「この仕事、次の担当者に引き継いでおいてください。」
担当変更や退職の際、こんな指示が出ることがあります。
前任者と後任者が隣に座る。
パソコンの画面を見ながら、
「まずここを開きます。」
「次に、この数字を入力します。」
「最後にここへ保存してください。」
一通り説明して、
「何か分からないことはありますか?」
「大丈夫です。」
これで引き継ぎ完了。
しかし、実際に後任者が一人で仕事を始めると、
「この場合はどうすればいいんだろう。」
ということが次々に出てきます。
そして前任者へ連絡する。
「すみません、もう一つだけ教えてください。」
これが何度も続く。
場合によっては、退職した前任者へ連絡しなければ仕事が進まないこともあります。
私は、これは後任者の理解力の問題ではなく、引き継ぎの方法に問題があることも多いと考えています。
口頭では、作業しか伝わらないことがあります
長年同じ仕事をしている人は、たくさんのことを無意識に判断しています。
例えば請求業務なら、
請求書を作る。
金額を確認する。
PDFにする。
お客様へ送る。
ここまでは作業手順として説明できます。
しかし実際には、
「この取引先だけ締め日が違う。」
「いつもより金額が大きいときは営業担当へ確認する。」
「この項目が入っていたら別の請求書に分ける。」
「このお客様には送る前に担当者へ確認してもらう。」
といった細かな判断をしているかもしれません。
前任者にとっては、毎月当たり前にやっていることです。
だから本人も、それを「引き継ぐべき情報」だと認識していないことがあります。
その結果、
作業手順は引き継がれたけれど、判断基準は前任者の頭の中に残ったまま
という状態が起こります。
「見て覚えて」は、人によって違う仕事をつくります
口頭での引き継ぎでは、
「一回やってみるから見ていて。」
「次は自分でやってみて。」
という方法もよく使われます。
もちろん、実際の作業を見ることは大切です。
しかし、それだけでは、
「なぜ今確認したのか。」
「なぜ今回はいつもと違う対応をしたのか。」
まで伝わらないことがあります。
後任者は、目の前で行われた作業をそのまま覚えます。
さらに次の担当者へ引き継ぐとき、その人が覚えた方法を口頭で伝える。
これを何度も繰り返していくと、少しずつやり方が変わっていきます。
そしていつか、
「正式なやり方って、どれでしたっけ?」
という状態になります。
前任者が優秀なほど、引き継ぎが難しいことがあります
特に注意したいのが、前任者がとても仕事のできる人だった場合です。
周囲の状況を見て、先回りする。
少し数字がおかしければ確認する。
相手によって伝え方を変える。
トラブルになりそうなら、早めに管理者へ共有する。
本人は、それを特別な仕事だと思っていないかもしれません。
「普通にやっていただけです。」
と言います。
でも、その「普通」の中に、長年の経験から身につけた判断がたくさん含まれています。
そこを言語化せずに後任者へ渡すと、担当変更後に、
「前の人はここまでやってくれたのに。」
「前任者のときは、こんなミスはなかった。」
「仕事の質が落ちた。」
という評価になってしまうことがあります。
でも、本当に後任者の能力だけが原因でしょうか。
前任者が持っていた判断基準を、会社が引き継げていなかっただけかもしれません。
引き継ぐのは、作業手順だけではありません
私は、引き継ぎでは少なくとも三つを整理しておく必要があると考えています。
一つ目は、作業手順です。
何を、いつ、どのように行うのか。
二つ目は、判断基準です。
どんな場合に通常とは違う対応をするのか。
何を確認して判断するのか。
三つ目は、相談する基準です。
どこまで担当者が判断してよいのか。
どんな場合に管理者へ確認するのか。
この三つが分かれば、後任者は迷ったときにも自分で考えやすくなります。
引き継ぎ期間は、マニュアルを育てる時間でもあります
私は、引き継ぎ期間に後任者から出る質問は、とても大切だと思っています。
「この場合はどうしますか?」
「なぜここを確認するんですか?」
「これは誰に相談すればいいですか?」
こうした質問が出たら、
前任者がその場で答えて終わりにするのではなく、マニュアルや業務フローにも追加する。
そうすれば、
前任者の経験が、会社の仕組みに変わります。
引き継ぎとは、人から人へ知識を移すだけの時間ではありません。
それまで個人の頭の中にあった仕事を、組織の資産へ変える機会でもあります。
引き継ぎの目的は、「同じ人をつくること」ではありません
もちろん、前任者が10年かけて身につけた経験を、後任者が数週間ですべて再現することはできません。
前任者と同じ気遣い。
同じ判断力。
同じスピード。
そこまで求める必要もないと思っています。
大切なのは、
前任者と同じ人をつくることではなく、会社として守るべき仕事の品質を残すことです。
誰が担当しても守る手順。
誰が担当しても同じになる判断基準。
困ったときの相談先。
それが残っていれば、担当者が変わっても仕事は続きます。
口頭で教えること自体が悪いわけではありません。
実際に一緒に作業しながら伝えた方が分かりやすいこともあります。
問題は、口頭で伝えたことを、その人と一緒に消してしまうことです。
何をするのか。
何を見て判断するのか。
どんなときに誰へ相談するのか。
それを組織に残す。
私は、そこまでできて初めて「引き継ぎが完了した」と言えるのだと考えています。