「あなたの『強み』は何ですか?」
就職活動という文脈において、この質問が「学生が自身をどう客観視し、その特性を仕事にどう活用しようとするか」という自己分析の粒度や意志を測るための装置であることは、今や周知の事実でしょう。
私自身、人事部採用課で新卒採用を担う立場としてその意図を十分に理解しているつもりです。
しかし、学生時分から今に至るまで、私はこの問いに対して拭い切れないささやかな違和感を抱き続けています。
今回はこの違和感について、私の個人的な考えごとを文字に起こしていこうと思います。
この質問について考える時、いつも頭をよぎるのは小学生の頃の記憶です。
毎学期末、友達同士で通知表を見せ合っては、先生が記した耳障りの良い言葉に一喜一憂していました。
「集中力の高い子で……」
「視野が広く……」
大人に評価され褒められている事実に高揚する一方で、どこか悲しいような、当時の自分には言語化できない一抹の寂しさに似たものを感じていました。
今思うと当時の私は、言葉とそれが表す意味は過不足なく一意に定まるべきものだと考えていたのかもしれません。先生が意識的に「褒めようとしている」ことを子供ながらに察してしまい、脚色された事実にある種の”歪み”のようなものを感じていたのでしょう。
まったく可愛くない子供がいたもんです。
閑話休題。
実際、「集中力が高い」という状態は裏を返せば「すぐに周囲が見えなくなる」とも言えるはずで、同様に「視野が広い」とは「落ち着きがない」ことの同義語でもあり得るのでしょう。
個人の特性という暗渠は、ある一点において刃物の持つそれと合流しているのかもしれません。
刃物そのものは、ただ「鋭利である」という物理的な特性を持っているに過ぎず、それが調理場にあれば食材を捌く「便利な道具」となり、悪意の中にあれば「危険な凶器」になります。
刃物そのものに対して善悪を問うことが無意味であるのと同様に、個人の特性に関して「強みか、弱みか」という二分法でラベリングすることは、その本質を捉え損ねる行為のように思えてなりません。
個人が持つ即物的な『特性』を、安直な言語化によってカテゴライズし本質を削り取るような姿勢、そして結果出来上がった咀嚼しやすい言葉のみで個人を測ろうとする軽率さに対する拒絶感とでも言いましょうか。
私が抱いていた違和感の正体は、もしかするとこのあたりにあるのかもしれません。
もちろん、ビジネスの場において特性を「強み」として定義し、活用する覚悟を問うことの重要性は理解しているつもりです。
便利な道具を使いこなすためには、それが凶器にもなり得るという事実を誰よりも深く認識していなければなりません。自らの特性が持つ多義性を引き受けた上で、その特性をどのように使いたいか。その自覚と意志こそが、特性そのものと同様かあるいはそれ以上に個人の輪郭を鮮明に定義するはずです。
自分の特性を正確に認識した上で、それがどのような環境下においてどう活用されるのか。この問いについて、しかし焦って無理に答えを出そうとする必要は必ずしもないと私は考えています。
自らの特性を定義することは、畢竟「自らが何者かを定義する」ことに他なりません。
それは恐らく、死ぬまで考え続けるに足る命題の一つです。
ただ、だからこそ今この命題について考えておくことには大きな価値があると思います。
就職活動も、そしてこれからあなたが社会人になるという出来事も、あなたの人生における一過性のイベントに過ぎません。
自身が何者であるかを深く考える経験は、無数の選択を繰り返すこれから先の人生において、正しい答えを示すことはなくとも、正しい迷い方なら示してくれるはずです。
就職活動のために潰し削って額縁に嵌めた『強み』を用意する必要はありません。
自問と自答を繰り返し、それでも言葉が足りないのなら対話をしましょう。
もちろん、その対話の相手が私である必要は全くありません。
あなたが自分自身と、あるいは信頼に足る誰かと、徹底して言葉を尽くした先に納得解を見出せるのであれば、それが何よりです。
私はあなたに答えを用意してあげることはできませんから。
ですがもしあなたが自分なりの答えを見出すまでの過程において、私を対話の相手として選んでくれるのであればそれ以上に嬉しいことはありません。
あなたなりの『特性』とそれに向き合おうとする意志を携えたあなたと対話できる日を、心より楽しみにしています。
以上、一條でした。