ぼくは工務店のコンサルティングをする「株式会社スムーズ」の社長をしています。
工務店とは、家や建物などの工事を請け負う会社のこと。
これまでの支援実績は、500社以上です。日本各地の工務店さんと、お仕事をしてきました。しかし業界のいわゆる「大手」とよばれる企業の実績は、ほとんどありません。
なぜなら、うちがほとんど断ってしまうから。これまでに、100社以上からの依頼をお断りしています。
多くの人にとってはうれしい「大企業からの依頼」を、どうして断りつづけるのか。
この記事は、そんなすこし変わったコンサル会社を、ぼくが立ち上げるまでの話。
コンサルタントや経営者の方はもちろん、キャリアに悩んでいる人や、いまの仕事にやりがいを見出せていない人などの参考になる部分があればうれしいです。
コンサルになった理由は「稼げそう」だったから
新卒では、コンサル会社に入りました。
理由は「稼げそう」だったから。
大学時代、学費やひとり暮らしの家賃を自分で払うために、本気でアルバイトしていました。それがけっこう大変で。
金銭的に自立した社会人に、はやくなりたかったんです。
「コンサルタント」という仕事を知ったきっかけは、大学時代にみた『天体観測』というドラマ。主演の伊藤英明さんが経営コンサルタントの役をやっていたのですが、スマートでカッコよかったんですよね。
内定をいただいたコンサル会社のなかから、同期がいちばん優秀そうだった、大手企業を選びました。
成果が出なくて、まったく稼げなかった
入社から3年。ぼくはいまだに、まったく稼げていなかったです。
理由はシンプルで、成果を出していなかったから。
ぼくの思うベストなやり方と、会社のやり方が違っていました。
上司へ「絶対にこっちのやり方がいいですよ!」と提案しても「なにを言いたいのかよくわからん」とぜんぜん伝わらない。資料をつくっても「なにを書いてるのかわからん」とダメ出しされる。
プロジェクトで使う資料を、1週間で何十回もつくり直していました。
残業や徹夜は当たり前。仕事中は肩から画板をかけて、そこにパソコンを置き、立ちながら働いていました。
あまりにも寝不足で、座ったらすぐに寝てしまうからです。
小学生のころから「みんなの幸せ」を願う性格だった
ぼくの理想のやり方と、会社のやり方が違っていた原因は「ぼくの性格」です。
小学生のころから「みんながいちばん幸せになる方法」を考えるクセがありました。
ぼくには「自分のやりたいこと」がありません。だから、自分の好きな人たちがやりたいことをやって幸せになることが、ぼくにとっての幸せ。
そのままの性格で、コンサルになりました。
すると1年目のときから、上司の戦略に対して「こうすればみんながもっとハッピーになるのに」「こういうやり方のほうが本質的なんじゃないか」という、漠然とした違和感をもつようになって。
だけどぼくは、とにかく「口下手」でした。言語化するのが、ニガテだったんです。
うまく伝えられないもどかしさだけが、募っていきました。
あまりにも成果が出なくて、会社から逃げだした
どれだけ働いても、空回りするばかり。まったく成果が出ませんでした。
とうぜん給料は上がらない。
新卒4年目の冬。「もう仕事なんかやめてやる」という反抗心で、会社を逃げだすことにしました。
金曜の夜11時に仕事が終わったあと、オフィスにパソコンも携帯も置き、手ぶらで電車に乗って。
行き先は、群馬の「伊香保(いかほ)」という温泉街。東京から2時間以上はかかります。
どこかの宿に入ったところくらいまでは覚えているのですが、そこから土日の記憶はありません。精神がすり減って、もうギリギリの状態だったんだと思います。
気づいたら月曜の朝で、ぼくは東京のオフィスにいました。本能的に「もうそろそろ帰らなきゃ」と思ったのかもしれません。
上司からは、土日に連絡がとれなかったことを怒られました。
「自分ひとりでやらせてください」と提案した
「もう我慢しても仕方ない。やりたいようにやろう」と吹っきれたぼくは、上司にある提案をしました。
それは「中小企業の案件を、営業から実際のコンサルティングまで、ぼくひとりでやらせてください」ということ。
頭にある「理想のコンサル」を言語化することが難しいなら、もう実践して証明してしまったほうが早いなと思ったんです。
この提案は、2つの意味で異例でした。
1つ目は、コンサル業界ではふつう、プロジェクトのリーダーである上司が案件をとってくること。
2つ目は、ぼくが「中小企業」のお客さんを見つけようとしたことでした。
新卒4年目の当時、ぼくのいた部署は「大企業」のお客さんがメイン。ある医療機器で世界シェア1位のメーカーや、日本中のだれもが知っている自動車メーカーがいました。
