活動を積み重ねました。加えてセールスの仕組みを整え、優秀な同世代を採用して組織化していく。最初は自分ひとりで動いていたのが、軌道に乗り始めると各ポジションのメンバーが力を発揮してくれるようになって、結果的には言い渡されていたミッションを半分の期間である1年で目標を達成することができました。当時、大阪というエリアにおいては受講生数No.1を取れたので自分にとっても大きな自信に繋がりました。
何よりインフラトップ立ち上げ期に身につけた「周りを巻き込みながら仕組みを作る」というスキルはここでも非常に活きたと感じます。大きな看板の下にいるからこそ使えるリソースと、自力で開拓してきたノウハウを掛け合わせる面白さがありました。
DMMグループ子会社の社長室を経てDRIX 取締役へ──あらゆるハードシングスを糧に“ドリバーを増やす”
ーー東京に戻ってからは社長室に配属され、横断的に会社を改善する役割を担ったそうですが、どんな業務をしていたのでしょうか?
一言で言うと「自身で課題を見つけて、自身で解決する」ことが仕事でした。”ミッションすら自分で決める”というミッションです。そこでまず注力したのが情報の可視化でした。たとえば各部門でバラバラにデータを管理していたので、経営層がほしい数値を出すのに1週間かかる――実はこんな状況がずっと続いていました。ですので、CRMやMAなど必要なツールの導入 / 整備し、アシスタント業務を削減して利益率を上げるなど、組織の生産性向上を目指しました。現場からは抵抗もあったかと思いますが、会社全体で利益率を高めるには避けられない改革だったと思います。
ーーそれを経て個人事業主として採用コンサルを始められ、最終的にDRIX 取締役へ就任。今のモチベーションの源泉は何でしょう?
スクール生のキャリアアドバイザー対応やDMMグループで働いて分かったのは、「世の中には仕事を楽しんでいない人が一定数いる」ということでした。僕は両親が仕事を楽しんでいた姿を常に見て育ったので、仕事って本来は楽しいものだと思っていたんですよ。もちろん自分が働いていた時もまったく同じ感情でした。でも、現実には組織と個人のミスマッチで苦しんでいるケースが少なくない。DRIX創業当時から「ドリバー(本能的に、夢中に生きる人)を増やす」というミッションは変わっておらず、今だにこの想いは強くモチベーションの源泉としてあります。
ーーなるほど。ここまで振り返ってみると、驚くほど早い年齢からいろいろな経験を重ねてきた印象があります。改めて当時を思い返すといかがですか?
自分でも忘れている部分も多かったので、こうやって振り返ると、意外と若い頃から突っ走ってきたんだなあと再認識しました。今は30歳を越えて、少し落ち着いた気持ちになっていますけど、当時は本当に何が起こっても「とにかくやってみよう!」というアグレッシブさがありました。
結果としていろんなターニングポイントを乗り越えられたのは幸運でしたし、その都度何が足りないかを考えて行動できたことが大きかったと思います。誰に指示されるわけでもなく、自然と「自分はどの役割で戦えばいいのか」を探していたんですよね。
ーー若くしてさまざまな経験をされたことを踏まえて、教訓となっていることはありますか?
大きくは2つあります。ひとつは「常に先回りをし、ベストな施策を打てているかを考える」ということ。月並みなことに思えるかもしれませんが、私はこの教訓を嫌というほど突きつけられた経験があります。それは、DMMグループにジョインした直後のことでした。皆さんも記憶に新しいと思いますが、コロナウイルスが流り、その影響でほとんどの企業が採用をストップしてしまったんです。私たちは「転職保証付き」のプログラミングスクールを運営していて、もし転職できなければ返金まで行うというところまでカバーしていました。そんな中、採用できる企業が1/10程度に減ったため、当時心の底からゾッとしたことを覚えています。さすがにコロナウイルスのようなものを予測することは無理だと思いますが、この経験から、少しでも先のリスクを見定め施策を打つということを大切にするようになりました。
また、もうひとつは「思考に制限をかけず、とにかくわからなかったら相談をする」ということ。DMMグループにジョインして感じたことは、圧倒的に優秀な人が世の中にはゴロゴロいるということ。自分では考えつかないようなことも当たり前のように思いつき実行している方が周囲にたくさんいたので、そういった方へすぐに相談ができる環境がありました。これまでは、自分たちでなんとしても道を切り開くといったストロングスタイルでやっていくのが当たり前だったのですが、世の中には本当に優秀な方がいて、そういう方へ相談するインパクトの大きさを知れたことは自分に本当に良い経験となりました。
ーー最後に、DRIXで働く魅力やメリットをどう捉えているのかを教えてください。
フェーズやポジションの魅力のようなものはもちろんあるのですが、月並みなことなのであえてここでは「現場の気持ちがわかる経営陣がいる会社」という表現をさせていただきます。僕自身、ずっと最前線で営業をしてきたし、代表の長谷川優も含めてスタートアップの酸いも甘いも経験してきました。だからこそ、どうすれば人は成長し、充実感を得ながら成果を出せるのかを自分の体験を踏まえて考えられるんです。たとえば、漫画キングダムの主人公、信のように、自身ももともとは農民だったからこそ農民の気持ちがわかる、みたいな。上から押し付けたり、根性論などで教育をするのではなく、段階的に成長ができるようなサポートをする。意外とカリスマ性でトントンと上がってきている会社も少なくなく、「なんでできないの?」というコミュニケーションだけがうまれ、双方にとってメリットがない状況がうまれることも珍しくありません。結局のところ、「いかに夢中になれるか」が仕事の鍵だと思うので、それを根性論などで伝えるのではなく、あらゆるハードシングスを乗り越えてきたから伝えられることが必ずあり、夢中で働ける環境に身を置けることが最大のメリットだと感じます。
少しでも「ドリバーになりたい」「ドリバーを増やしたい」と思っていただけましたら、ぜひお気軽にカジュアル面談へ進んでみてください。
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