こんにちは!株式会社delta 人事部長の平子です。
私たちは東京・月島で「月島もんじゃ こぼれや」を展開し、「Save The JAPANFOOD」をミッションにしているスタートアップです!2015年に3人の仲間で創業し、2026年6月にはマレーシア・クアラルンプールで海外1号店をオープンしました。
今回は、前後半に分けて、当社の代表取締役社長・中村さんのインタビューをお届けします。
前半となる本記事では、
- deltaを立ち上げた原点と、創業時の苦労エピソード
- 代表が語る、ミッション「Save The JAPANFOOD」に込めた想い
- 「想いファースト」のdeltaが大事にしているカルチャー
について熱く語っていきます。
月島から世界へ「もんじゃ」を届けようとしている私たちが、どのように創業され、どのような想いでここまで歩んできたのか。9年間の副業期間や1通の手紙のエピソードも含めて、たっぷりお話ししていますので、ぜひ最後までご覧ください!
第1章|原点 ― 仲間と地元と、もんじゃと
── まずは中村さんの自己紹介をお願いします。
株式会社deltaの代表取締役社長を務めている、中村謙作と申します。
浅草で生まれて、小学校5年生のときに月島へ引っ越してきました。高校に入ってからすぐ地元のもんじゃ店でアルバイトを始め、大学を卒業するまでの期間「もんじゃ」と関わってきました。
大学卒業後は、東証一部上場(現・プライム)の大手IT企業に新卒入社し、約10年間にわたって法人営業に携わってきました。28歳のときに大学時代の友人から声をかけてもらったことをきっかけに、deltaを創業しました。
2024年に会社員を退き、もんじゃを“世界に誇る日本食”へ。その想いを胸に、仲間たちと日々挑戦を続けています。
── 学生時代からもんじゃ一筋で、しかも会社員をやりながら9年間も兼業をされていたんですね。順を追ってお話しを伺っていきたいのですが、そもそもdeltaを立ち上げたきっかけはなんだったんでしょうか?
きっかけは大学時代の友人の、一言でした。
大学時代にももんじゃ店でアルバイトをしていましたが、その店舗は新規オープンしたばかり、さらにオーナーはもんじゃどころか飲食店の経験もないというお店でした。そのため、学生のうちから新店舗のオペレーション構築や商品開発に携わることができ、アルバイトという立場でしたが、社員クラスの仕事を任せてもらっていたと思います。
ゼロから始めた店に少しずつお客様が集まり、やがて行列ができるようになる。その変化をつくっていく過程に強く魅了されました。熱中するあまり大学生活は後回しになってしまい、結果として2年留年してしまったほどです。今思えば両親には本当に申し訳なく思っています。
そんなとき、同じ学部に通っていた友人が、私の働く店に飲みに来てくれました。代々経営者の家系だった彼は、「もんじゃってどういうビジネスなの?」とよく聞いてきて、「いつか一緒にやってみたいね」なんて話していました。
それから5、6年が経った頃28歳になった私に、その友人から「あのときの話、やってみない?」と声をかけてもらったことをきっかけに、彼ともう一人の大学友人、それから私の地元の友人を加えた4人で、deltaを創業しました。
── 学生時代の「やってみたいね」を、社会人になってから本当に実現するって、なかなかできないことですよね。創業時はどんなチームや雰囲気だったのか教えてください。
創業当初、経営陣は私を含め全員が会社員で、本業と並行しながら事業を運営していました。当然、経営基盤はまだ不安定で、固定的な休みを取れるような状況ではありませんでした。なかでも最初の2、3年は、事業を存続させることに必死だった時期だったと思います。
創業当初は思うように事業が伸びず、利益どころか給料も出ない月もあり、赤字分を自分たちの本業の給料から補填することも珍しくありませんでした。また創業当初は、先の見えない不安と極度の忙しさの中で、メンバー同士が衝突することもありました。
平日は本業を終えたあと深夜まで店舗に立ち、営業後には商品開発やバックオフィス業務を進める。休日も朝から深夜まで働き続けるような毎日で、睡眠時間もプライベートもほとんどありませんでした。また、この事業を理由に本業を疎かにしたくないという思いも強く、本業でも結果を出し続け、管理職になるまでの5年間はトップの営業成績を維持していました。
この創業期に最も難しかったことの一つは、メンバー間で会社の方向性を揃えることでした。今では「月島の活性化」や「もんじゃを世界へ広げる」という共通のビジョンがありますが、当時はそれぞれが会社に求めるものも異なっていました。自分の成長や評価を重視する人もいれば、経済的な安定を求める人もいる。私自身も、当初は“大きな事業をつくりたい”というより、仲間と何かに挑戦したり、地域と関わりながら生きていけることに強い魅力を感じていました。だからこそ、全員の想いを同じ方向へ向けていくことが、何より難しかったと思います。
