ヒダカラ社員インタビューにて、代表取締役の舩坂 康祐(ふなさか こうすけ)にこれまでの経験やヒダカラ誕生の経緯、そして家業のこと、大切にしている価値観などを聞いてみました!
舩坂 康祐(ふなさか こうすけ)
飛騨にある地元の高校を卒業後、慶應義塾大学に進学。大学を卒業後は楽天株式会社に入社しECコンサルタントとして全国の大手・中小企業を500社以上担当。全国各地を転勤する中で、大企業で働くよりも地方でキラキラと働く経営者の生き方に憧れ、30歳のときにUターンを決意。家業の家具木の國屋へ就職し、父と二人三脚で事業の立て直しを成功に導く。2020年4月、妻である舩坂香菜子と共に株式会社ヒダカラを起業。
Facebook:舩坂 康祐
Twitter:@KHidakara
目次
- ずっと考えていた家業のこと
- 大企業で成果を出すために意識していた2つのこと
- 30歳、飛騨に帰る決意と行動
- 再発見した飛騨の魅力、ヒダカラの誕生
ずっと考えていた家業のこと
ーー まず簡単にこうすけさんの生い立ちからお聞きしてもいいですか?
こうすけ:祖父の代から始まった飛騨高山にある家具の小売店の長男として生まれました。幼少期から自分のやりたいことをさせてもらって伸び伸び育ち、あまり手のかからない子だったみたいです。勉強もコツコツ真面目にやるタイプで、高校卒業までは地元飛騨で過ごし、大学進学を機に上京しました。
大学ではマーケティングなどを学び、新卒で楽天株式会社 (以下、楽天) に入社、30歳の時に飛騨に戻ってきました。
ーー もともと飛騨に帰って来て家業を継ごうと思っていたんですか?
こうすけ:家業を継いでほしいとは言われていなかったのですが、学生時代も楽天時代も 家業は自分にとってのアイデンティティでもあり、呪縛のようなもので、ずっと家業のことは考えていましたし、どうするか悩んでいましたね。
幼少期 実家の庭にて
ーー 就活の際はどのような軸で会社を見ていたんですか?
こうすけ:その時はまだ明確に跡を継ぐ事を決心してはいなかったのですが、実家が商売をしていて経営者の祖父と父の姿を見て育ったので、いずれは「自分で何かをしたい」という気持ちは学生の頃から抱いていました。
そういう軸があったので、商社やベンチャーに行きたいなと考えていたんですが、いくつかの選考が進んでいく中で飛騨に帰るってことを考えたら楽天だったらいいかもしれないと思って最終的に入社を決めました。当時の楽天は「地方を元気に」を掲げていたので、そういう意味ではピッタリでしたね。
ーー 入社後はどんな仕事をしていたんですか?
入社後は「楽天市場のECC (ECコンサルタント)」という部署に配属が決まったんですが、就活の第一志望ではなかったこともあり、学生気分が抜けてなかったのか、やる気が出なかったのか、、、不真面目な社員でした。
「新卒研修ダルいな〜」って思って終わったら早々帰ってましたし、最初の数カ月は目標の達成率が30%くらいでした(笑)それなのに帰るのは早いし、遅刻も1年目は10回くらいしてて、、
ーー そんなこうすけさん想像できないです、、
こうすけ:「学生気分でやってんじゃねえよ!」ってさすがにメンターに怒られました。
ようやくこれはまずいなと思い、先輩に助けてもらいながら、1年目の最後の2ヶ月は目標を達成できるまでになりました。そして2年目になるタイミングで福岡転勤になったんです。
先輩や上司やクライアントに恵まれたこともあり、2年目からは同期300人の中でも目立つ成果を出すことができたり、社長賞を頂いたりしました。そして3年目には4-5人のチームを任されるようになりました。
若手にチャンスをくれる社風だったこともあり、このころは朝から夜遅くまでがむしゃらに働いていました。夜も22時過ぎまで働き、そのあとみんなで飲みに行くような生活でしたが、すごく楽しく働いていました。
妻と出会ったのも福岡支社の時ですね。
福岡時代に起きた東日本大震災への応援メッセージ
大企業で成果を出すために意識していた2つのこと
ーー 1年目からの変化がすごいですね!福岡のあとも転勤が多かったんですよね?
