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「普通」を追い求めていたかつての私へ 〜SEKAISHAインターンの見るセカイVol.2〜

SEKAISHAには2019年11月現在、8名のインターン生がいます。

これは、SEKAISHAインターン生が見ている、セカイのお話。

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子どもの頃から私は「普通」というものに憧れていたのだと思う。

「普通」にみんなとお話しすることを、「普通」にみんなと遊んだりすることを。

「普通」に授業を受け、「普通」に恋愛をし、「普通」に進路を歩んでいく。

そんな人生を、当時の私は切望していたのだと思う。

「普通」になれなかった小学生時代

「澤くんの悪いところをみんなであげましょう。」

これは、小学校3年生の時の学級会のテーマです。

1時間、私はクラスメイトから改善点という名の批判を延々受け続けました。

授業中にうるさい、すぐに人を殴る、ノートを取っていないのはずるい、給食を残す、様々な僕の改善点が黒板に並びたてられていたのを微かながらに覚えています。

子どもの頃から私は社会との折り合いをつけていくことがものすごく苦手でした。

ノートを書くことも、椅子に座ることも、みんなと同じで何かをすることも、みんなの当たり前の一つ一つに疑問を覚え、反発していた私は周囲から冷たい目で見られ続けていたのだと思います。

“幸い”なことに、当時の私はそうした目線が冷たさを帯びていることに気づきませんでした。ただ無邪気に、一緒に遊びたくて、私の存在を受け止めて欲しくて。でもそうした思いはコトバにならずに、変わりに手が出たり騒いだりしていたのだと思います。

また、“幸い”なことに私は勉強をしていないにもかかわらず勉強は人並みにできました。だからこそ、勉強はできるのに「普通」に振舞っていないのは澤が怠惰だからだと言われ続けたのだと思いますが。

それゆえ、やがてそうした批判は「特別だから(したかがない)」という言葉に変わっていきました。授業中うるさいのも、喧嘩をすぐしてしまうのも、ノートを取っていないのも、給食を残すのも全部「澤君は特別だから」という一言に収まっていきました。

今振り返ると「寂しさ」というコトバになるだろうその感情を当時の私は「優越感」と勘違いして、「特別である私」に酔っていったのだと思います。

「普通」でないことに酔った中学生時代

中学2年生の6月25日。マイケルジャクソンの命日であり、母の誕生日の翌日であるその日、私は完全に学校に行くことができなくなりました。

理由はよくある「普通」のいじめです。

「もう、明日から学校にはいけないや」と思ったのを覚えています。

それから高校入学までの1年半、私は不登校であり続けました。

不登校になった当初、非常にやるせない感情に駆られていたのを覚えています。

他者と「普通」に行動を共にできなくても、他者と「普通」につながることができないとしても、それでも「澤君は特別」だから私は私であり続けることができました。学校に行けない私はもはや「特別」でもなんでもなくなったのです。

僅かながらにも私を保つことができていた、他者と比較した時に保持していた優越性、それすらなくなった私はもはやどうすることもできませんでした。毎日無気力で、毎日泣いて、毎日何かに八つ当たりをしていました。

それでも、私が私として存在できるように、私のかけらを必死に集めていきました。

「私が不登校になったのは今の学校に問題があるからだ」

「その問題点に気づいているのは私だ」

「私はいずれこの問題を解決せねばならない。なぜなら私は“特別”なのだから」

そうやって、惨めな私ではなく、不当に惨めな場所に追いやられている私になることで弱い自分から目を背けていたのだと思います。

「普通」に絶望した高校受験

高校受験に私は失敗しました。いや、正確には高校受験を行うことを私はできませんでした。

“社会をいずれ改革する自分”である中学3年生の私は、その使命を遂行するべく高校受験の勉強に勤しんでいました。

そんな私にある日学校から言い渡された言葉は「出席日数がなければ受験資格はない」というものでした。

どれだけ努力しようと、どれだけ強く想いを持ったとしても乗り越えられない壁がそこにはありました。

努力することでもなく、能力があることでもなく、「普通」であること。ただそれが求められていたのだと当時の私は感じ、「普通」というものに絶望していたのだと思います。

逃れられない「普通」に葛藤した高校時代

絶望を抱えたまま私は高校に進学しました。

その高校は「普通」ではない人たちが集う場所でした。

「普通」に学校に行けない人、「普通」に勉強ができない人、「普通」に人と関わることができない人、性別が「普通」ではない人、数多くの「普通」ではない何かがそこには存在していました。

「普通」になれないことに絶望していた私にとってきっと、そこは救いだったのだと思います。

初めて私は「普通」という名の何かと戦わずに過ごすことができました。

しかし、そこにはまた「普通」が存在していたのです。

高校2年の冬のことでした。

始めての進路面談であったその日、私は先生に夢を語りました。

「不登校で苦しんできた、この現実を変えるために私は大学に行き、政治家になって世の中を変えたい。」

そのような内容だったと思います。

そうやって語る私に、

「頑張らなくていいんだよ」と先生は諭すように言葉を発していました。

その後、専門学校や就職、推薦でいくことができる地元の大学など、私にとって堅実な「普通」に選択できる進路の話をしていたと思います。先ほどの言葉に動揺していた私はその言葉のほとんどが右から左に流れて行きました。