ただ、だからと言って雰囲気が悪くなることはほとんどありませんでした。ぶつかっても、その日のうちに飲みに行って、腹を割って話す。夜中まで語り合って、翌日にはまた同じ方向を向いて仕事に向かう。そんな日々をずっと繰り返してきました。
事業に可能性が見え始め、会社としての基盤が整ってきた頃、ようやく組織として共通のビジョンを持てるようになってきました。だからこそ、何も見えていなかった創業初期から、私の考えに根気強く付き合ってくれた仲間には、今でも深く感謝しています。
── 創業初期は苦労しながらも、メンバーとぶつかりながら今の形を創り上げてきたんですね。特に経営の部分でぶつかった壁やエピソードがあれば教えてください。
事業を始める過程において、最初の大きな課題となったのは、出店に必要な物件の確保でした。
月島には当時すでに約80店舗のもんじゃ店がありましたが、どこも長年地域に根付いていて、空き物件が出ること自体ほとんどありませんでした。しかも、良い物件は表に出る前に水面下で決まってしまうことが多く、私たちの耳に届く頃には、すでに多くの競合が動いている。ようやく出会えた物件にも20~30社が申し込みを入れ、結局取れない。そんなことの繰り返しでした。
当時の私たちは、物件取得に関する知識も人脈も持っていませんでした。そのため、パワーポイント2枚だけの事業資料を持って、もんじゃストリートの他業種テナントへ飛び込みで営業に回っていたこともあります。今振り返れば、かなり無礼な行動だったと思いますし、実際に怒鳴られて追い返されたこともありました。
そんなある日、何年もの間、空室のままにになっているという物件情報を手に入れました。その物件のオーナーは、月島もんじゃ振興会を立ち上げた方で、祖母の家から30メートルほど先のご近所さんでもありました。ただ思い入れのある物件だったため他人に貸すことは消極的だったようですが、親族の知人関係でもあった為、無礼なことはできないと思い、まずは自分の想いを手紙に綴ってお渡ししました。
手紙には、自分の本音をぶつけました。今思えば、生意気だった部分もあったと思います。当時の月島には、新しく挑戦したい人が入りづらい空気がありました。このままでは街は閉ざされ、未来に向かって広がっていかないんじゃないか。そんな危機感を書いたんです。 一方で、私は月島という街に大きな可能性を感じていました。もっと多くの人が集まり、もっと面白い街になれる。そしていつか、この月島もんじゃ文化を海外にも広げていきたい。そんな夢も、まっすぐに書きました。
数日後、手紙を読んだオーナーさんから呼び出しを受けました。そこで、この街への想いや組合の歴史、そして月島の未来について、1時間以上にわたって熱く語ってくださりました。厳しさの中にも、この街を本気で守ろうとしてきた方の覚悟を感じました。 その話の最後に、「お前達みたいな若いやつに貸してみたい」と言っていただき、物件をお貸しいただけることになりました。それが、現在の「月島もんじゃ こぼれや 本店」です。 あのとき手紙に書いた夢や約束を実現するために、今も自分たちは走り続けているのだと思います。
── そんな経緯があって今の「こぼれや」が始まったんですね。そこから営業を始めて、どのような状況だったのでしょうか?
やっとの思いで1店舗目をオープンできましたが、経営は決して順調とは言えませんでした。経営陣が無償で現場に入り、人件費率を一桁%まで削っても、なお赤字になる月がある。そんな厳しい状態が続いていました。
そんなある日、大手化粧品会社でブランドマネージャーをやっていた大学の友人が店に来てくれました。そして彼女は、遠慮なくこう言ったんです。「ブランディングが全然できていない」と。
指摘を受けて、ハッとしました。「上質なもんじゃ」を掲げながら、価格は安く、メニュー構成も統一されていない。店舗デザインもコンセプトと噛み合っておらず、ブランドとして完全に一貫性を欠いていました。今振り返れば、当時の私たちは“誰に、どんな価値を届けたいのか”を定義できていなかったんだと思います。
そこから私たちは、自分たちの中途半端さを徹底的に否定し、店を大きく変える決断をしました。もんじゃを、ただの観光食で終わらせない。五感で楽しめる“エンタメ食”として進化させる。そう決めました。
当時、もんじゃ1品の平均価格は1,000円台前半でしたが、私たちは1,600~1,800円、さらには2,000円を超える商品にも挑戦しました。具材をこぼれるほど盛り、見た瞬間に写真をSNSに投稿したくなるようなビジュアルを追求する。そうして生まれたのが、「唯一無二の下町創作もんじゃ」というコンセプトです。集客戦略も、従来とは大きく方向転換しました。通行客を取り込む発想ではなく、あらかじめ「月島でもんじゃを食べる」と目的を持ったお客様に、ネット予約を通じて来店していただくモデルへ移行しました。結果として、立地依存型ではないビジネスモデルを構築でき、路地裏や空中階といった不利な立地でも十分に成立するようになりました。
── 創業当初の売り上げも上がらない時期も経験しながら、9年間も副業で会社をやっていたと伺いました。なぜそこまで頑張れたんでしょうか?
