カグラベーパーテック株式会社 / 技術部
現在では、創業家は撤退し、別な社長さんです
2024年12月現在では、創業家の玉井家は、経営から撤退し、兵庫県からも撤退している模様です。東京都で暮らしている模様です。
Discover companies you will love
ネットウイングス / 代表
かつて、県立千葉工業高等学校・情報技術科から、ストレートに東京電機大学・情報工学科に入学する予定を、家庭の事情で急遽切り上げて、兵庫県尼崎市に帰郷し、親戚の会社を振り出しに、様々な仕事をこなして、極度のカスハラ、パワハラに遭ったために、メンタル壊して再起不能。
祝 吉洋さんの発案で、WWWCメタタグチェッカー(当時)を用いて、ライトノベル個人サイトの更新状況一覧を、CGI(Perl)で作ったホームページ自動更新機能を使って、表示させて、かなりの人数のライトノベル愛好家からアクセスを受けました。 なお、その後、祝 吉洋さんは、1型糖尿病から来る網膜剥離でパソコン作業が出来なくなり、僕が4代目管理者になったのですが、多少スタッフの反対意見もあったのですが、現在の大阪府枚方市の「株式会社ヒナプロジェクト」さん(小説家になろう)に5万円で事業譲渡して、その後あちらでも8年ぐらいは更新作業をしていただいたのですが、折しも、メタタグが記入出来るサイトが減って来ていたので「小説大好き!」は廃止されました。 今では、旧阪神シティーケーブル(現ベイコム)も、ホームページそのものを廃止している模様です。痕跡が見つかりません。 なお、当時の痕跡の Google Adsence に、7000円強の資金が眠っているのですが、広告掲載費の支払いには、8000円以上貯める必要があり、ホームページもないことから、事実上、そのおカネは、現在誰のものでもありません。残念。
どうも(・∀・)ノ ネットウイングスは、個人で2003年から始めた、日本のユースウェアにかかわる団体でして、パソコンに関する対個人に向けた、パソコンのユーザービリティを高めるための活動をしています。 そのボランティア活動を、もう少し何とか利益が出るように持っていきたい。そういう様々な困難と、一人で立ち向かっています。
創業を目指して頑張って来たものの、最近ではインフラ系SEや、情報セキュリティエンジニアなどに帰り咲こうとしています。
これからの時代の会社員は、会社を卒業しても、ピンでいつでもやって行けるように、常に準備を欠かさないことです。いつ会社員でいられなくなるか、または、重い病気にかかるかも知れません。 会社に依存しすぎなさんな。会社に期待しすぎなさんな。そんなものは、ピンになった時に、邪魔になるだけ、切ないだけだよ。やめときな。
プログラミング(主にJava)と、マイコントレースカー、プリント基板作成機に依る回路作成など。経営マネジメントの基礎(総務部的なこと)も、授業の中で少々。
受講生として、ゲートIC(論理回路)、電子基盤の製図、マイコントレースカーの制作、Oracle Java 言語の習得など。家の事情で途中で中座(というより、Java を組む同級生が、いい加減な実装を行うので、嫌気がさしたため中座しました) もう、ポリテクセンター兵庫でやっている無料訓練は、実地の仕事の中で、既にもうやって来ました。「結構やったっしょ! 結構やったっしょ!」と言いたいです。 また、ポリテクセンター兵庫・マネジメント情報システム科で、サムスン電子の金(きん)さんにスカウトされかかったのですが、お断りしました。もしかすると、今頃galaxyスマホを作っていたかも知れないと思うと、日本住まいで良かったと思っています。
回路設計を学んでいたポリテクセンター兵庫の門前で金(きん)さんという文字通りの人が待ち構えていて、サムスン電子にスカウトされそうになりましたが、勤務先:ソウル特別市と言われて、ソウル市内でホームレスになるのは嫌だなあ、と言って婉曲に断った経緯がありました。サムスン電子さんごめんなさい。 もしあのままソウル特別市でサムスン電子に入っていたら、今頃galaxyのスマートフォンを作っていたかも知れませんね。運命は不思議。
大阪市西区の大阪リコーの代理店の技術部門に配属。一個でも多くの故障したコンピュータ類を一個でも多く修理する。そのためだけです。「おれがなんでも修理する」と言ったカチカチの技術屋さん(直属上司)と「おれがなんでも売って来る」と言ったカチカチの営業マンが、同じ営業支援課にいたから、水と油ですよ。混ぜるな危険ですよ。そこでの気苦労が多かったです。
