前田智之のプロフィール - Wantedly
株式会社YSタレント, 代表取締役 No Global No Japan この私のオリジナルフレーズをモットーに事業に邁進しています
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こんにちは。YSタレント代表の前田です。
今回は、私自身のことと、YSタレントの事業の経緯について書いてみようと思います。
少しでも当社について知っていただけると嬉しいです!
1997年 JTB入社 業界構造を捉えた各海外視察立ち上げ、新規事業面で業績向上に寄与
2003年 株式会社コムスン 最年少執行役員として全国展開を推進
2009年 株式会社チップワンストップにて、海外事業展開を推進
2012年 株式会社ライフデザイン・フローラを設立、在宅介護と介護コンサルティングを展開
2015年 株式会社フローラ・アミを設立 外国人材業を展開
2019年 株式会社YSパートナー代表取締役 YSGグループにて事業展開開始
2023年 株式会社YSタレント代表取締役 YSパートナーから事業移管
学生時代は、目指していた大手商社の最終面接をすっぽかすという大失態をして、行くところがないと路頭に彷徨うところ、JTBからなぜか連絡をいただき、他の活動もしてなかったので、嘆願していくことにしました。
JTBは実はBーBビジネスの収益が大きく、当時入社した450人の同期の新卒の大半が法人営業に配属されたと思います。多くの同期はBーBをイメージしていなく、旅行や国際性に関心があり、モチベーションが低下する人も多かったです。一方、私はそんな志望動機は一切なくて、目の前の仕事に夢中になるだけ。結局、新規事業やある国の分野などで、圧倒的な実績も出すことができたし、当時、現在のAirBnb(エアビー)のようなCーCビジネスのスキームを考案して、何万人の社員から選ばれて本社にプレゼンもしました。確か2000年前後だったと思います。あのまま、私の案をJTBが受け入れた私を使っていたら、今頃大変なことになっていたでしょう笑
そうした私の活動を耳にしてくれたヘッドハンターから、コムスンという会社を紹介されました。
「前田さんが、今の会社で活躍しても、役員になるには、何十年もかかる、そしてその間に運にも左右されてしまう、自分の実力をもっと発揮してみないか?」と。
それほど、乗り気ではなかったのですが、試しに役員の人たちと会うと、非常に攻めている会社で、急激に成長するパワーを感じました。そこで即断即決。JTBからは慰留されましたが、十分の引き継ぎ期間をかけて、2002年度にコムスンへ転職しました。
コムスンはビジネスとしては確かに異常なスピードで成長する企業文化が形成されており、トップの経営者も時代の寵児としてビジネス界で注目され、まさに破竹の勢いでした。しかし、一方で次々と入ってくる優秀な人たちとの社内競争も激しく、ビジネス感覚を持ち合わせない現場とビジネスマンである幹部との摩擦や軋轢も絶えず、さらに急拡大による組織の遅れもあり、日々が戦いでした。
ただ、ここでも新しい取り組みを打ち手として継続効果をだし、毎月、長い間、業績トップに君臨するという成果を出しました。周りにはMBAや一流企業の出身者、起業経験者など、ユニークですごいタレントが集まってましたが、正直、この時自分ほど考えて行動している人はいないなと感じていました。割と下の階層から入社しましたが、最終的には最年少で役員に就任することができました。
しかし、ここから大惨事が始まりました。急速に拡大したコムスンのコンプライアンス問題が社会で大きく取り上げられ、非難が集中しました。結果的には事業から撤退することになり、あれだけ成長して、次の時代を業界的にも日本の産業的にも牽引する勢いから、一気に全事業を売却する奈落の底に落ちました。この時の撤退を任されたのも私です。最終的には事業売却や、他のグループ会社の事業停止なども含めて上場廃止までを行い、会社を去りました。
この時、以前お世話になったヘッドハンターから、「前田さん、一度面白いビジネスモデルを経験したおいた方がいい」と言われて入ったのが、半導体をネットで流通する会社でした。半導体は、通常は大きな資本で大きな開発や量産をしますが、それとは真逆のニッチビジネスでした。継続的に売れない半導体はメーカーが生産を中止します。例えば、軍事産業や宇宙産業においては、特定の時以外に売れません。しかし、軍事産業は紛争や内乱や戦争が一度起きると需要が一気に増えます。この時に備えて、半導体ウエハー(半導体生産工程の基礎となる回路などの知的資産が入っているもの)を、あらかじめ安く買い取る会社がアメリカにありました。私は、その会社と契約をして、さらにその顧客を見つけて、お互いに非常に喜ばれ、ビジネスの醍醐味を味わいました。
