スタメンでは、2025年12月1日〜25日まで note relay 2025 を実施していました🎄
今回はその企画の中で投稿されている記事を転載します。
スタメンの人や組織、事業など、リアルが詰まっている内容になりますので、ぜひ御覧くださいませ。
はじめまして。株式会社スタメンで、マーケティング本部長を務めている鹽野です。2025年10月からは、コミュニケーションデザイン部の部長も兼任しています。
いまはBtoB SaaS「TUNAG」のマーケティング全般を担当し、認知拡大からリード創出、ナーチャリング、ブランドづくりまでを管掌しています。
今回は、年末にかけてのマネジメントレイヤー限定アドベントカレンダーの企画として、これまでのキャリアを振り返ってみようと思いました。
TUNAGのマーケティングの話は、また別の機会にちゃんと書きたい。今日は少し視点を変えて、自分の選択や失敗、遠回りの話をします。
2026年は社会人生活の20年目になります。
節目だからといって特別な達成感があるわけではありません。ただ最近になって、失敗も成功も含めて「全部がいまの自分につながっている」と感じる瞬間が増えてきました。
まずは簡単にキャリアサマリーだけ置きます。
2006 バンダイナムコエンターテインメント(旧:ナムコ)|アーケード開発|ゲームプランナー/ディレクター
2011 バンダイ|ボーイズトイ事業部|玩具デザイナー/プランナー
2016 ミクシィ|海外マーケティング(香港・台湾)|マーケ責任者(兼:アライアンス)
2019 gumi|ネイティブアプリ事業|マーケ責任者/マネージャー
2022 kubell(旧:Chatwork)|カスタマー/グロース|コンテンツ・デザイン領域マネージャー
2025 スタメン|マーケティング本部|本部長|コミュニケーションデザイン部|部長(兼任)
こうして並べると順風満帆に見えるかもしれません。でも実際は、迷いと失敗と遠回りの連続でした。
原点|おもちゃ屋さんと、美術の先生
最初の夢は、おもちゃ屋さんでした。
もう少し正確に言うと、「何かをつくる人」になりたかった。
子どもの頃の将来の夢には、美術の先生とも書いていた記憶があります。
大学進学のタイミングで、美大という選択肢は諦めました。
就職活動では、薬品系の企業を検討していた時期もあります。
ただ、心理学を学ぶ中で、「人の感情を揺さぶるものを生み出したい」という思いが、ずっと頭から離れませんでした。
一度きりなら、夢を追ってもいいのではないか。
そう思って、エンターテインメント業界を受けました。
新卒でバンダイを受けましたが、結果は不採用。
当時は正直、かなり落ち込みました。
その後、ナムコから内定をいただき、入社を決めました。
内定後に、バンダイとナムコの経営統合が発表され、バンダイナムコグループが誕生します。
結果的に、少し遠回りではありましたが、夢だった場所に間接的にたどり着いたことになります。
ナムコで学んだ「つくる」ということの現実
ナムコでは、アーケードゲーム機の企画・開発に携わりました。
新卒で入社して最初に任されたのはシールプリント機でしたが、その後はメダルゲーム機を含む複数のアーケードタイトルの開発にも関わっています。
正直、最初は戸惑いがありました。
ゲームをつくりたくて入社したのに、最初に向き合うことになったのは「写り」だったからです。
最初に渡されたのは、ExcelでもPowerPointでもなく、Photoshop。
使い方も分からないまま独学で触り始め、ユーザーの反応を掴むために、恵比寿のオフィスでユーザーリサーチを重ねながら、反応を見ては修正するサイクルを回し続けました。
どういう写りが好まれるのか。
どこまで加工すると“いい”と感じてもらえるのか。
ユーザーの反応を見ながらアウトプットを調整していくプロセスには、不思議とやりがいがありました。
目の拡張機能のアイデアが浮かんだのも、そんなやり取りの中でした。
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2006年入社時の手帳。もうボロボロですが自分の原点
一方で、当時のアーケード開発は、今振り返るとすごく長い時間軸で進む世界でもありました。
3年かけて企画を進めても、途中で中止になることは珍しくない。
その分、深く作り込める面白さはあるのですが、「もっと短いスパンで、市場に自分たちの商品を投下したい」という気持ちが、少しずつ強くなっていきました。
そんな頃に、社内公募でバンダイへの出向募集が始まります。
子どもの頃の夢──“おもちゃ屋さんになりたかった自分”を思い出して、応募してみることにしました。
バンダイ編|天才の衝撃と、静かに崩れた思い込み
キャラクターマーチャンダイジングの世界で、ここは当時の自分にとって至上の環境でした。
