この記事はnoteに掲載したものを転載しています。Wantedlyでは“TRUNKで働くことに関心がある方へ”の観点で紹介しています。
目次
「惰性の仕事」がなくなった
ツールは便利だが、目は育たない
デザインを定数と変数に分ける、という考え方
どうするか
感度のある人間には、美意識の一貫性がある
種のある人間と、話したい
最近、若いデザイナーと話す機会が増えた。(写真は20代の頃のワタシ)
皆20代。美大を出て数年制作会社で働いた後フリーランスになった人、独学でグラフィックデザインを始めたばかりの人。地方でデザイナーをはじめて、東京に出て来て頑張っている人。キャリアや実力はそれぞれだが彼らと話していると、共通した空気がある。どこか手探りで、自分が今どこにいるのよくかわからない、という感じ。若いから仕方ないし、かつて自分もそうだったと思う。でも課題感や不安を聞けば聞くほど、世の中の動きを見れば見るほど、これは個人の問題じゃなくて構造の問題だと確信するようになった。
30年この仕事をやってきた人間として、自分の経験がそういう人たちに少しでも役立てられないかと、最近ずっと考えている。
「惰性の仕事」がなくなった
僕が駆け出しの頃、かつてデザインの現場には「惰性の仕事」といっていいものがあった。月イチで入れてる折込チラシ、広報誌の片隅の小さな広告、予算が余ったから調整で作るチラシ、地元の百貨店の催事のDM、印刷会社の営業さんが取ってきた些細な仕事、それらはみんな、今回ダメでも次がある案件。華やかじゃないし正直退屈なことも多い。でもそういう仕事をたくさんこなすなかで若手は手を動かし、チャレンジして、お客さんにダメ出しをされて、また手を動かして、少しずつ目と手を育むことができた
そういう仕事が今、ほとんど無くなってると思う。
イラレが『使える』社員による企業の内製化やAIが、若手の練習環境を根こそぎ持ち去った。ちょっとした広告はデザイナーじゃなくても作れる時代になった。昔はデザイナーに依頼するしか選択肢がなかったから、どんな些細なものでもプロに頼むしか選択肢がなかった。今は違う。費用対効果を考えれば高いコストをかけてまで、そこそこの出来のデザインを外注するくらいなら、「イラレが『使える』社員」や個性のないAIの画像で済ませる方がコスパが良いというわけだ。残されたデザインの仕事はと言えば、社運をかけたブランディングや、失敗の許されない重要な仕事ばかり。そんなのこの道何十年のベテランか中堅以上のデザイナーしか扱えない。TRUNKもまさにその状況である。ブランディング中心の仕事では、経験の浅い人間が実案件に関与できる隙は実質存在しないのだ。
これは努力や根性でなんとなかなる話じゃない。仕事しながらデザインを練習する場所が物理的に消えているのだ。デザインの仕事は、案件数×時間で成長が決まる。携わる案件、携わる時間がなければ成長もしないのである。
ツールは便利だが、目は育たない
AIの進化は素晴らしいし、テンプレのあるデザインツールがあれば、経験がなくてもそれなりのものが作れて便利だ。これは本当のことだし、場合によってはそれも悪いことばかりでもない。それでいい、と思える人にはそれが正解なのだ。
ただ、厄介な副作用がある。
著作権フリーの写真をつかい、テンプレでデザインしたwebデザインが、個性が洗浄されてアクが落ちて無個性に見えるように、表面の粗さが消え、見た目が均質化したデザインが溢れることで、それがあたかも正解だと錯覚し、「なぜこれがダメなのか」に誰も気づかけなくなる。本人も、クライアントも。「CVが稼げてるから、このデザインは正解です。」という言葉に判断の目が曇る。
フィードバックが発生するための摩擦が、至るところで取り除かれている。
摩擦のない環境では人は育たない。筋トレと同じで、負荷なしに筋肉はつかないのだ。
ツールを使いこなすことや数値化された判断基準を指標にしてデザインを整える技術と、デザインの目が育つことは、別の話なのだ。
デザインを定数と変数に分ける、という考え方
少し抽象的な話をする。
どんな案件にも「定数」と「変数」がある。定数は、積み重ねた経験から導き出せる構造だ。タイポグラフィの読みやすさ、視線の流れ、余白の機能。破ると機能しなくなる法則。これは教えることもできるし、書籍としてまとめられている知識だ。だから言語化もできる。
変数は、その案件固有の文脈から生まれる構造に組み込めない余白部分だ。ここにデザイナーの個性と勘や感性が必要になる。これは言語化して教えられない領域なのだ。もちろん書籍化もされていない。でも育てることはできる。