だけどぼくは「中小企業のお客さんのほうが、本質的なコンサルティングができそうだな」と思ったんです。
会社の内部まで深く入りこめるし、社長と直接やりとりができれば、人事異動などで急に担当が変わったりすることもない。
上司からは「別にやってみたらいいんじゃない?」と言われました。ぼくに案件はとれないと思っていたんだと思います。
「やってやる」と燃えていました。
40件も商談して、1件も受注できなかった
営業をはじめてみたら、ぜんぜん受注できなかった。
上司に自分の戦略をうまく提案できなかったのに、お客さんにいきなりうまく提案できるわけがありませんでした。いま冷静に考えれば、あたり前なのですが……。
じつは、ある後輩が「先輩が営業やるなら、手伝いますよ」と、いろんなところから商談をかき集めてくれていました。
40件はあったと思います。ぼくは、そこから1件も受注できませんでした。40分の0です。
そしたら、商談をかき集めてくれていた後輩の子が、子会社へ飛ばされてしまって。
本来ならぼくが責任をとるべきなのに、信頼してついてきてくれた後輩のキャリアを変えてしまったのです。ものすごく落ち込みました......。
初めてのお客さんは、契約まで14回も商談した
これはなにがなんでも、結果を出さないといけない。
そこから自分でセミナーに登壇して、興味をもってくれた社長さんに提案するようにしました。
最初の受注は、上司への直談判から半年後。
茨城で、地元の情報誌をつくったり、メディアの運営をしたりしている会社でした。
提案に行った回数は、なんと14回。
途中から、商談をしても話がぜんぜん進まないぼくを見かねた上司が「資料を見せてみろ」と言ってフィードバックをくれたり、商談に同席してくれたりしました。
念願のお客さん。だけど、まだ自分が100%思いえがいたコンサルティングはできていませんでした。
「新規事業を立ち上げるので、その支援をお願いします」というご依頼で、お客さんの課題の一部しかサポートさせていただけていなかったからです。
運命を変える、大阪の工務店との出会い
初受注から1年後。
ぼくの運命を変える出会いが訪れます。
その日は、会社が提携していた関西アーバン銀行(現・関西みらい銀行)さんから、ある支店のセミナースペースを借りて登壇していました。
セミナーのテーマは「住宅産業のこれから」。工務店の社長さんが集まっていました。
セミナー終了後、1人の社長が興味を持ってくれて、そのまま銀行の応接室で商談することになったんです。
相手は、大阪で10名ほどの工務店を経営している、株式会社中商(なかしょう)の中島さん。
中島さんは、当時すでにご自身で新しい事業のアイデアを持っていました。
それをいろんなコンサルに相談したところ「実現するのは難しいと思う」と、全員から断られていたんです。ちなみにそのなかには、ぼくと同じ会社のコンサルタントもいました。
論理的に考えると、中商さんのアイデアを実現するのは、難しかったのかもしれません。
でも当時のぼくは、なんか直感的に「いける」と思ってしまったんですよね。
「そんなことを言ってくれたのは、あなたが初めてです。やり方はお任せするので、ぜひ力を貸してください」と、応接室でそのまま契約してくださりました。
「コンサルの役割は、成果を出すことでしょ」
中商さんに対して、成果に必要なことならなんでもやりました。
社長とぼくの2人で、一般のお客さんに向けてチラシを配ったり、公民館で「住宅購入セミナー」を開いたりしました。ときには土日のイオンモールまで出向き、エスカレーターの横で4〜5人のお客さんへ説明会なんかもして。
会社が成長してきたら、採用の代行もしました。人が増えてきたら、つぎは業務の標準化も進めて。
すると上司から「中商さんの案件、すごく成果が出ているね。社内で事例共有会をしてくれないか」と言われたんです。
上司からその話をいただいたとき、ぼくは不安でした。「特別なことをやっているわけではないから、すごい話なんてできないけど大丈夫かな……」と。
共有会の当日。
自分のやってきたことを話してみたら、同僚たちから「え、そんな泥くさいことまでやってるの?」「コンサルの役割は、人を動かすことだよ」と驚かれたんです。
ぼくは、驚かれたことに驚いて。
「いや、戦略だけじゃなくて業務の代行も必要なら、やっちゃえばいいじゃん。コンサルの役割は、成果を出すことでしょ」と思いました。
この瞬間、ぼくは初めて、自分のやりかったコンサルティングを言語化できた気がしました。
「コンサルは口だけ」と言われたのが悔しくて起業
入社してから9年が経ち「いろんな経験を積ませてもらえたな」と思ったタイミングで、起業することにしました。31歳のときです。
