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留年を繰り返した大学生が、なぜ部門長になるまで成長できたのか?:IBX部門長・羽村悠己のB面

インフォバーンには、企業のマーケティング・コミュニケーション支援を担う「IBX(Infobahn Experience)」部門と、企業の製品開発やサービスデザイン支援を行う「IDL[Infobahn Design Lab.]」の二つの事業部があります。今回は、そのIBX部門で部門長を務める羽村悠己(はむら・ゆうき)さんのインタビューをお届けします。

この記事では、いわばレコードの「B面」として、遊びまわっていた学生時代からWebディレクターになるまでの経緯、インフォバーンに入社されたきっかけ、クライアントワークに感じる魅力など、ご自身についてのパーソナルなお話を中心にお伝えします(※IBX部門長としての事業や展望についてお伝えする「A面」の記事はこちら)。

いまではインフォバーンの基幹事業であるIBX部門を率いる長である羽村さん。ところが、学生時代はWeb領域に興味があるわけでもなかったそうです。そこから20年以上にわたって、アカウントプランナー/Webディレクターとして働き続けてきた羽村さんの根源にあるのは、「飽くなき成長意欲」でした。

使いっ走りの足軽アルバイトから、Web業界のアカウントプランナーへ

▲「巨匠の風格を出しましょう」という編集部の要求に、真摯に応えてくださった羽村さん。

――羽村さんは学生時代、どんなふうに過ごされていましたか? もともと羽村さんの出身は東京でしたっけ?

出身は東京の荻窪生まれなんだけど、すぐに引っ越して千葉の市川にずっと住んでた。駅としては東西線沿線だね。
高校も船橋にある県立で、中高を通じてハンドボール部に入っていたんだよ。スポーツとしてはサッカーも好きだったんだけど、小学校からやってるメンバーで固まっていたから、中学からそこに入っていくのがなんか嫌で……。それにどうせ入るんだったら活躍したいと思って、ライバルが少ないもので、ちょうど当時はドッジボールが流行っていて得意だったのもあって、「これだ!」とハンドボール部に。
ハンドボールは狭いコートの中を動き続ける球技なので、中学時代はとにかくひたすら走り回っていました。高校に入ってからもハンドボールをやって、部活が終わったらそのままハンドボールコートでサッカーをやってという感じで、全然勉強はしていなかった。

そこに大学受験のタイミングが来て、うちは両親が離婚していて裕福な家庭というわけでもなかったので、「国立でも行くか~」「千葉大かな~」とか考えていたんだけど、いざ調べたら自分の学力では到底受かるわけないと気づき……(笑)。
それでも大学には行かなきゃといろいろと探したら、成城大学の文芸学部マスコミュニケーション学科というのを見つけたのよ。赤本を見たら、問題は超簡単だけど9割正答しないといけない感じの出題傾向で、「これならいけるな」と思って狙ったら合格できました。

――マスコミ学科を選んだのは、マスコミ系企業に就職したいという気持ちがあったんでしょうか? 結局は、卒業後にWeb制作会社に入社されていますが。

いや、そこまでこだわりもなく、でも経済とか法律とかピンとこないなあと思っていたので、「マスコミ学科、面白そうじゃん」という感じで選びました。しかも、男女比が2:1で女性のほうが多かったんですよ。だから、「これだ!」と思って(笑)。
大学に入ってからはあまり授業にも出ずに、サークルに入って飲み会に参加したり、いわゆるキャンパスライフを楽しんでました。

俺がWeb制作会社に入ったきっかけはアルバイトなんです。当時、サークルの先輩の紹介で入ったバイト先が、のちにWeb業界で名の知れるようになった会社で、そこで配達や雑用をやっていました。当時はまだDTPの会社だったから、印刷所などにゲラや原稿を届ける必要があって、それをバイク便の代わりに電車や自転車で届けるっていうバイトです。

だから、「Web業界でアルバイトをする」というより、本当にただの使いっ走り。仕事がないときには、休憩所でタバコを吸いながらボーッと『猿岩石日記』とかを読みながら待ってて、「行け!」って言われたら、「はい!」って走り回る日々を大学時代は過ごしていました。