こうすけ:福岡の後は広島、松山、大阪支社と1年ごとに転勤をしました。入社5年目のときに10名程度の四国支社の拠点長を任され、マネジメントの経験や小さな組織でも数字を任されたという経験が大きな財産になりました。
地方支社ではマネージャーの裁量が大きかったこともあり、自分のやり方次第でメンバーのモチベーションや成果も大きく差が出るんだなとすごく学びました。自分自身は上司に恵まれ、楽しく仕事ができたという記憶しかないのですが、反面教師のような組織もたくさん見てきました。
楽天がベンチャーから大企業になる途中段階だったこともあり、風土や制度の変化、その中で成果を出す部署と、出せない部署、三木谷さんの振る舞いとか、今思うと貴重な経験でした。社内の英語化も入社後だったので大変でしたね(笑)
ーー 成果を出すために特に意識していたことなどはあったんですか?
こうすけ:がむしゃらに頑張っていただけでもあるのですが、、、、あえて2つ挙げるなら、1つは自分の実力とちゃんと向き合うこと。社会人3年目のときに高い目標と周りからの期待に無理をしすぎて精神的に少しキツい時期がありました。その1番しんどいときに東日本大震災があり、一旦あらゆる営業がストップになったんです。営業しなくて良くなったことにすごくホッとする自分がその時いました。それがきっかけで、背伸びしてても意味がないからできないことは認めて、自分自身が成長しようと強く思えたんです。
営業に関しては、いわゆる営業トークみたいなのは得意ではないので「どうやったらクライアントの売上が伸びるだろう」ということを地道に考え、信頼関係を築くことを心がけていましたね。
広島時代の支社メンバーと
ーー できないことを認めたからこそ、こうすけさんらしくできるより良い行動に繋がったんですね!もう1つの意識していたことは何だったんですか?
こうすけ:もう1つは、組織の中での自分に求められるポジションと組織のパフォーマンスの最大化を考えていたことです。当時の楽天市場は営業だけで500人ほどいて、毎年優秀な新卒や中途が入ってきていました。その中で自分は営業が得意でもないですし、マネジメントもそんなに得意ではないと思っていたので、だからこそ自分に何ができるだろうとか、社内でどんなポジションになればいいのだろうと考えていました。
たまたま実家が家具屋だったこともあり、インテリアのお店を担当することが多く、最初はインテリアに関して「支社で一番詳しい舩坂」、だったのが、「西日本で一番詳しい」という感じになり、最終的には「楽天でインテリアといえば舩坂」のようなポジションにまでなり、色んなことで相談や依頼が来るようになったんです。
他にもクライアントを集めての勉強会を頻繁に開催していましたね。
中国・四国エリアの全ての県で勉強会をしたり、オンラインでセミナーをしたり、社内でも珍しい存在だったのかもしれません。
大阪時代 楽天ゴールドイーグルスの試合観戦
30歳、飛騨に帰る決意と行動
ーー 本社に戻った際はどんなことをしていたんですか?
こうすけ:楽天が商品のカテゴリーごとの戦略を強化しようというタイミングで、「インテリアカテゴリー」の戦略責任者として、楽天のインテリアカテゴリーの認知をどう広げ、売上を伸ばすのかといった戦略を立てたり、広報の仕事をするようになりました。これまでとは違い、周りにはコンサル上がりの方が多くいたり、三木谷社長にプレゼンする機会も多く、貴重な経験でした。
ニトリや無印などの大手企業との商談や、海外に行く機会、業界の人などとも仕事をすることがきました。「楽天インテリアトレンド」というのを発表して、インテリアコーディネーターの方とオフィスやマンションの一室をトレンドに合った部屋に作り変えたり、メディア向けに記者会見をしたり、と初めてのことばかりでしたが楽しかったですね。
担当していた「楽天インテリアトレンド」
本社時代の仲間たちと
ーー すごい!ここで家業の家具屋さんと繋がってくるんですね。いつ頃辞めることを決めていたのですか?
こうすけ:本社勤務になってしばらくした頃には辞めることを決めていたので「せっかく辞めるなら今のうちに楽天の看板を使って、色んな人と仕事をしてみたい」と思っていました。でもそうやって今までとは違う人と仕事をし始めるとそれがとても楽しくて、、、、退職をずるずる長引かせていていたら妻から「まだ辞めないの?」と言われ、30歳になったタイミングで決めました。
幼い頃から家業をどうしようかというのはプレッシャーでもあり、呪縛のようなものだったんです。特に田舎で商売をするのは都市部よりも難しいと思うのですが、辞める決断ができたときは、地元に帰ってもやっていけるかもしれないと思えるようになっていました。
ーー 飛騨に帰って来てまずは何から始めたんですか?