起業した理由は、自分自身で事業を立ち上げる経験をしてみたかったから。
コンサルタントをやっていると、お客さんから「実業をやったことがないくせに、エラそうにアドバイスするな」「口だけだよね」と言われることもあったんです。
それが悔しくて。
「実業もできるコンサルなんだぞ!」ということを証明するために「TLUSNOC(トラスノック)」という会社をつくりました。
いろんな事業を立ち上げるためにつくった会社ですが、じつは社名を逆から読むと「コンサル」になるという、ちょっとしたアナグラムも忍ばせて。
トラスノックでは、オンラインのテニススクールに生ハムの加工、あとは水タバコなど、いろんな事業をやりました。
社員第1号は、借金を抱えて入社してきた
独立してから2年弱が経ったタイミングで、友人たちとつくった会社が「SUMUS(スムーズ)」です。
トラスノックは、世の中のニーズを感じた事業のなかから「市場のサイズがそこまで大きくなくて大企業は参入してこないから、うちのような中小企業でも利益を出せるな」と思ったことをやる会社。
いっぽうでスムーズは、仲間がやりたいことをやる会社というすみわけでした。
スムーズで最初にやった事業は「アプリ開発」。
たとえば『住むフォト』という、写真を「撮りたい人」と「撮ってもらいたい人」をマッチングするサービスをつくりました。これは当時、日本でトップクラスの写真撮影サービスになったりもして。
ほかにもどんどん新しいアプリを開発していたころ、うちに1人目の社員がやってきました。
会社の事業は、ここから少しずつ「工務店に特化したコンサルティング」へと、舵を切っていくことになります。
会社初の社員は、知り合いからの紹介。「この子を雇ってくれないか?」と頼まれました。
その子は借金を抱えていて。前の会社で2年間、給料が支払われておらず、消費者金融からお金を借りていたんです。
入社当時は、精神状態もかなり荒れていました。
ぼくは「いまこの子に必要なのは、お客さんからの感謝だ」と思いました。実績のないこの子がすぐに「ありがとう」と言われるには、成功報酬型のビジネスがいいなと考えて。
そのうえでお客さんに対して、ぼくたちの提供価値をわかりやすく感じていただくなら「お金」に直接的に関係する事業がいいなと思いました。
そこで新たに「補助金申請の支援事業」をはじめることにしたのです。
年収1,000万円のYouTuberが入社してきた
しばらくして、2人目の社員がやってきました。それがなんと、株式会社中商の社長の息子。
中商さんは、ぼくに「これが自分の思いえがくコンサルだ!」という成功体験を、はじめて積ませてくださった会社です。
じつは独立してから2年間は競業避止の関係で、会社員時代のお客さんと接触することができませんでした。
その期間が終わったあと、中商さんから連絡をいただき、引き続きコンサルティングをさせてもらっていたんです。
すると社長から「うちの息子を預かってくれないか」と頼まれて。
その子は、将来的には中商の代表を継ぐんだろうなと思いました。「じゃあ工務店向けのサービスをやろうか」と考えて。
「なにか得意なことある?」と聞いてみたら、YouTuberとして年収1,000万円くらい稼いでいました。
そこでYouTube投稿やSNS運用など「工務店向けのデジタルマーケティングの支援事業」をはじめることにしたんです。
工務店に特化したコンサルティング会社へ
つぎに一条工務店出身の、行政書士が入社してきました。
その子から「人事評価制度や人事領域のITシステムをつくってみたいです」と言われたので、じゃあ工務店向けにそういうサービスをやってみようかとなって。
そうやって事業をどんどん作っていったときに「ちょっと待てよ」と。
さすがに事業を整理しないと、組織として統一がはかれないよねとなりました。そこで5期目のとき、社員のみんなと「これから会社をどうしていこうか」と話しあったんです。
独立したときから「いつかまたコンサルティングをやりたいな」とは思っていました。それも一般的な「戦略を提案しておわりのコンサル」ではなく、お客さんの成果のためなら「どんな泥くさいことでもやるコンサル」。
頭の片隅ではそんな気持ちを抱きながら、いっぽうで会社の事業は、入ってくる社員の事情や思いにあわせて立ち上げていました。
それが気づけば、補助金の申請支援にデジタルマーケティング、組織づくりなど、工務店のあらゆる困りごとを解決する手段になっていて。
「あ、ぼくのやりたいことは、ここにあったんだ!」と、これまでのすべての経験がつながる感覚があったんです。
ぼくたちは、工務店に特化したコンサルティング会社になることを決めました。