もう時効ということで話すと、使いっ走りだから、かかった交通費はあとで経費として申請するのよ。都営地下鉄と東京メトロには、一日乗車券がそれぞれあるから、それを買って仕事がたくさんあったらプラスになる。一日乗車券を買うか買わないか、仕事の量を先読みしてジャッジするということをしてたね。一緒にやってる友達に、「おい、一日乗車券買っとけよ。今日は仕事多いんだろ?」みたいな(笑)。
あと、普通は電車で行く距離でも「行ってきます!」って、電車に乗るふりをしながらママチャリをダッシュで漕いで電車代を浮かすとかね。そういうことはよくしてた(笑)。

――かなり小物感があるエピソードですね(笑)。アルバイト代としては、良かったんですか?

かなり割は良くて、学生からしたらおいしいアルバイト先。本当に遊びとアルバイトばっかりしていた大学生時代だったね。周りには「お笑い芸人をめざしている」とか言って就職活動からも逃げて、一応は相方もいたんだけど1個もネタなんてつくらずに、そいつの家に転がり込んでひたすら『桃太郎電鉄』をやって……。

そんなんだから就職する気もまったくなくて、大学4年で二留してるんだよ。最初に留年した5年目は、大学にほぼ行かずにずっとアルバイトをして、めちゃくちゃ稼いでた。それでプラス1年の留年が決まったときには、もう大学を辞めようかなと思ったんだけど、母親から「家計が破産しても大学は辞めさせない」って言われてしまい、「さすがに逃げられないか」と思って。

その年は日韓ワールドカップの年で、開幕したら授業に行かなくなるのは自分自身よーくわかっていたから、卒業するために必要な残り単位数ギリギリを前期だけで申請して、1個でも落としたら三留目決定っていう状況に自分を追い込んだよ(笑)。

――なんでギリギリを攻めるんですか?(笑)いや~、なかなかの親不孝ぶりですね。

本当だよね。いま考えると本当に親不孝者。母親には感謝しかないです。それでもなんとか卒業して、就職活動はせずに、そのままアルバイト先の会社で働くことになりました。

そのころは多くの会社がホームページを持つことが当たり前になっていた時代で、そこもWebサイトをつくる事業を始めていたんだよね。社員の人が急にパソコンでカタカタやったりしていたから、アルバイト時代には、暇なときに先輩のパソコンでネットサーフィンをやってたりしていて。
それであるとき、「うちで働けば?」って誘われて、しゃべるのは昔から得意だったから「企画営業のポジションでどう?」と。「じゃあ、やります」って、そのまま働きだしたのがキャリアのスタート。使いっ走りの足軽から、いわゆる「アカウントプランナー」に一気にジョブチェンジした。

だから、就職活動もしなかったし、IT企業に行きたいというネットギーク的な感じもまったくなかった。最初はダウンロードとインストールの違いもわかってなかったし、パソコンも大学で卒論を書くために買った程度だったから。
ADSLとかが出て一般家庭にまでPCが普及してきた時期で、ネット広告が隆盛してきた時代だね。その会社は当時、むちゃくちゃ営業が強かったんだよね。取引先も帝国データバンクで与信を見てから選ぶくらいで、クライアントには一部上場企業も多かった。コンペの勝率も8割くらいあったはず。いま振り返ると、広告代理店ではないWeb制作会社が直接クライアントとお仕事をしていたのは珍しかったなと思う。

厳しく鍛えてくれた師匠との出会い、企画して味わったかつてない「やりがい」

▲インフォバーン本社の近くにある「club asia」にて。クラブにもよく通われていたと言う羽村さん。

――Web業界も新興企業が多くて、いまとはかなり違ったと思いますが、そんななかで羽村さんはどのような業務を担当されていたんですか?