経験のない人間には最初、すべてが変数に見える。何が構造で何が表現なのか、アイデアのヒントなのか区別がつかない。混沌の中で途方に暮れる。これは当然のことで、恥ずかしいことでも何でもない。ただ、その情報の仕分け作業と考えをアウトプットすることを訓練する場が今、極端に少ない。それが問題の核心なのだ。
どうするか
若いデザイナーと話すたびに、この問いに戻ってくる。そして今のところ、こういう方法が有効じゃないかと思っている。
まず、定数を学ぶ。
タイポグラフィ、構成、余白の理屈。これはマニュアルが機能する唯一の領域だ。ここを丁寧に自分に叩き込む。つまり方法論を自分の中で増やしていくのだ。
次に、本物の現場を目撃する。やるのではなく、文字通り「見る」。
クライアントとの議論、方向性を決める瞬間、ボツにする判断。その緊張感の中に居続ける。いい映画をたくさん観ると目が育つように、本物の判断の現場を目撃し続けることで、何かが積み重なっていく。
「非採用前提」のアウトプットを出し続ける。
同じ案件に対して、自分ならどうするかを考えて形にする。クライアントに採用されない、評価もされない。でも本気で考える。緊張感だけ本物の現場から借りて、失敗のコストは切り離す。スポーツで言えば、試合を観ながら同時に自分も練習している状態。
そして、言葉にする。
自分が出したアウトプットを、抽象と具体を行き来しながら言葉にする。なぜこうしたのか。何を定数と判断して、何を変数として扱ったのか。うまく語れなくていい。語ろうとすることが、目と手をつなぐ回路を作る。
この四つのサイクルが自走し始めた時、人は急に成長する。そのタイミングを見極めて、本物の仕事に送り出す。それが僕が考える若手の育成方法だ。
感度のある人間には、美意識の一貫性がある
でも感度だけは、正直教えられない。
良いものと悪いものの差を感知するアンテナの精度は、ある程度最初から決まっている。育った環境、幼い頃から触れてきたもの、言語化する習慣があったかどうか。そういうものが積み重なって形成される。
感度のある人間には、共通した特徴がある。ライフスタイルに一貫した美意識が見られるのだ。
音楽の趣味、ファッション、インテリア、好きな店、乗る車、出かける場所、好きな映画。これらがバラバラじゃなくて、一定の美意識でつながっている。明確に言語化できなくても、その人を取り巻く環境全体が、その人の「編集物」になっていてその人らしさとして提示される。それが感度のある人間の佇まいだ。
逆に感度が薄い人は、そこに一貫性が見られないことが多い。ファッションには詳しいがインテリアは無頓着、車は好きだが音楽はからっきし、という具合に、美意識が領域ごとに分断されている。
日常生活において、それは別にどうでもいい話だ。デザインという仕事につかなければ個人の自由だし、好きなものを好きなように楽しめばいい。でもデザインの仕事を志す人間の場合、事情は違う。
デザインとは、ある文脈の中で判断を下す仕事だ。その判断の精度は、どれだけ広い範囲の美意識を自分の中に持っているかに左右される。ファッションだけ、インテリアだけ、音楽だけ。そういう偏った蓄積では、いざという時に引き出しが足りなくなる。
もう一つ言うと、マジョリティーに支持されるカルチャーばかり追いかけていてはいけないと思っている。流行を知ることは大事。でもそれだけでは足りない。マジョリティーを知るなら、マイノリティーも等しく知っていなければならない。大きな声に耳を傾けるなら、小さな声にも同じだけ耳を傾ける。その両方を知っている人間だけが、文脈を読んで判断を下せる。しかし大きな声は耳に入って来やすい。小さな声は耳を澄まさないと聞こえないものだ。
感度はグラデーションだ。眠っていた感度が適切な環境で目を覚ます人間もいる。だから可能性を自分で閉じる必要はない。ただ、意識的に自分の美意識の幅を広げようとしているかどうか、それは自分でコントロールできることだし、この仕事をするならやらなければいけないだろう。
種のある人間と、話したい
これを書いたのは、今の構造的問題を放置しておけないという気持ちがあるから。このままだと、世の中で活躍できるデザイナーがいなくなってしまうんじゃないかという危機感があるから。そして、同じようなことを考えている若い人がいるなら、その人と話してみたいという気持ちがあるから。
感度のある人間は、感度のある発信に反応する。ポートフォリオや資格じゃわからないことが、考え方や言葉には滲み出る。フィルターは自動的にかかる。だから書いている。
デザインはケースバイケース。正解はない。混沌の中から定数と変数を仕分けて、残った余白に自分の答えを探せる人間を、僕はずっとおもしろいと思ってきた。
その種を持っている人間が、まだまだいると思っている。
話をしたい若いデザイナーからの連絡を待っています。