番組に合わせて商品をタイムリーに出す。
キャラクターを生み出し、それが社会現象になる。
子どもたちがおもちゃで遊ぶ姿を見られる。
本当に多くの喜びがありました。
一方で、その分やることは本当に多かった。
スピードも精度も求められる環境で、企画・開発・マーケティングが密接につながっていました。
最初のうちは、ただ必死でした。
ナムコ時代よりもはるかに短いサイクルで市場に出ていくものづくりは、自分が求めていた世界でもありました。
ただ、時間が経つにつれて、少しずつ、自分の中で違和感が大きくなっていきます。
周囲を見渡すと、本当にエンタメの天才たちがいました。
発想の切れ味、キャラクターへの解像度、「なぜそれが刺さるのか」を言語化する力。
どれを取っても、自分より一段も二段も上にいる人たちです。
しかも、そういう人たちほど、誰よりも努力している。
当時の自分は、そこに一番ショックを受けました。
自分がおもしろいと思って出した企画が、会議の場で、さらに磨かれ、まったく別次元のアイデアに昇華されていく。
それを目の前で見ながら、
「自分は、この人たちと同じ土俵に立てているのだろうか」
という疑問が、頭から離れなくなっていきました。
必死にもがいて、自分なりの良さを出そうとしました。
一定の評価はもらえていたと思います。
でも、心のどこかで、これ以上ここで伸びていく自分の姿を、描けなくなっていた。
自信は、少しずつ削られていきました。
開発としても、まだまだだという感覚が、日に日に強くなっていった。
今振り返ると、ここで初めて、「自分にはできるはずだ」という思い込みが、静かに崩れていったのだと思います。
ただ、この時間があったからこそ、「環境を変えて、自分を試したい」という気持ちが、逃げではなく、前向きな衝動として生まれました。
2016年頃、ネイティブアプリが台頭し、玩具の世界でもアプリ連携が当たり前になり始めていた時代です。
どうせ挑戦するなら、一番大きな場所で。当時の自分は、そう考えていました。
ミクシィ編|No.1の渦中で得たものと、残った問い
2016年当時、ゲーム業界全体が大きく転換していました。
それ以前は、GREEやMobageの時代、いわゆるソーシャルゲームのバブルがあり、そこから世の中が一気に“ネイティブアプリ時代”へ突入していくタイミングでした。
玩具の世界でもアプリ連携が当たり前になり始めていて、自分の関心も、次第にそちらへ向いていきます。
どうせ挑戦するなら、一番大きな場所で。
当時のアプリ市場でNo.1といえば、『モンスターストライク』でした。
その渦中に飛び込むことで、自分を試してみたい。そんな気持ちでミクシィを受け、ありがたいことに採用していただきました。
入社後は、前職までのキャラクターIPの経験を活かし、『モンスターストライク』のゲーム内コラボに関わるアライアンス業務を担当しました。
多くのライセンサーと交渉し、コラボの権利許諾をいただく。
ここでは具体的には書けませんが、本当にビッグタイトルが多かったと思います。
その後は海外マーケティング部門に異動し、香港・台湾エリアを統括する立場になります。
台北ゲームショーでは、予算も大きく投下したブースのプロデュースを任され、運営全体を取り仕切る役割を担いました。
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2019 台北ゲームショー記者発表にて
さらに国内マーケティングにも関わるようになり、仕事の進めやすさという意味では、これまで経験した中でも特に印象深い環境でした。
数百人規模の人が関わるプロジェクトでも、意思決定と実行が前へ進む。
少なくともマーケだけでも40人以上いた記憶があります。
大型のイベントや、年末年始のイベントを経て、売上やDAUで過去最高の数字を叩き出したこともありました。 No.1タイトルの現場で、チームで数字を積み上げていく感覚は、確かに大きな経験でした。
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ADFEST2018授賞式で訪れたタイにて
ただ、そこでひとつ、どうしても消えない問いが残りました。
これは自分の力だったのだろうか。
売れているタイトルだったから売れたのであって、自分は何かを成し得たのだろうか。
もちろん、チームとしてやってきたことはあるし、成果も出した。
でも、その中心に「自分だからできたこと」がどれだけあったのか。
そこが、うまく言葉にならないまま残り続けました。
そしてもうひとつ。この時期に大きな失敗も経験します。
詳細を書くことはできませんが、原因はコミュニケーション不足でした。 小さな認識のズレや、伝えきれなかった意図が積み重なり、結果として、多くの人に迷惑をかけてしまった。