その会社で新卒採用が始まったのが、まさに自分の世代の一個上くらいからで、2留しているぶん、同期も含めて若手はちょっと年下ばかり。だから、基本的に先輩は中途社員だけで、他の会社でバリバリに営業をやっていた人が多かった。その人たちから学びながら、ひたすら企画提案する営業活動をしていたね。

当時の営業は2種類あって、一つはいわゆるテレアポ中心の営業をする部隊。その人たちがいろいろな会社に足しげく通って引き合いにつながったら、今度は別種の営業担当である「企画営業」を連れて行って、具体的な話をして受注につなげていく。要するに、関係づくりの方たちが、一生懸命タネを撒いてくれたあとに、芽が出そうになったら提案しにいく、という流れね。
当時のリード獲得はテレアポが中心だったけど、これがすごくたいへんで、まあ断られるのよ。自分も空いている時間はテレアポも少しやっていたけど、ほぼ断られる。そういう会社だから、雰囲気としては完全に体育会系だったかも。

学生が遊んでいたところから、急にバリバリと仕事をやりだしたから、一年目は本当に何をやればいいかわからなかった。けど、「わからないものがあれば理解しに行けばいい」って、とにかく先輩について回ってた。
そこから二年目に、のちに師匠として尊敬することになる先輩から指導を受けることになって。背がめちゃくちゃ高くて、ゴツくて、雰囲気からして超怖い人。その人のカバン持ちというか丁稚奉公をすることになって、しゃべり方から何からひたすら矯正されたね。

薄っぺらいしゃべりとその場のノリで仕事をやっていた戦闘力5のゴミだったから、それはもう徹底的にしごかれた。業務報告をするときも、その師匠の前に立たされて、「それは何? クライアントが言ったことなの? それともお前の主観なの?」って返されるような感じ。自分はつい「いや…」って言ってしまう口癖があったんだけど、それを口にした瞬間に、「お前、いま『いや…』って言ったな!」って詰められる。

でも、そうやって指導されることをあまりつらいと思ったことはなくて、むしろ嬉しかったんだよね。もちろんマゾ的な意味ではなく、そんなふうにマンツーマンで教育されてる人なんて、他にいなかったから。周りからは「大丈夫か?」ってよく声をかけられてたけど、全然で、むしろありがたいと。
自分は大学生のときからアルバイトとして会社にいたから、偉い人でも友達みたいになっちゃっていて、良くも悪くもかわいがってもらえていたんだよね。でも、その人だけは厳しくて、じっくり鍛えていただいたことで、右も左もわからなかった人間が、「営業って楽しいな」ってわかるようになったんだよ。本当にいまの自分があるのも、全部その人のおかげだと思っている。

――羽村さんはプランナーであり、ディレクターでもありますが、そのあたりのスキルはどこで身につけられたのでしょうか?

そのころに営業をしていて、ずっと疑問だったことがあって……。企画営業して受注を取れたら、やっぱり「おめでとう!」ってことになるんだよ。でも、いまいち嬉しいっていう実感が湧かなくて。
というのも、企画書自体はほとんど自分でつくったものではないから。あくまで企画営業の役割というのは、「お客さんの意見を吸い上げて橋渡しをする役割」であって、企画を含めたクリエイティブは他の人が全部やるし、見積もりさえ自分一人ではつくれない。営業力がついてきて受注できるようになっても、そこにちょっとモヤモヤしていたんだよね。

そんなときに、さっきの師匠から「お前、企画書をつくってみろ!」と言われたの。他の企画営業は誰も自分でつくってなかったのにですよ。
それで、ある大手メーカーのコンペがあったときに、自分が主導して企画書をつくってプレゼンも一人でしたら、見事に受注できた。それが自分にとってすごく大きな経験だったんだよね。
やっぱりやりがいとして、全然違った。それまでは提案を落とすこともあったんだけど、それからはどんどん勝てるようになっていきました。

――仕事として充実していたのに転職したのは、何かきっかけがあったのでしょうか?

師匠と離れることになってしまって……。「まだまだこの人から学びたい」と思っていたのに、「独り立ちしろ」と言われて離れることに。
しかも、ちょうどそのタイミングで、別の先輩が独立して入った会社からも誘われたんだよ。本当に「独り立ちする」ためには、もっとやりたいこと、営業だけじゃなくてディレクションとか、なんでも自分でやりたいと考えてたのもあったので、転職することにしました。

――周りから反対されなかったんですか? すでにかなり会社が大きくなっているなかで、まだ新興の企業に転職されるわけですよね。

会社として、ガンガン上っているときだったからね。でも、成長したいって気持ちのほうが強かったから、迷いはなかったと思う。
もちろん師匠にも辞める前に相談したんだけど、「出るのは止めないけど、中途入社なんて即戦力を期待されるんだから、1年目でエースにならないとマジで先がないからな。早く活躍できないと、どんどん声がかからない、覚えてもらえない存在になる。そうなると2年目から盛り返すのは無理だから、最初から死に物狂いでやれ」ってハッパかけられました。