ICTと格好いい、耳障りの良い言葉にはなっていますが、要は、電話対応(主に故障などの文句、苦情)と、出張サポートに出かけて、情報インシデントの切り分け作業、原因の分析と情報機器の保守サービス、それに、怒っているお客さんのガス抜き作業まで(笑)なんでもやりました。「なんでもやります部」と言っても良さそうな感じです。
兵庫県西宮市甲子園口にある、兵庫リコーの代理店。お客様にパソコンやサーバー類のカスタマーサポートを行いました。Windows 2000 Server、Microsoft Exchenge Server(社内試用)、DNS BIND など、インフラ系エンジニア寄りでした(です)。
「コンピュータ技術研究部で使ってください」と、Vine Linux Serverとして、千葉工業高等学校・情報技術科に寄贈したものですが、部員らはパーツ取りに使ったらしく、その「鼻毛カッターサーバー」は、中身だけ抜かれて、本体をバラバラにされた模様です。残念ながら。当時は、鼻毛カッターが付属していたことから、通称「鼻毛サーバー」と呼ばれていた、簡易的なオンプレミス環境のPCサーバーでした。 「学校の授業に使ってくださいね」と念を押していれば、そのサーバーは、分解されることもなく、Linuxサーバーとして役立ったと思っています。約5万円の無駄遣いでした。後輩がこれほど現金でバカだとは思いませんでした。酷い後輩を持ったおじさんは、大変嘆かわしく、そして、悔やまれます。
むかしむかしのこれなんですけどもね、Windows 2000とかの、しかもオンプレミス環境のものを取得済みです。Azure ADではないです。 趣味で昔、ベンダー系の資格ばかり取っていたので、あれって陳腐化も早いのですよ。国家資格を目指した方がええよ(・∀・)ノ MCPもいくつか取ったけど、オンプレミス環境のActive Directoryなんか、誰も知りたくないわな。いま全部Azure ADだかんねー。
前々職で、データが吹き飛ぶ恐怖を味わったので(自作機で、パソコン2台でWindows Server の Active Directory が組んであって、サーバー機のHDDが故障したのでADも組めなければ、データも吹き飛んだ経験がありますので)それについては恐怖しかございません(汗)
兵庫県阪神県民局(当時:現在の兵庫県阪神南県民局)で、試験を行った上で、配属されました。その時から始まった、高等学校普通科「情報1」でしたんで、主に、センター試験に出る「情報1」の範囲内で、基礎的な情報処理リテラシーを学ばせる授業の時だけ学校に行くという生活をしていました。
これを運んでと言われれば、それを運び、これを教えてと言われれば、IT専門用語について情報教諭や生徒たちに伝達し、後片付けをして、授業を終えたら自宅に帰る生活をしていました。時給月給で大変でした(主に、おカネ的に)
やっぱり印刷かな? と思って一時的に印刷業DTPに戻った次第です。訓練校(ポリテクセンター兵庫)の畠山講師に言ったら「それは勿体ない!」と言われて次を探したものです。この会社には、あまり良い思い出はありませんでした。
一般人には理解不可能な、難しいパワー半導体などの技報を仕上げました。何回も再校正があり、困難を極めましたが、Edi Color(版組ソフト)や、FACIRIS(面付ソフト)の技術を活かし、制作・納品にこぎつけました。
大阪市北区芝田町のプログラム受託開発企業。いきなり顧客先派遣は難しいので、JUA(日本ユースウェア協会)の仕事から始めさせてもらいました。
社長夫人の親戚の貿易商社(大阪市内)に赴いて、ニムダウイルスと初対面しました。当時は、オンプレミス環境のサーバーも、クライアント機も、セキュリティソフトがあまりなかったか、とてもライセンスが高額でしたので、その会社は、セキュリティソフトが全く入っていませんでした。それどころか、従業員が、ウイルスによって咲いたお花の画面を飾っていましたので、思わず「全部のクライアント機からLANケーブル抜いてください!」と叫んで、1台1台ウイルスを抜いて行ったのですが(トレンドマイクロ社のもので)しかし、放置期間が長すぎたため、食われたファイルも多く、全面復旧には至りませんでした。
なお、ZDNETの解説が一番的を射ているのですが、「ユースウェア」とは何か、が書いてあります。僕がかつて従事していた「IT素人を説得する技術」をお仕事にしたものです。顧客のユーザービリティを高めるお仕事を中心にしていました。これを昔は「ユースウェア」と呼んだんですが、今では呼ばなくなりました。