当時は、本当に反省しました。
同時に、「成果を出すこと」と「信頼を積み上げること」は別物で、どちらも揃わないと前には進めないことを学んだ気がします。
No.1の環境にいれば、多少の判断ミスもリカバリーできてしまう。
でも、それに甘えていると、自分の弱さには気づけない。
だからこそ一度、環境を変えてでも、“自分の力”がどこまで通用するのか試してみたくなりました。
もしかすると、逃げだったのかもしれません。
でも少なくとも自分の中では、「このままでは自分の仕事を、自分の言葉で語れない」という感覚が強くなっていた。
売れているものをスケールさせるのではなく、0→1の立ち上げに関わる。
次はそこで、自分を試してみようと思いました。
gumi編|ひとりで走る強さと、残った空白
ミクシィを経て、自分を見つめ直す意味でも転職を考えました。
売れているタイトルをマーケしていても、「自分の力で売れたのか」がわからない。
それを試してみたくなったのが大きかったと思います。
0→1のロンチに関わりたい。
さらに、マーケティング・プロモーションの難易度が高いと言われるSRPGの領域でやってみたい。
そう考えて、gumiに飛び込みました。
入社当時は、アプリ1タイトルにマーケターが1名つく体制で、自分の担当も“1人マーケター”でした。
マーケティングは外部との進行が多い仕事なので、外部パートナーと連携しながら、ひたすら前に進めていく。
当時の自分は、「1人でもできる」「自分でやった方が早い」と思っていましたし、それが苦でもなんでもなかった。
年数が経ってロンチが近づくにつれて、採用でメンバーも増えていきます。
自分のポジションはマネージャーでしたが、働き方は相変わらず、基本的に自分でなんとかするスタイルのままでした。
今振り返ると、人を頼らなかった。人とはどこかで距離を置いていたのかもしれません。
莫大な広告費を投下してロンチを仕掛け、初動はうまくいきました。
数字としても、きちんと結果は出たと思います。
ただ、そのタイミングで、ふと立ち止まる瞬間がありました。
走り続けてきたはずなのに、隣にいるはずのメンバーが、ほとんどいなかった。
もちろん、仕組みとしてチームはあったし、外部パートナーもいた。
でも、自分の中に残った実感は、どこか“ソロプレイ”に近いものでした。
この生活をこのまま続けるべきなのか。
そんな問いが、ふと頭をよぎるようになりました。
gumiまでで、気づけば15年近く、日本のエンターテインメントの世界に身を置いてきました。
ゲーム、玩具、アプリ。ジャンルは違えど、ずっと「感情を動かす仕事」に向き合ってきた。
正直なところ、ある程度やり切った感覚もありました。
同時に、新しいチャレンジもしたいと思うようになっていました。
当時は、海外のアプリが次々と日本市場に入ってきて成功していた時代です。
自分自身にも、海外という選択肢が現実的なものとして見え始めていました。
一方で、gumiでの仕事は、これまでの経験をすべて注ぎ込むような内容でもありました。
具体的なタイトル名は書けませんが、
国民的アイドルグループを題材にしたネイティブアプリゲームのプロモーションでは、プロモーションプランの設計から、マーケティングの実行までを一気通貫で担当しました。
権利元との調整を行い、大型のTVCMやマス向けの戦略、テレビと連動したプロモーションやイベントまで含めて、それまでに培ってきた経験をすべて出し切ったと思っています。
運営中のSRPGタイトルにおいても、過去の経験を活かしながら、権利元とのコラボを取り仕切ってきました。
この時期に、一人の上長と仕事をすることになります。
その方はデザイナーでありながら、会社全体のデザインを統括し、ビジネスマンとしても圧倒的に優れていました。さらに、マーケティング全体も見ている。
その背中を見ながら、デザインとマーケティングが掛け合わさったときの可能性を、強く感じるようになります。
先日、その上長と数年ぶりに食事をする機会がありました。
当時の話と、今の話をしている中で、こんな言葉をかけてもらいました。
「全部自分でやりきって、周りを信用しなかったしおちゃんが、変わったね」
その一言が、素直に嬉しかった。
会社としてはもう離れてしまったけれど、あの時代があったからこそ、今の自分がいるのだと、改めて思いました。
Chatwork編|フィールドを変える決断と、組織との向き合い方
gumiでの仕事を一区切りとして考え始めた頃、
次はフィールドを大きく変えてみたいと思うようになっていました。
当時、海外のゲーム会社から声をかけていただく機会もあり、中国のゲーム会社からは、実際にオファーもいただいていました。
日本のエンタメ業界で15年近くやってきた自分にとって、海外で挑戦するという選択肢は、決して現実離想ではありませんでした。