その後に入社したのは、中目黒にある小規模なWeb制作会社。そこは前職よりずっと小さい会社だったから、アカウントプランナーと言わず、ディレクションを含めたすべてを担当してた。
そこの上の人が、デジタルプロモーション領域の大手企業の営業担当者と仲良くて、そのつながりからどんどん仕事をもらってくるようになったから、自分もその企業の名刺も持ちながら、営業から提案、受注、自分でディレクションして納品、という日々を繰り返してた。けっこう売上を出していたのもあって、途中からは上司は役員だけって状態でチームを持って仕事してたから、ツラ楽しいって感じ。

とにかくいろんなクライアントさんと仕事をして、1社目の会社と同じかそれ以上の規模のプロジェクトを担当していたね。とにかく働きまくった3年間で、週5日泊りがけとかしてた。いちばん多かったときは、月にプレゼンが6回。プレゼンの資料づくりって、こだわろうと思えば終わりはないから、ずっと泊りになるのよ。いま考えれば無駄なことも多かったなと思うけど、20代のころは体も丈夫だったし、ずっとそうやって働いてた。
もちろんいまはそんな時代じゃないので、部下にそんな働き方はさせてないけど、量をこなすことによって鍛えられたのも事実だよね。

ただ、ある時期から会社の方針と合わないところがあって、辞めようかと悩んでいるときに、さっき話した営業の人が、「羽村さん、辞めるなら一緒にやりましょう」って言ってくれたの。「もう組織とか人間関係には疲れたんで、会社に入るのはちょっと……」と言ったら、「じゃあ、フリーランスとして一緒にやりましょうよ!」と言ってくれて、その人と2年間、タッグを組んでずっと仕事することになった。
その人は第二の師匠だね。特に企画書づくりについては本当に鍛えられました。提案内容というより提案に望むスタンス、マインドというか、細かいこだわりというか。当時は「ほんと勘弁してよ~」と思うことも多かったけど、いまでは本当に感謝しかない。

「インフォバーン=編集力」という武器を使って、さらなる高みをめざす

▲「百軒店商店街で朝まで飲んだ雰囲気でお願いします」という編集部の無茶な要求に、「じゃあ、下から上がってこようか」と優しく応えてくれる羽村さん。

――前より小さな会社に転職、さらにはフリーランスと、世間一般でいえばリスキーな道にどんどん進まれていましたね。

そうだね、俺は常にリスキーなのかな? たしかにギリギリなのが好きかも。

――フリーランスになったのも、いままでの話を聞いていると納得しますけど、逆にそれからインフォバーンという「組織」にまた入ることにしたのはなぜでしょうか?

フリーランスとして活動した2年間は、仕事としてはある意味、楽だったのよ。自分ひとりで全部できちゃうから、ストレスもないし、人の面倒をみたり、フォローをしたりしなくて済む。組織にいると、自分でやったほうが早くても、部下に仕事を頼んで教える必要もあるじゃない。

でも、フリーランスとして仕事をしていくうちに、人と仕事をする、チームで仕事をするというのが、それはそれでちょっと恋しくなってきて。さっきの第二の師匠の会社にインターンで来ていた優秀な大学生に、頼まれて仕事を教えたりするのもすごく楽しかったから。

それと、2社目のときの部下が、インフォバーンに入社していたという縁もあった。その子からは、「インフォバーンに来てください、うちは営業がいないから」って何度も誘われていたんだけど、まだどっちつかずの気持ちだったから、「だが断る」とずっと言っていたんだよね(笑)。
だけど、「そろそろ組織に戻ろうかな」と思ったときに、インフォバーン社内の状況もどんどん変わっていたらしくて、「いまはWebのディレクターが社内に少ないことに困っているんです。出自が出版社なぶん、Web業界の専門的な知見はまだまだ不足しているから、なんとかしてください」って、また話を聞いて……。

それで、インフォバーンの移転パーティがあったときに呼ばれたから、そこに遊びに行ったら、役員の人を紹介されてね。そこから何回か会話をしているうちに、「この会社なら自分の価値を発揮できるかも」と思うようになっていった。
なんとなく社員の人となりもわかってきて、この人の良いところはここ、悪いところはここ、じゃあ自分が入ったらこういうことで貢献できるな、というのがイメージできてきたんだよね。それで入社することにした。ちょうど東日本大震災のタイミングでした。

――インフォバーンに入ったらハマりそうだというのは、どういうところで感じたのですか?