ところが、この会社の創業者が米国の会社に売却しました。私はここで、以前から関心を持っていてた起業を「このタイミングでやるしかない」と思い、準備もそこそこに起業しました。これが介護の会社です。
世田谷という競争も激しい地域で、後発のしかも小資本の個人事業で、挑むことになりました。この時に、資本や人事も含めて様々な模索をして、うまくいかない時もありましたが、自分で動いて答えを見つける習慣が以前から培われてましたが、この辺りから心底身につきました。一般的に30歳台までに、この経験がないと本当にビジネスで活躍するのは難しい気がします。
最初はボロボロでしたが、1年で事業が回るようになり、激戦区でも勝負になるような存在になれました。一方で、国内だけで事業をやっている不安や発展性への疑いが徐々に自分の中で強くなつていき私の関心は徐々に外国人材の方へシフトしていきます。
元々、海外人材と話すが大好きだったので、自分の会社に外国人がいたら、なんていいのだろうと漠然とした夢がありました。この夢はすぐにでも叶えるのですが、本当の意味では、2040年に1,000万人の労働者が不足する推計に対して、日本の国も企業も茹でガエルのように、特に手を打つわけではない、という状態への打破と、自分がこの業界をリードしてみたいという思いが高まりました。(今では国も企業も変わっています)
そこで、まずは、現在の前身となるフローラ・アミという会社を2015年に設立して、主にベトナムからスタートしました。普通の外国人材会社の大半は、海外に法人を作らずに、海外とパートナーシップで進めます。もちろん、この方が効率は良いのですが、もっと深くて大きな展開をしたい私として、海外現地を作る必要がありました。そのことを相談したのが、当時のお顧客様だったYSGグループです。YSGグループは長年の業歴で培った安定した資産がありますので、私の願いを叶えることはできそうでした。
これに私は突進してしまい「創業者としての株の持分や自分の価値をどう上げていくか」という面を手放してしまいました。事業の成功を総業の成功に優先させたといえば格好は良いですが、イグジットや後継者難でもない私の第二の大きな失態でした...。その後もあった私個人への資本の話は断り、YSタレントの事業へ集中することに邁進しています。
多分、この特殊な立場で、これほど取り組みをする創業者は稀有だと思います。2019年からYSパートナー(今の社名はYSタレント)として事業をリスタートし、ベトナム、ミャンマー、インドネシアに現地法人を設立して今に至っています。
日本で会社員として仕事をしていた時、それぞれの会社で業績的にはトップクラスになったり、新規事業を切り拓いたりと、それなりに充実していたのですが、起業して自分で勝負したいという気持ちと、それから、漠然と日本人だけで仕事をやっている不安、疑問、そして閉塞感が常に自分の深層にあって、心が満たされない焦燥感みたいな気持ちを帯びていました。なんだか学生の頃に彼女が欲しくても出来かなった気分と似ていた様な笑。
それと同時に海外の人と仕事をする前向きな興味でアンテナを絶やさなかったこともあり、運よく、海外の法人の立ち上げや取引をする経験に恵まれ、異文化の人とビジネをする面白さと可能性を実感しました。国際的な事業展開が自分のバックグラウンドとして形成されつつある一方で、漠然と考えていた日本の社会の不安が徐々に顕実化していく状態に入っていく様な気がして、長年の自分の不安が当たった、自分は天才なのかなと思いましたww
マクロデータを見ても、日本の人口動態や、外国人受け入れ数などから、大きな社会課題を感じると共にビジネスチャンスを感じたのです。
自分自身がまだ始まらないこ新しい業界をリードしたかったので起業という形でチャレンジしようと思い、本当に全くのゼロから事業を立ち上げました。当時は顧客や人材やビジネスをもう少し目処が経ってからの方が良いというアドバイスをしてくれた人もいましたが、まずは立ち上げなくては、次にいけないような気がしたので、見切り発車気味でした。これが、次の苦労につながるのですが(苦笑)、今思うと、間違いではなかったと信じています。
・2015年 創業。留学生マッチングイベントの主催、日本企業への外国人セミナーの継続的な実施
・2019年 YSGへの傘下入り。会社名を変更
・2019年 ベトナムで法人設立。ベトナムで有名大学とMOU(覚書を締結)しなが日本企業へセールス
・何度か現地マッチングを行い、その後の育成プログラムを展開。一部の企業では継続し、拡大が見込めめたもののコロナで一旦停止