いや、そんなことはない。きっと私は未来を切り開くことができる。

そう信じて私は受験のために模試を初めて受けに行きました。

結果通達されたのは「偏差値19」というものでした。偏差値というものに触れてこなかった自分でさえ絶望的に低い数値だとわかるそれに私は愕然としました。

決して私は高校で勉強ができない存在ではありませんでした。いや、むしろ頭がいいことで名が通ってさえいました。そんな私が19という数値を叩き出したのです。

一体全体、私は高校で何を教えられていたんだ。私の将来をどう歩んでいけばいいんだ。

そうしたやり場のない感情になった私は教師や学校にぶつかっていきました。

そこで私は気づきました。私は「普通」から逃れられたのではなく、私はその環境における「普通」でいることによって、生きづらさのない「私」でいたのです。

「学校にいけなかった子ども達が学校に行けるようになった、それだけで幸せじゃないか。」

「既存の価値観に適応するのではなく、今ここでその子がその子らしくいられること。それだけで十分じゃないか。」

「だって、それが私たちにとっての『普通』なのだから。」

そんな新たな「普通」に気づいた私は再びそれと戦うことを強いられました。

学校の授業を「普通」に受けてるのでは受験ができないため、授業中にこっそり別の勉強をしたり、学校をサボったりしていました。

なぜ「普通」に授業を受けないのだと何度怒られたか覚えていません。

無事、大学受験には成功した私は嬉しかった反面、どこか徒労感に襲われていました。

再び「普通」になれなかった私は独りでした。目的地のわからない荒野を後ろ指を刺されながら歩んでいくのはとても寂しかったのです。

「普通」から必死に逃れようとした大学時代

「不登校が肯定される世界をつくる」

これが大学時代の私の行動の指針でした。「普通」の世界の「普通」にも適応できず、不登校の世界の「普通」にも適応できなかった私は世界を自分が作り変えるということしか道がないように思えたのです。

ある時は政治家のもとでインターンをし、ある時はキャリア教育団体を運営し、ある時は不登校の現場でソーシャルワークに邁進していました。

けれど別に世界がいきなり変わるわけでもなく、自分が目の前で行うことはむしろうまくいかないことの方が多く、徐々に自分という存在が磨耗していくかのように感じました。

そんな矢先、

「君がつくりたいと言っているその世界は、誰を幸せにするんだい?」

満身創痍になって、どうしようもなくなっている私にある人からそんな言葉が投げかけられました。

その言葉が投げかけられた時、すごい衝撃を感じたのを覚えています。

世界のため、他者のため、すべての不登校生のため、そう言いながら私は私という存在をただただ肯定して欲しかった、その思いでしか動いていなかったのだと思い至ったのです。

「普通」を他者とともにつくって行こうと思えたこれからの人生

そう自覚したあと、3ヶ月ほど自宅で寝込む生活をしていました。

自分の信念が崩壊したこの世界で、何を寄る辺に生きていけばいいのかわからなくなった私は、ただひたすら彷徨っていたのだと思います。

彷徨い、塞ぎ込み、そんなしんどい私を忘れるために「ただ寝ること」をひたすらに繰り返していました。

目の前の現実から逃げて、逃げて、ただただ逃げて、逃げることさえ疲れて果ててきた時、ふと

「そもそも私は何と戦って、何から逃げてきたんだろう?」

そんな考えが頭をよぎりました。

そうやって立ち止まった時。なんだかわからないけれど逃れ続けてきた、ぼやけて見えない何かが少しずつ見えてきました。

そこには自分を攻撃していると感じていた誰かでもなく、何か壮大な世界というものでもなく、「普通」という掴めない言葉でもなく、ただ私がそこにいました。

その私は感情を持っていました。

寂しかった、悲しかった、辛かった、羨ましかった、不安だった、心細かった。

そうした弱々しい、けど確かにそこにある感情を私は聴くことができました。

その私はコトバを持っていました。

「普通」のない世界で生きたかったのでもなく、「普通」を壊したかったのでもなく、新しい「普通」を自分独りでつくりたかったのでもなく、

ただ、今あるその「普通」に対して感じている私の違和感を聴いて欲しかった。

ただ、私がその違和感を持っているということを認めて欲しかった。

ただ、その違和感を聴いた上で、じゃあ「普通」とどう関わっていくのか、そもそも「普通」を少しだけずらしたり、より良くできないのか一緒に考えて欲しかった。

そうした弱さを持った私自身の声を、私はようやく聴くことができたのだと思います。

「普通」を追い求めていたかつての私へ

きっとこうやって自分と、他者と世界と戦う人生は私にとって必要なことだったんだと思います。あの時の憤り、悔しさ、それをぶつけきたからこそ、ようやく今、目の前の自分とともにあることができるのだと思います。

きっと、当時の私だったら「何を言ってるんだ。そんな悠長にやっていたら世界は、私は変わらないじゃないか」と私に向かって言うのだと思います。

そんな僕がもし目の前に現れたのなら、「それは違う」と言うのでも「確かに違うね」と認めたふりをするのでもなく、

「どうして違うと思うんだろうね」「あなたと私、何が違うんだろうね」「どうしたら私とあなたはわかりあうことができるんだろうね」と聴いて一緒に考えてあげるつもりです。

「普通」があることが生きづらさを産むのではなく「普通」とされるものを私が問い直せないこと、そのことが生きづらさを産むのではないかと、私は思います。

だからきっと「普通がなくなれば良い」というわけではないのです。

「一人ひとりにとっての普通を、一人ひとりが創り出していける」

そんなプロセスや方法論が、この世界には重要なのだと思います。

それはきっと「一人ひとりのコトバを、みんなで聴くことができる」そんな世界です。

自分の中にあるコトバを、他者のコトバを、聴き、一緒に考えていく。一人ひとりの「普通」を受け止め合う。その積み重ねが、世界の「普通」をちょっとズラしたりできるんじゃないかなと思います。

今は綺麗事なのかもしれない。けれど、そんな世界になるにはどうすればいいんだろうなぁと身近な人と一緒にコトバにして考えながらこれからの人生を歩みたいと、私は思います。

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