結局、自分は型にハマったことをするのが好きじゃないんだと思う。自由に制限なく、極めていきたいタイプ。だから、また組織に入っても、ここなら自由に働けそうだと思えたのが第一かな。

それとインフォバーンに入る前は、コンテンツ制作というものに関して、自分の頭の中に「文字を書く」「テキストで勝負する」ということは、ほとんど存在していなくて、ライターという職業の人と仕事をしたこともなかった。でも、インフォバーンには編集者が多くて、テキスト・コンテンツの制作能力が高い。「これまでにも個人で仕事を取ってきたのに、編集ができる人と一緒に仕事をしたら、新しい武器が手に入って、もっと勝てるようになるじゃん!」と思ったのもあるかな。

逆に、わざわざ同じようなスキルを持つ人がたくさんいる会社に行くつもりはまったくなかった。当時は「小林弘人(※インフォバーン共同創業者で、現在は代表取締役会長)」も『WIRED(※小林弘人が日本版を創刊した雑誌)』も『ギズモード・ジャパン(※インフォバーン関連会社・メディアジーンのオンラインメディア)』も知らなかったけど、だからこそ自分がいままで接したことのない職種の人と仕事をするのは、何か面白いことができるんじゃないかと感じたんだよね。そういったことがインフォバーンに入社を決めた理由かな。

――Web業界で長く働かれていたからこそ、インフォバーンと同業他社との違いも感じられそうです。先ほどお話に出た「テレアポ」などは一切していないインフォバーンですが、営業の仕方も含めて、実際に入社されてからの印象はどうでしたか?

それまでの会社とは全然違ったよ。入って最初のプロジェクトは、とある大手企業の案件だったんだけど、そのクラスの企業から指名で相談が入っていることにまずびっくりした。
営業をしてきた経験からすると、そもそもクライアントの担当者を捕まえるというのがものすごくハードルが高かったし、ましてやメディアからインタビューを受けたり、コラムを書かれていたりするような著名なクライアントの方なんて雲の上の存在だったから。
それがカンファレンスとかに行くと、みんなインフォバーンのことを知っているし、今田素子さん(※インフォバーン共同創業者、現在は関連会社メディアジーンCEO)に紹介してもらえばそういった人たちと直接話すことができる。「何これ、特急券じゃん!なんだ、このファストパスは!」って、すごい会社に入ったなと興奮したのを覚えてる。
一度つなげてもらえたら、あとはこっちで頑張るだけだから、インフォバーンはなんて良い環境なんだろと思ったよ。本当にトップ営業の力がすごかった。

最初の会社では当然、初めは予算が大きい案件は担当できなかったわけ。もちろん企業の大小、案件の大小と仕事としての充実や価値はイコールではないんだけど、先輩が誰もが知る企業の担当を任されている姿を見ると、やっぱり本音を言えば格好よく映るんだよね。そのときの気持ちがまだ残っているのかもしれない。

自分はそれまでにも大手クライアントを担当することは多かったんだけど、インフォバーンであれば、また違った角度からそういった案件をさらに多く担当できると思ってワクワクしてた。最初からインフォバーンに新卒で入った子にはそういった感覚はないと思うけど、実はとても幸運な環境なんだよと伝えたくなることもある。

――インフォバーンの企業風土としては、出版社などの編集者出身の方が多いこともあってか、体育会系というよりは「文化系」の雰囲気がありますが、そのあたりはどうでしたか?