行く覚悟も、固めていたと思います。
そんな中で連絡をいただいたのが、Chatwork(現:kubell)でした。
正直に言うと、最初はBtoBの世界にまったく興味がありませんでした。
一度はお断りもしています。
ただ、話を重ねる中で、少しずつ考えが変わっていきました。
コロナ禍でコミュニケーションが断絶され、働き方そのものが大きく変わり始めていた時期です。
自分がこれまでやってきたのは、感動をつくり、届ける仕事でした。
一方でChatworkは、働き方そのものを変える可能性を持ったプロダクトだった。
10年、20年というスパンで、世の中に影響を与えられる仕事かもしれない。
そう思ったとき、フィールドを変えることへの恐怖より、
試してみたいという気持ちの方が勝りました。
こうして、中国の企業からのオファーはお断りし、Chatworkに行く決断をします。
入社後は、ハイブリッドワークを前提とした環境でしたが、実態としては、ほぼフルリモートでのスタートでした。
入社日にパソコンが自宅に届き、そこから仕事が始まる。
上長と初めて対面したのは、半年以上経ってからだったと思います。
最初はカスタマーマーケティングに配属されました。
Chatworkはフリーミアムモデルのサービスで、導入のハードルは低い一方、有料化への転換が難しいビジネスモデルです。
ネイティブアプリで培ってきた、「無料から課金へつなぐ」マーケティングの考え方は、ここで役に立ちました。
一方で、組織としての課題も見えてきます。
グロースマーケティング部門、カスタマーマーケティング部門など、
それぞれが独立したKPIを追い、クリエイティブにおけるデザインの整合性が取れていなかった。
このままでは、もったいない。
そう感じて、コンテンツマネジメント部の立ち上げを提案します。
翌年、そのマネジメントを任されることになりました。
最初は、順調だったと思います。
自分が描いていた「一気通貫での加速」が、少しずつ形になっていく感覚もありました。
ただ、時間が経つにつれて、歯車が噛み合わなくなっていきます。
原因を振り返ると、「知らない人」と仕事をする難しさが、大きかったのだと思います。
gumi時代は、コロナ禍ではありましたが、少なくともそれ以前に、一度は顔を合わせ、一緒に仕事をしたことのあるメンバーばかりでした。
相手の癖や考え方、温度感を、身体感覚として知っている状態だった。
一方でChatworkでは、入社初日から実質フルリモート。
知らない人同士が、役割と成果だけでつながる環境でした。
マネジメントをする立場として、これは想像以上に難しかった。
自分が頑張れば頑張るほど、自分が前に出れば出るほど、ギアが噛み合わなくなっていく感覚がありました。
「任せる」ことと、「放置する」ことの境界が、うまく掴めなかったのだと思います。
コミュニケーションを取ろうと、オフィスに足を運んでも、そこには誰もいない。
それでも当時の自分は、
「自分がもっと頑張らなければいけない」
と考えていました。
家族もいる中で、仕事へのコミット度を上げるために、妻の地元である愛知県への移住を決めます。
何かをトレードオフしなければ、時間は生まれない。
そう信じての決断でした。
愛知へ行ったこと自体は、今でも間違いではなかったと思っています。
ただ、2024年6月、フルリモートの廃止と出社回帰が決まります。
出社そのものに抵抗はありませんでした。
ただ、
「この組織で、今の自分がやるべきことは何か」
を改めて考えたとき、 転職という選択肢が、はっきりと現実味を帯びてきました。
スタメン編|0から向き合うという選択
Chatworkでの経験を経て、「この組織で、今の自分がやるべきことは何か」を考える時間が増えていました。
そんな中で、エージェントを通じて紹介されたのが、株式会社スタメンでした。
TUNAGというプロダクトの存在は知っていましたが、拠点が愛知にあることは、正直そのとき初めて知りました。
まずは、フラットに話を聞いてみよう。
そのくらいの温度感で面接に臨んだのを覚えています。
話を重ねる中で、これまで自分が抱えてきた「組織」に対するモヤモヤと、TUNAGが向き合おうとしている課題が、重なって見えてきました。
うまく言葉にできなかった違和感。
組織が大きくなる中で、人と人との距離が少しずつ離れていく感覚。
それに真正面から向き合おうとしているプロダクトだと感じました。
入社を決めた理由は、プロダクトだけではありません。
前に進もうとする人の姿勢そのものに、共感した部分が大きかったと思います。
スタメンでは、メンバーとしてのスタートを選びました。
最初は、Webページやホワイトペーパーなどのコンテンツ制作から関わっています。
