バチェラー・ジャパン / インタビュー出演(バチェラー関連)
<4代目バチェラー黄皓インタビュー>「バチェロレッテ」で感じた後悔と決意 理想のパートナー像、判断基準を明かす「選ぶ側は苦しかった」 | modelpress
再び旅に挑もうと決意した理由、選ばれる側から選ぶ側になって実感したこと、求める結婚相手の理想像などお話しました。
Discover companies you will love
ミラーフィット株式会社 / 代表取締役
1986年9月23日生まれ。10代で中国から来日、早稲田大学を卒業後、大手商社での勤務を経て、独立・起業。スマートミラーデバイスを活用したオンラインフィットネスサービスを提供する会社、サブスク型パーソナルジム・エステを運営する会社、上海を拠点に主にアパレル関係の貿易と物流の会社の3社の代表を務めています。ファッションや車、アートも好きです。
見たことのない景色を見たい。実業家として名の通った人はたくさんいるけれど、タレントと実業家の両軸で大きく成功している人はそう多くありません。僕はその両方で結果を出して、幅広く成功する人間になりたいと考えています。それがかっこいいのかどうかは果たしてわからないけれど、これからも欲張りに頑張りたいと思います。死ぬ直前の走馬灯の時間が足りなくなるような濃い人生を送りたいです。
"真実の愛"を見つける
1人でも多くの人に、 自分を好きになる喜びを知ってもらう
2代目社長として、父が見せられなかった景色を従業員に見せる
零細企業でしたし、商社で貿易に関する業務の知見もあったので、社員の皆さんはとても優しく接してくれました。でも、そこには「社長の息子」という色眼鏡があるのも事実で、知識ばかりあって現場のことよく知らないくせに、という雰囲気も滲みでていました。 社員は全員上海にいて、僕ひとり日本で仕事をしている状況なので、顔を突き合わせて親交を深めることもなかなかできません。なので、とにかく成果を上げることに注力し、そこから信頼を勝ち取っていくことを決意。 彼らが取れない大きな案件を僕が持ってきて、そこで圧倒的な売り上げを立てていく。そうして結果を出すことで、徐々に彼らとの関わり方もいい方向にシフトしていけたと思います。
商社マンとしてメキシコで働きつつも、このままここでキャリアを積んでいくことへの疑問や不安が強い時期だったので、転職してMBAでも取ろうかとちょうど考えていた頃でした。そこに父の入院が重なり、MBAか後を継ぐかという選択肢が生まれます。 とても悩みましたが、父が守ってきた会社を存続させたい、チャレンジングなことをしてみたくて、思い切って後継を選択。 当時まだメキシコ駐在の期間が残っていましたが、会社にも考えを素直に伝え退職することになりました。 僕は父に対して、子供の頃からずっと憧れを抱ています。父の会社が倒産寸前になったとき、決して裕福とは言えなかったのに、両親は子供である僕にその素振りを一切見せませんでした。そして、大学まで進学させてくれ、なに不自由ない生活を与えてくれました。 そこから、いつか必ず恩返しをしようと考えていたので、いまがそのときだとも思ったのです。そこから日本で別の会社を立ち上げたのも、恩返しの思いが起点になっています。
父の跡を継いだ会社では、貨物の輸出入に関わる通関業務、輸送用の飛行機・船のブッキング業務、配送業務などを行っています。
大企業の中でも替えの効かない「歯車」になる
社会人2年目以降はずっとAppleさんとお取引させていただいていました。 Appleさんは過去何度も営業をしたものの、いつも断られていた難攻不落の案件だったのですが、マメさと破壊力をもってようやくご一緒できるようになりました。 社会人1年目はぱっとしませんでしたが、この経験で自分のポジションを確立し、大きな自信を持つことができました。僕は「優秀なサラリーマン」ではないけど、「エース」としての役割は担っていたと思います。
「コミュニティ」を求めてサークルやゼミに注力。勉強はほとんどしていませんでした
