1.何気ない日常。
1998年4月に鹿児島県鹿児島市で福永家の次男として生まれる。
地方の静かで長閑な田舎。
夏はバッタや蝶を追いかけ、冬はこたつに入ってみかんを食べながらテレビを楽しむ。
親は公務員で大きな一軒家、習い事もまあまあして、何不自由なく幼少期を暮らした。
↑ 黄色い男の子が福永。無邪気に走り回っていた
2.ごく普通の真面目な学生。
学生時代はサッカーにのめり込み、県選抜や九州大会にも出場した。
ただ、それ以上でもそれ以下でもなかった。
高校は県でそこそこの進学校に進学し、文武両道という学校方針のもと部活も勉強もそこそこ頑張った。(当時は大変だったのだろうが、今考えれば本気には程遠かったかな)
高校卒業時は周りが9割進学していたこともあり、悩むことなく大学進学を決意。
サッカーに終止符を打ち、九州の国公立大である熊本大学に入学を決意。
入学の理由はシンプル。
鹿児島に近く帰省しやすい。
IT分野は稼げそう。国立大だと大企業に入社しやすそう。
と、ガッチリ敷かれたレールの上を走っていた。
大学ではプログラミングやプラズマなど、情報電気電子工学について学ぶがいまいちつまらない。。
学生証をかざすだけの平凡な時間を送る。
旅行は好きだったからお金を貯めて旅行にたくさん行こう、そういった学生だった。
当然、夢ややりたいこともわからず大企業に就職したら周りは喜んでくれる。
公務員になって鹿児島へ帰ろう。そんな思いを抱いていた。
↑ サッカーにの打ち込んだ学生時代
2.転機
旅行に行ってお金の尽きた頃、時給が高いという理由で和食のお店に応募した。
そこはなんと、熊本一単価の高い和食割烹料理店。
著名人が頻繁に来店する6席のカウンターしかなくサボるなんてことは考えられない、逃げ場のない店内。
アルバイト入社初日。
「君が真剣に取り組むなら絶対に成長するし、ただお金を稼ぎにきたなら辞めた方がいい」
引き締った表情。眉間にシワがよりザ九州人という鋭く活きた眼差し。
今でも覚えている。
気が引き締まり、自分も真剣になった。
この人は仕事に心からの情熱を持っている。
↑ 和食割烹二郎の大将(社長)
3.挑戦の日々
それから入社後、言われるがままに行動した。
「お酒を出すのに飲んだことがない、は言い訳にならない。勉強しなさい。」
確かにそうだ。と、ワイナリーや酒屋に何度も足を運んで何度も話せるように練習した。
勉強しているとそれをみたのかいろんな人が新たに教えてくれる。
そして、またお酒を勧めてみて、お客さんの反応を見て、また勧めてみて。
だんだんだんだん当たるようにもなって楽しくなってきて、気づいた頃には
週7朝6時~夜10時まで職人さん以上に職場に入り浸っていた。(幸いなことにコロナで学校に行かなくてよかった。)
「食を通して人々に幸せと活力を与えるんだ!今日来てくださるお客さんを笑顔にしよう!」
と、社長と一緒にいつもいつも目の前のお客さんを喜ばせることばかり話した。
お酒の選定、メニュー表、顧客管理システム、各種マニュアルの制作、顧客分析、店内改装のデザイン設計、広報DMなど。コロナが来た時には、熊本で1万円のお弁当を売ろう!と売り切った。
なんでも「はい!喜んで!」とトライした。
これほどアルバイトに精を尽くしている学生は珍しいかもしれない。周りから見たらただの変人。
それでも自分は4年間のアルバイト生活で心の底からワクワク熱中するようになっていた。
↑ 初めは何もわからなかった日本酒たち。。
4.意識の変化
心の底からワクワクして情熱を持って働く大人に「初めて」出会った。
それまで自分の知る世界には、いなかった。
当然の如く仕事は我慢して頑張って働くもの。と思っていた。
おかげ様で、四年間の和食での経験を経て
「自分でも何かできるかもしれない。」「何かチャレンジしてみよう。」
そう思えるようになった。
なんでも真剣にやっていれば自ずと楽しくなる。
熱中して情熱が湧いてくる。
それからは
「自分が大将と出会い、夢や希望を持てたように、次は自分がそういった人になりたい。」
そう思うようになった。
↑ いつも笑っているね、と。笑
5.ビジョンの創造
人には無限の可能性がある。
情熱は人に伝播していく。
そうして
「誰もが心の底から熱中することを見つけ、情熱が伝播して明日が心待ちになる社会を創る」
というビジョンが生まれた。
これが福永祐大という人間の創業秘話である。