大企業からの依頼を、断るようになった
「いろんな地域に進出していこうとする工務店や住宅メーカーさんからのご依頼は、お断りしよう」という方針も、このときに決めました。
原体験は、親族。
ぼくの祖父と曽祖父は、新潟の高田市で市長をやっていたんです。叔父は岐阜で「関ヶ原石材」という石材会社をやっています。売上が数百億円もあり、地元の経済を支えている。
そして母はスナックを25年以上も経営していて、地元の人たちにとっての憩いの場を、守りつづけているんですよね。
そうやって地元のために汗を流す姿を、小さいころから間近でみて「カッコいいな」と思っていました。
だから逆に、いろんなエリアにどんどん進出して、失敗したら撤退する企業を「その地域に対する覚悟がないな」と思ってしまうんです。
それよりもぼくは、土地に根ざして愚直にやっている中小企業を応援したい。
その結果、大企業さんからの依頼は、ほとんどお断りすることになりました。そして地場の工務店さんを支援しています。
ぼくは、自分の好きな工務店さんたちに、産業全体や日本を変えていってほしい。
小さいころから自分のやりたいことがなかったぼくにとって、それがいちばんの幸せなんです。
中小企業さんたちと、産業や日本を変えていく
中小企業のみなさんと一緒に、産業や日本を変える。
その土台は、整いつつあります。
住宅産業では、年間の売上が20億円以上あり、その市町村でいちばん大きな売上になっていることが、大手企業の目安です。
これは日本に200社くらいしかいません。いっぽうで20億円以下の企業は、約3万社もいます。
住宅は、金融やITとちがって昔からある産業です。ずっと各地域の職人さんたちが担ってきたので、大手のシェアが小さいんですよね。
トップの企業でも、シェアが数%しかなくて。大手200社の売上を足しても、市場シェアが約20%にしかならないんです。
いっぽうで、いまうちのお客さんになってくださっている工務店それぞれの売上を足すと、市場シェアが20%弱くらいになります。
これからも各地域の工務店さんを応援して、売上の合計で市場シェア20%を超える。
そうすれば、ぼくたちで業界全体や日本を前に進めていけるのではないかなと思うんです。
DXやSDGsを悪用して儲けようとするコンサルもいる
お客さんが業界や日本を変えるため、ぼくたちが目指すべき「本質的な成果」とは、何か。
それは言葉にすると「積み上げた価値が、資産として残ること」だなと思っていて。
コンサル会社の一部には、短期的な流行に乗っかりつづけることで儲けようとする、悪い会社もいます。
いまだとDXやSDGsといった言葉を持ちだして「御社も対策しないとヤバいですよ!」と言いまくり、受注するんです。DXやSDGsが飽きられたら、つぎはまた新しい言葉に飛びつく。
もちろん、世の中の時流を読むことは大切です。でもそれだけだと、お客さんに残るものがないんです。
ぼくたちは、短期的なトレンドはおさえつつ、ちゃんと資産になる取り組みも、じっくりと時間をかけてやる。
だからこそ、中商さんの運営する住宅ブランドは、いま西日本でいちばん認知度の高い住宅ブランドになっています。
そういえば、うちで働いていた中商の息子さんが、今月から中商に入社しました。うちにいたのは、6年くらいですかね。
大切な息子さんを預けるほどの信頼を寄せていただけているのも、短期的ではなく、じっくりと腰をすえた取り組みを積みあげてきたからだなと思います。
あしたはちょうど、中商さんとの打ち合わせ。
これまで隣の席に座っていた中島くんが、あしたはテーブルの向こう側にいます。これからは「中島くん」じゃなくて「中島さん」と呼ばなきゃいけないですね(笑)
コンサルタントの役割とは
一般的に、コンサルタントがお客さんと関わるときは「戦略の提案」や「業務の改善」といった、その会社の一部をサポートするやり方が多いです。
いっぽうでうちは、戦略を立てるのはもちろん、マーケティングの支援や組織の改善、採用の代行など、なんでもやります。営業人数が足りなくて売上が伸びなやんでいるなら、もちろん営業も。
「お客さんの成果のために必要なら、とにかくなんでもやる」。
これこそが、コンサルタントの役割なんじゃないかなって思うんです。
20年前、社会人になるときに想像していた「華やかでスマートなコンサルタント」には、まったくなれていません。
でもいいんです。
これからもぼくは、自分に合った「新しいコンサルタントのあり方」を模索していきます。
そのために今日もまた、電車もバスもない僻地の工務店に向かって、車を走らせつづけているんです。
代表noteこちらから⇨ https://note.com/sumus_kobayashi/