正直に言えば、最初から大きな志や立派な理念があったわけではありませんでした。ただ、仲のいい友達とずっと繋がっていたかった。地元と一生関わって生きていきたかった。そして、育ててもらった街に、少しでも恩返しがしたかった。そんな気持ちが、すべての始まりでした。もちろん、サラリーマン以外の収入源を持ちたいという現実的な思いもありました。今思えば、とても身勝手で、等身大のスタートだったと思います。
でも、続けていくうちに想いも変わっていき、専業化を決める1〜2年前から、自分の人生をこの道に賭けてみようと考えるようになっていました。
一方で、当時は結婚し、子どもも生まれていました。安定した会社員人生を続けるという選択肢もあれば、deltaの経営を他者へ引き継ぐという道もあったと思います。それでも、自分はこの事業と向き合う道を選びました。
それでも専業化を選んだのは、二つの理由がありました。
ひとつは、過去から自分を支え続けてきてくれた戦友たちの人生に対して、副業のままでいるのは無礼だと思ったことです。平日の自分がいない時間にも、彼らは現場の最前線で事業を支えてくれている。その状況の中で、自分が安定という保険のある人生でいるのは、トップとして違うのでがないか、と思うようになりました。
もうひとつの理由は、deltaが目指す未来や大義は、自分自身が覚悟を持って向き合わなければ実現できないと感じたからです。あのとき、物件オーナーさんへの手紙に書いた約束を、本当に現実にするためには、片手間では足りない。自分の時間と人生のすべてを、この事業に投じる必要があると思うようになりました。正直、自分自身でも迷いが生じることはあります。でも、会社の中枢メンバーが大好きだからこそ、私には頑張る目的があると思えますし、日々仲間からはガソリンをもらっています(笑)。一緒にこの会社を始めようと声をかけてくれた友人には、天職に出会わせてもらった感謝が尽きません。
── 最後にひとつ。「delta」という社名には、どんな意味が込められているんですか?
三つの意味があります。
ひとつは、創業した大学友人との卒業旅行で利用した航空会社が、デルタ航空だったこと。もうひとつは、3人で起業した「トライアングル」をΔ(デルタ)が象徴していること。そして物理学科出身の私たちにとって、δ(デルタ)という文字は「増分・変化」を意味する記号でもあります。
「いつまでも変化し、成長し続けたい」。社名には、そんな意思を込めました。
第2章|現在 ― deltaが目指す世界、そしていまの私たち
── 改めて、deltaが掲げる「Save The JAPANFOOD」というミッションについて教えてください。
もんじゃは、江戸時代から続く食文化が昭和に姿を変え、現代では外食ビジネスのひとつへと進化してきました。この食文化を守り、もっと発展させたい。それが出発点です。
私は前職で、日本全国の地域金融機関や地方企業に営業をしていました。航空会社の上位会員になるほど毎週のように出張をして、都道府県のほぼ全てを回りました。
そのなかで、地方金融機関の方々の地域に対する想いの強さに何度も触れました。同時に、出張先で地方の食材や料理に出会うたびに、「日本にはこんなに素晴らしい食が眠っているんだ」と気づかされたんです。
地方の生産者や、そこで働く人たち、地域に住む人たち、お客様だった銀行の経済圏に、微力ながら貢献したい。その想いと、月島で育った自分自身のルーツがつながって、「地方食材をもんじゃとして届ける」というブランドが生まれました。
そしてゴールとして掲げたビジョンが、「世界中で鉄板を囲むコミュニティ」。テーブルの上に鉄板がある、東京下町の食体験を世界中に広げることです。その結果として、私の地元でもある月島・浅草が観光地としてさらに繁栄していくことを願っています。
── そんなdeltaが、いま解こうとしている社会課題はどんなものですか?