こうすけ:家業の家具木の國屋へ就職し、父と一緒に立て直しを図りました。帰ってくる3年ほど前に業界最大手のニトリが飛騨に進出してきたことで、うちの業績はかなり悪化していたんです。
家具木の國家の外観
仕入れや販促を見直したり、インターネット関連のことに注力したり、店内をリニューアルしたりと、父と二人三脚でなんとか業績を改善することができました。
一昨年には父から代表取締役を譲り受けました。最近はヒダカラが忙しいこともあり、父に頼りきりですが(笑)
店内リニューアルの一部
再発見した飛騨の魅力、ヒダカラの誕生
ーー ヒダカラはどのようにしてできたんですか?
こうすけ:Uターンしたてのころ、家業からは十分に給料がもらえなかったこともあり、副業でECのコンサルティングなどをしていたのがヒダカラの原形ですね。
地元に帰ってから、「野菜や果物のおいしさ」「子供が毎日飲む牛乳のおいしさ」「美しい自然」「魅力的な人」など飛騨の魅力に気が付くことが多くなったのですが、その魅力が十分に伝わってないことがすごいもったいないなと思っていました。そんな飛騨の魅力を発信・販売できるような会社があれば地域に貢献でき、ビジネス的にも面白いなと思い、自然な流れで妻と一緒にヒダカラという会社を作り、家業と起業という2足の草鞋(わらじ)の生活がスタートしました。
飛騨にUターン後の家族写真
ーー ヒダカラができて1年経ちましたが、特に印象に残っている出来事は何でしたか?
毎月毎月、色んなことがあるので新鮮なんですが、特に4月にスタートしてからの最初の3ヶ月くらいが強烈でしたね。当初予定していた仕事以外に、JAさんと実施した「#おうちで飛騨牛」や白川村のふるさと納税、コロナ対策の通販支援事業など大きな仕事の依頼や相談がたくさん来たんです。
コロナ渦で行き場を失ったお土産を1万個以上買取り、販売したのもこのときですね。
従業員を増やすことは不安もプレッシャーもあったのですが、「必要とされ、価値のある仕事なら応えよう」と夫婦で覚悟を決めたことを覚えています。
ーー 自分たちだからできることや目指していることは何ですか?
こうすけ:今年に入ってから、会社のミッションを「”おいしい”と”オモシロい”未来を創る」と決めました。
飛騨には本当に手間ひまが掛かり、原材料にこだわった美味しいものが多いのですが、こだわっているからこそ、一般の流通には乗らないものもたくさんあります。
「美味しいだけでは未来には残っていかない」という厳しい現実。そこにヒダカラが介在する価値を見出していきたいなと思っています。
地元の人も魅力に気が付いていなかった飛騨の鮎を豊洲に卸したり、ジビエを通販で販売したり。飛騨は一大観光地なので、本当においしい地元のもので作った、お土産も作りたいですね。
みんなで試食するヒダカラランチ
今、飛騨地域の200社以上と密な接点があり、とても良い関係性が築けています。だからこそ、多くの人を巻き込みながら、ヒダカラにしかできないインパクトあるプロジェクトを進めていきたいです。
自分のキャリアのこれまでの10年は、ずっとネット通販を軸足に仕事をしてきたのですが、会社のミッションに沿う形で違う領域もチャレンジしたいなと思っています。その1つが白川村の「豆富事業」ですね。初めての製造業ですが、頑張ります!
ーー 最後にこうすけさんが大切にしている価値観を教えてください!
こうすけ:どうせやるなら何でも楽しくやる!ですね。
仕事の時間ってすごく長いじゃないですか。1日8時間だとすると人生の3分の1は仕事をしています。だからこそ、「お金を稼ぐ為だけに、早く仕事が終わらないかなー」みたいな働き方はすごく人生を無駄にしていて、もったいないなと。
ヒダカラでは朝礼の情報共有や毎朝のアクティビティ、月一の面談などコミュニケーションを大事にしているのですが、関係性の質が上がることで、仕事の質が上がること。そして、みんながやりがいを持ち、生き生きと働くことができて、その結果として組織のパフォーマンスが上がることが最高の状態だと思っています。
ヒダカラを創業して1年が経ち、様々なお仕事を頂いたり、描いていたことが少しずつ実現できているのは、明るく前向きで活発な組織だからだと思うんです。
従業員も10名を超えてきたのですが、メンバー1人1人にそれぞれの強みがあって、良い相乗効果が生まれているので、これからも前向きにチャレンジをしていきます!
ーー 過去4回のヒダカラ社員インタビューを通して、生き生きと働けているという声をたくさん耳にしました!こうすけさんの思いを聞けてとてもよかったです。ありがとうございました!
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【インタビュー&執筆】
水邊慧子
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