・2020年 ミャンマーで法人設立
・ミャンマーで軍事クーデター(オペレーション的には大きな影響を受けず)
・ミャンマーで送り出しライセンス(※)取得
・2023年 インドネシアで法人設立。送り出しライセンス取得
(※)海外現地で求人を行い、日本へ送り出すために必要なライセンス
まず海外第一号進出のベトナムで最初に入り込んだ時は、孤独で未知との戦いでした。そもそも、簡単にアポが取れず、アポが取れても、実績も何もないので、見下ろされてドタキャンされたこともありましたし、少し現地のアポを調整してくれたり、送迎してくれただけで、あり得ない金額を請求されたりしました。これは、自分がピーナッツ(小さな存在)と見なされていたからでしょう。
そこから、徐々に実績やネットワークが出てくると時には王様のように扱われるようになったりしました(笑)。海外では綺麗事や美談で済まされないことも多く、現実的な戦いに巻き込まれることもあります。
インドネシアの立ち上げで、第一号となる大事なお客様の説明会や面接会の準備をしている最中に、同時に進めていた内装で大きなトラブルがありました。我が社の現地センターは4階建ですが1.2階だけ内装を仕上げて、お客様を迎えるつもりでしたが、3.4階の現状復帰(現状の内装を取り壊す)を面接会の前日に業者が行ってしまい、その破片を1.2階に埋め尽くすという始末。徹夜で破片処理をして、何事もなかったかのようにお客様を迎え入れました。結果的には、このイベントが大成功して、以降のインドネシアの躍進が始まりましたが、このようなトラブルに見舞われながら、進めていくのも海外事業の試練と楽しみです苦笑
東南アジアは親日な人が多いですが、日本人に対して、日本人が嬉しくなることをいう傾向もあります。しかし、ビジネスなどを通じて本音で話せるような人ができると考えさせられる時があります。例えば、あるベトナム人のパートナーと食事をしている時、彼は、私にこう言いました。
ベトナム人は全面外交なのです。特に日本が好きでもないし、日本を尊敬しているわけでもなく、日本と付き合うとメリットがあると思っただけで日本に行った人も多いのです。
ベトナムは長い歴史で、大国と戦争をして自国を守ってきました。日本は海に囲まれ、さらには米軍にも守られていますが、ベトナムは、中国や米国などの大国と直接戦って勝ってきたのです。古くは日本の鎌倉時代に、当時世界最強のモンゴルが海を渡って、日本を攻めてきた時(元寇)、ベトナムにはそのモンゴルが陸続きの大軍で襲ってきましたが、ベトナムは見事に打ち負かしました。日本は海と台風に守られましたが、ベトナムは自分の実力で勝ったのです。
米軍の傘下で、日本が経済成長している間もベトナムは戦争に見舞われ続けて、国の発展が遅れたのです。自分が生き抜くためには、あるいは自国や自分の会社や家族を守ためには、今でも、どの国でも付き合うし、どの国にでも行きます。ロシアも北朝鮮も欧米も日本も韓国もアジアも東ヨーロッパも全部同じです。
こんな話も含めて、東南アジアで事業をやればやるほど、日本は本当に地理的にも歴史的にも恵まれた奇跡的な国だなと実感します。その日本の没落が始まっているとはいえ、まだ残存するこの恵まれた日本の資産を東南アジアと分かち合い、お互いに良くなればいいなと考えています。
2028年までに1万人の外国人サポートをしたいと考えています。我が社では、海外からの送り出し、国内の人材と派遣、特定技能の支援など様々な分野に分かれますので、そのトータルで1万人です。
そしてそれが実現したら、いよいよくる日本の変革期、外国人の変革期の中で、リーダーとして動かす方の立ち位置になりたいです。
その具体策としては、企業秘密で全て言えませんが、新規事業や変化するカテゴリーに対しては、YSタレントと海外現地法人垂直統合で展開し、業界で既存事業になっているものに対しては、YSタレントが持つ機能を部分的に活用してもらうような戦略を描いています。
あくまで、自分の信念に合うようなビジネス選択をしたいですが、漠然とあるのは、より大きなことを自分の意思で成し遂げようと思うと、人もお金も情報をも動いてくる気がします。世の中を変えるのは、会社や国という抽象物ではなく、特定された一人の個人であり、個人の意思は非常に重要だと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
少しでも気になっていただけた方は、ぜひカジュアル面談でお話ししましょう!ここに書けなかったこともありますので、ざっくばらんに色々お話しできたらと思います。
成長産業で一緒に成長していける仲間を、心からお待ちしています。