私たちが取り組むべき課題は、大きくふたつあると思っています。
ひとつ目は、月島という街の未来です。月島は有楽町線の開通とともに「もんじゃの街」として発展してきました。いまも約100店舗のもんじゃ店があります。でも、その商業を作り上げた先輩方は歳を重ね、後継者問題に直面しているのが現実です。
正直なところ、いまの月島もんじゃ店が今後30年続くかどうか、私は懐疑的な印象を持っています。ひょっとしたら、将来的に店舗数が半数に減るなんてこともあるかもしれません。先輩方が作ってこられた商圏で成功させていただいた私たちには、街を守り成長させていく責任があると思っています。だからこそ、deltaが社会に対して影響力のある企業となって、もんじゃを扱う企業や人を増やしていく役目を担う必要があると考えています。
ふたつ目は、海外市場の開拓です。月島を訪れる訪日来訪客は、全体の5%に満たない状況です。国内経済は少子高齢化で衰退していくと言われている中で、いずれは海外にビジネスフィールドを広げていく必要があります。日本国内の商圏を維持するためにも、訪日来訪客の獲得を目指していかなければなりません。
── このような社会課題を解くために、いまdeltaが抱えている課題についてもお聞きしたいです。
正直にお話しすると、課題はいくつもあります。
1つ目は、ブランドの単一性です。いま私たちは「こぼれや」というブランドで8店舗を展開していますが、既存ブランドだけでは長期的な成長ポテンシャルに限界が見えてきている段階です。新しいブランドを創出して、より幅広いニーズや商圏に広げていく基盤を、これから作っていく必要があります。
2つ目は、組織としての視座の高さです。率直に言うと、ミッション・ビジョンや5年後の財務計画、こういうことをやれば社会が変わるのではないか──そんな視点で考えてくれる人は、いまの社内ではまだ限られています。給与や待遇、仲間との関係性に意識が向いている人は多いのですが、もう一段高い視座を持って戦ってくれる人と一緒に働けたら嬉しいです。
そして3つ目は、国内では物価上昇が続いており、飲食業界全体として投資回収期間の長期化は避けられない状況になっています。もんじゃ業態は、顧客単価が業界内で特別高いわけではない一方で、初期投資が大きくなりすいという構造的なや課題を抱えています。だからこそ、既存の延長線上ではなく、ビジネスモデルそのものを変革していかなければ、私たちのビジョンは実現できないと考えています。
これらは、私たちが成長途上の会社だからこそ抱えている課題でもあります。
── 改めてお話を伺っていると、逆にdeltaならではの強みもあるように感じます。中村さんから見て、deltaが他社と違うところはどんなところですか?
事業への想いとメンバーの多様性だと思っています。
当社はよくも悪くもビジネスファーストではなく「想いファースト」で事業をしています。私自身が浅草で生まれ月島で育ったという背景もありますが、社内中枢メンバーの共創マインドがあるからこそ、社会課題に対する意識が高い組織になっています。
メンバー間の仲がよいからこそ言い合いも絶えないのですが、一緒に仕事をしたいと思える関係性があり、共通するゴールを描けるコミュニケーション基盤が整っていると信じています。行動指針にも「利他と共創(相手の気持ちに寄り添って、仲間とともに成功を分かち合う)」という指針を設けています。
そして当社のメンバーは飲食人材だけで組織を固めていないのも特徴です。外資系コンサル、金融機関、IT企業、飲料メーカー、携帯キャリア、警備保障会社など、様々な業界や職種を経験したビジネスボーンを持つメンバーで組織を構築してきました。
外食での多店舗展開は、突き詰めると「仕組み化」が鍵になります。その仕組み化には、ビジネス能力・経験が必要不可欠です。だからこそ、この能力を持つ仲間がいる私たちには、多店舗展開できるポテンシャルがあると自負しています。
ちなみに、店舗職から本部職へジョブチェンジもでき、同じ会社の中で、まったく違う仕事にも挑戦できる。成長途上の飲食企業で、これだけ幅広いポジションを用意できる点も、当社の魅力のひとつだと思っています。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
deltaの原点となる創業エピソードと、いまの私たちが大切にしている想いを、少しでも感じていただけたでしょうか?
「友人の一言」から始まった4人の創業、1通の手紙が動かした物件、8年間の副業期間、そして「想いファースト」で歩んできた10年。月島から世界へ「もんじゃ」を届けようとしている私たちの原点を、少しでも感じていただけたら嬉しいです。
後半記事では、これからdeltaが挑む未来と、一緒にその未来をつくりたい仲間像についてたっぷりお話ししていますので、ぜひ合わせてご覧ください!
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