自慢したいわけではありませんが、本気になれば、作るスピードには自信がありました。
結果から逆算して、「このアウトプットがあれば前に進める」という形に資料やコンテンツを落とし込むのは、これまでの経験の中で自然と身についたものだったと思います。
マーケティングに限らず、必要とされる場面があれば、他の組織の仕事もサポートしていきました。
今振り返ると、それは単なる“手を動かす人”という役割以上に、自分自身の変化だったのかもしれません。
これまでの自分は、どこかで「自分でやったほうが早い」「自分でやり切る」というスタンスを取りがちでした。
でもスタメンでは、人を頼ること、人を助けることに、少しずつ向き合えるようになっていた気がします。
自分で自分を美化して語るのは、正直あまり得意ではありません。
だからこそ、言葉で語るよりも、背中で見せたいと思っていました。
そんな姿勢がどう評価されたのかは、正直、自分ではよく分かりません。
ただ結果として、入社から3ヶ月ほどで、マーケティング部門の部長職を任せていただき、その後、7月からは本部長という役割も担うことになりました。
ここから、自分はマネジメントに本気で向き合うようになりました。
役職がついたから、というより、「自分がやるべき仕事の中心が変わった」感覚に近いです。
施策を設計して当てることも大事ですが、それ以上に、メンバーが力を発揮できる状態をつくることが、自分の仕事になっていく。
目線合わせの頻度、情報の透明性、意思決定の納得感。
小さな積み重ねで、チームの速度も質も変わっていく。
それを、手触りとして感じるようになりました。
そしてもうひとつ。
マネジメントは、組織のためだけにあるものではなく、自分自身の成長にも直結するものだと気づきました。
これまでの自分は、できるだけ正解に近い答えを早く出して、成果を積み上げることに価値を置きがちでした。
でもマネジメントは、正解を出すことよりも、相手の状況を理解し、関係性を育て、意思決定を支えることが求められる。
自分の癖や弱さが、よく見える仕事でもあります。
だからこそ、向き合う価値がある。
そう思っています。
マーケティングの施策単位で見れば、自分より優れている人は、社内にも社外にもたくさんいます。
自分は、できないことも本当に多い。
だからこそ、マーケティング部門のメンバー一人ひとりに、強いリスペクトの気持ちを持っています。
新卒からスタートしたメンバーもいれば、転職して入ってきたメンバーもいる。
キャリアはさまざまですが、全員に共通しているのは、仕事や組織の目標を「自分ごと」として捉え、向き合っていることです。
そんなメンバーたちに対して、自分自身も、これからも真っすぐに向き合っていきたいと思っています。
そんな中、今年の終わりに、こんなメッセージをもらいました。
「しおPさんの元で、ずっと働かせてください。」
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この言葉をもらったとき、昔の自分だったら、絶対に想像できなかったなと思いました。
最後に
自分は、たくさん失敗してきました。
選択を間違えた場面も、遠回りをした時間も、きっと多いと思います。
でも今は、そうした失敗も成功も、全部含めて今の自分があると感じています。
うまくいかなかった経験があるからこそ、いま目の前にいるメンバーの迷いや不安に、真正面から向き合える。
そう思えるようになりました。
2025年10月から、コミュニケーションデザイン部の部長を兼任しています。
子どもの頃に描いていた「美術の先生」という夢は、形は違えど、人に伝え、育て、場をつくるという意味では、少しだけ叶えられたのかもしれません。
そして今は、マネジメントに本気で向き合っています。
マネジメントは組織のためだけではなく、自分自身の成長のためにもある。
そう感じるようになったのは、遠回りしてきたからこそだと思います。
転職や挑戦で悩む人に、無理に背中を押したいわけではありません。
「失敗しろ」と言いたいわけでもない。
ただ、
やらずに後悔するくらいなら、やってみてもいい。
たとえ遠回りになっても、そこで得たものは、いつか必ずつながる。
自分の経験が、そのことを教えてくれました。
もし今、 少しでも迷っている人がいたら、カジュアルに声をかけてください。
答えを出すというより、一緒に整理するところからでも。
自分の失敗も含めて、話せることはたくさんあります。
追伸
ここまで書いておいてなんですが、TUNAGのマーケティングの話も、今度ちゃんと書きます。
ただそれはきっと、施策の話というより「組織に向き合う話」になる気がしています。
スタメンでは、新卒・中途問わず、スタメンを一緒に盛り上げてくれる方を募集中です🔥
もし興味を持っていただけたらぜひカジュアル面談からお話しましょう!!