当時は、いま以上に編集出身者が多くて、コンテンツには詳しくてもWebについてはよく知らない、というタイプの人が多かったイメージだね。
体育会系的な会社にもいたけど、自身がいわゆる“陽キャ”という感じでもないというか、もともとは人見知りする人間だったから、むしろインフォバーンの風土は肌に合ったんだと思う。

入社当時のインフォバーンでは、テキストを中心にコンテンツをつくる編集者が多くて、Webディレクターの数はまだまだ少なかった。自分が入社した時期が、「Webディレクター」という職種の採用に本格的に力を入れ始めたタイミングだったからね。
それでも歳の近い先輩社員とか、同じくらいの時期に入ってきた同僚とかとすごく仲良くなって、しょっちゅう飲みに行ったよ。まだインフォバーンでは珍しい存在なのもあって、Webディレクター全員が男子校みたいなノリで、アカウントプランナーを兼任しながら楽しく働いていました。当時、採用のための記事広告を『デイリーポータルZ』に出稿したんだけど、それを読んでもらえばなんとなく雰囲気が伝わるかも(「仲良しクラブ、はじめました」『デイリーポータルZ』2013年9月10日配信)。

飽きがこないクライアントワークは、何よりも成長できる「クリエイティブな仕事」

▲「二日酔いのときって水を飲みたくなりますよね?」という意味不明な編集部の要求に対し、「飲んでみようか~」と気さくに応じてくれる羽村さん。

――転職もされ、フリーランスも経験され、もともとは組織向きなタイプではなかった羽村さんが、12年もインフォバーンに居続けているのはどうしてなんでしょうね?

結局は、いい人が多い、ということなのかも。それは同僚も部下も、もちろんボードメンバーも。人の入れ替わりはもちろんあるけど、そこはずっと変わらないかな。もともとフリーランスから組織に戻った理由も、「人と一緒に働きたい」という気持ちだったし、「誰と働くか」っていうのは自分にとってかなり大きいんだと思う。あとはさっきも言ったように、自由にできるから、そこもね。

――仕事としても、「飽きにくい」と社員がよく言いますよね。けっこう「飽きっぽい」と自称する社員も多い会社ですが……。

あー、なるほど……飽きっぽいというか、好奇心旺盛なのかもね。
いつも新しいことを見たい、知りたいって思ってるから、あるタイミングでグッと深く潜れる。「仕事としてやらされている感」がなくて、自分の興味として動き回れる。色々な業界の仕事ができるクライアントワークだからこそ、好奇心が強い人のほうが楽しめるだろうね。それに、そうやって「自分でつかんだ答えなら、一生忘れない」。自分自身の知識やスキルになると思うから。

――羽村さんは一貫してWeb領域でクライアントワークをされてきていますよね。世の中には途中で「事業会社」に転職する方もいますが、そうしたことは考えたことはないのでしょうか?

「いつかは事業会社に」ということは、20代のうちは考えていたよ。「発注する―受託する」という関係性のなかで、「発注する側に行ってみたい」って考えもあるでしょう?
ただ自分の場合は、「クライアントワークでスキルを磨けば磨くほど、実績を積めば積むほど、事業側に行ったときの価値は絶対に上がるな」とも思っていたから。Web制作の領域にもいずれインハウス化の波は来るだろうと考えていたし、「優秀なWeb制作会社のディレクターが、ブランドの制作ディレクターになる日が来る」ってよく同僚や部下と話してた。

受託する側って毎回やることが違うし、いろんな業界のことも知ることになる。規模の小さい会社なら本当になんでもやらないといけないし、安心安全なマニュアルなんてないことが多い。だからこそ、成長率が高いのは間違いないと思う。
自分が主人公のRPGゲームをやってるとしたら、案件を経験するごとに武器が手に入ったり、呪文を覚えたりする感じだね。それで「いつか行けばいいや」「いまじゃなくていい」って働いていたら、いつの間にかインフォバーンに入って12年が経っていて、そんなことさえも思わなくなってたよ。
「道草を楽しんでたら、欲しいものより大切なものが転がってた」という感じ。自分は「自社事業」という制約がないほうがよいし、さっきの話でいけば根が飽き性だから、もともと合っているのはこちら側だったんだと思う。

「受託」と言っても、ただ「言われた作業をする」というのとは違って、いろんな状況に応じてクライアントの期待を超える提案をして、目に見える形で実現させなきゃならない。クライアントワークというのは、実はすごくクリエイティブな仕事なんですよ。


▼その他、インフォバーンのコアな情報(!?)はポッドキャストにて配信中。
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