僕が就活時に大切にしていたのは、「モテるか」「高収入か」「今後のキャリアを考えたときに潰しが効く仕事か」の3つだけ。そこで、商社や広告代理店の大手8社のみエントリーシートを出し、就活していました。 結果ほとんどの企業から内定をいただくことができましたが、働く自分の姿を想像して一番ワクワクした商社、そしてその中でも「一番」だった三菱商事に入社を決めました。 今振り返ると、浅はかな考えだなとも思いますが、当時の僕は父のように「自由」になる方法を知らずに、決断を先送りしていたのだと思います。
所属していたゼミでは幹事長をやっていましたが、僕にとってリーダーとしての初めての挫折を経験しました。 やってみたものの、とりまとめができない、計画性がない、とまわりからとにかくディスられて、人ってこんなにもディスられるものなんだ…と思うほどでした。大学の友人で集まると、いまだにそのときのことをなじられるほどです。 いまは会社を複数経営していますが、もうこんな思いはしたくないという思いが強いです。一度地に堕ちた信頼を取り戻すことは難しいので、そうならないように責任感をもって経営やマネジメントに取り組んでいます。
高校から大学時代は、日本と中国の文化の違いに悩むことも多かったです。 日本では褒められたら「いやいや」というように謙遜は美徳とされているけれど、中国ではそこまで謙遜はしません。褒められたら素直に受け取るし、授業でも全員が挙手して発言するような環境です。 でも、日本で前に出ようとすると「あいつ、目立ちたがりだよな」「でしゃばり」と言われることもあり、気にしないふりをしていたけれどやっぱりへこみました。 今となっては出る杭は目立つ!と吹っ切れましたが、学校でどんなふうに振る舞うかは大きな悩みのひとつでした。
高校生のときはつねに一生懸命勉強していて、いい成績をキープしていました。中学校の先生に「進学校に入学できてお前は運がいい。でも、いまのままだと毎日勉強しないとまわりに置いていかれるよ」というアドバイスをもらったことから、その通り毎日勉強するようにしていました。 そのおかげか1年生のときからテストは上位、卒業後までその生活を続けることができました。
ずっと日本で暮らす両親の元にたまに行っては半年ほど日本の学校に通う生活をしていましたが、中学2年生頃から本格的に移住。日本の中学校に通うようになりました。 その頃の僕は、流行に反して制服もYシャツインして着るなど、見た目がとにかくイケてませんでした(笑)。よく人からもいじられていました。 そんな中、まわりの人をよく観察してみると、おしゃれな同級生は髪の毛にワックスをつけていることに気づき、髪型を変えたらいいんじゃないかと髪を切りに行くことに。でも、行き先が美容院ではなく理容院だったので、なんと角刈りにされてしまいました。 思い描いていた姿とは違ったので「なんで!?」と泣きましたが、恐る恐る学校に行ってみると「雰囲気変わったね」「おでこ上げるといいね」と声をかけてくれたのです。見た目を褒められて、自分に自信をつける最初の経験でした。今でもこの言葉はずっと心に残っていて、BESTAの事業にもつながっていると思います。
父は経営者ですが、最初からすべてうまくいっていたわけではありませんでした。なんと8回ほど倒産しています。 最初は日本の中華料理店での出稼ぎからスタートし、企業でのエンジニア勤めを経て起業。しかし、やる事業はことごとく失敗していました。僕が覚えているだけでも割り箸製造、ゴミ回収、ワイシャツ販売、などいろいろやっていましたが、ほとんどうまくいかなかったようです。 でも、父は会社が何度潰れてもけろっとしていて、気づいたら好きなことをしていました。いろんなことを乗り越えて、いつも次に進んでいる父の姿は、僕にとってとても「自由」に見えて、子どもの頃から父のような存在になりたいと考えるようになりました。
バチェラー・ジャパン / インタビュー出演(バチェラー関連)
再び旅に挑もうと決意した理由、選ばれる側から選ぶ側になって実感したこと、求める結婚相手の理想像などお話しました。