「お客様の満足を得るためには、まず技術者として一流であることが必要ですが、技術力だけでは本当にお客様のご満足を得ることはできません。お客様の立場に立って、お客様のご満足とご信頼を得るためには、人とコミュニケーションがとれる、人の気持ちがわかる、きちんと責任が取れる、常にプラス思考であることが必要です。人間として、社会人として、ビジネスマンとしても一流でなければならないという信念を持って、積極的に新しい技術にチャレンジする技術屋集団です。」(神谷 坦社長のあいさつ文より)
JWNTUGという勉強会の関西支部所属(現:JANOG)でした。MSC(マイクロソフトカンファレンス)後に、マイクロソフトの技術営業さんと一緒に軽食をつまみながら、Windows NT / 2000の今後の動向を語ったものでした。MS MVP、データーサイエンティストの河端善博さん(大阪府和泉市)とか、JWNTUG関東の現マイクロソフト安納順一さん(栃木県)と親交があるのです。
修了研究:Windows NT4 Server、Apache Web Server、BIND DNS Server、Fedora Core 3 Serverなど 学習したこと:ANSI C、Visual Basic、N/Wルーター(CISCO)など
ちょっと昔過ぎて、正式名称を思い出せないのですが、工業高等学校・情報技術科でやったようなことの、ちょっと応用をやって合格しました。この時やったことは、電子回路、ゲートICなどです。
結構頑張った結果がこれです。2級になると、プログラミング演習があるのでちょっと当時の僕には無理でした。
当時の畠山講師の下で、VBA、あるいは、VBA for Access も学んで来なくはありませんでしたので、最新式に対応する分には、ある程度の習熟期間は必要ですが、ほぼほぼ即戦力と言っても過言ではありません。
怖ろしく出世が遅い会社で、主任級のことを任されていても出世できない(上がつかえていた)会社でした。また、ISDN回線が敷設されていたにも拘わらず、営業部員が全員IT音痴で1台もPCをインターネットに繋ぐ様子もなく、ホームページ一つありませんでした。(作れとも命じられていない)さらに、商品開発部もないような印刷会社だったので、平成12年2月には会社を清算しました。(計画倒産とも言います)
しようとしても、出来なかったことです。もし、会社が、せめて営業活動に際して、広報活動に際して、レンタルサーバーでもなんでもいいんです。ICT関連の改善に、若者をもっと信じて登用してくれたなら、僕田所や、祝さんらで、インターネット関連のお仕事も出来なくはありませんでした。しかしながら、提案を受け付ける窓口がない。ただ働きの可能性もありましたので。それに、社長(二代目)自身が、会社を続ける気がなかった(計画倒産の噂さえ立っていました)ので、提案したくても出来ませんでした。
少しでもコストカットをするために、それまで文字入力に外注費を払っていたやり方を、JIS106キーボードを女性社員に学習させて、SMI EDIAN PLUS(産経新聞社がやっていた組版システムと同じもの)が導入された際にもそのスキルが活かせた。なお、JAGAT(日本印刷技術協会)神戸支部のDTP職業訓練も受けています(Adobe製品とiMac)
まず、年少者から、Windows98/2000 の面白さを理解させ、文字入力の外注費をコストカットしました。次いで、SONY NEWS Workstationや、Power Mac(iMacのこと)の導入に際して、年長者(老人)を除いては、8インチFDを廃止しました。
本当のLPGって液で出来ていて、ボンベの中もあれは液状なのです。それを切り替える切替弁の軽量化・動作音静粛化改良設計に携わって、それなりに量産化にこぎつけました。なお、爆発物・危険物を多数取り扱う会社ですので、図面の少しの誤差もガス漏れなどで命取りになることから、多大なストレスを感じ、自己都合による退職をしました。
企画書・提案書を書くのもしんどいものですね。製品に落とし込んで行くのももっとしんどいですが。ソフトウェア開発だって、機械設計だってそう。やることはおんなじです。それを20歳代の頃にやって来たので、しんどさは理解できているつもりです。プレゼンは、その後、中小機構で勉強しました。 いい加減な企画書・提案書を上長に見せたら、多分決裁がおりない。そのしんどさも理解できているつもりです。今でも稟議書ってあるんでしょうね。上長の、それまた上長が決裁し、さらに社長さんまで上って書類が下りてゆく。そのプレッシャーたるや、ええ加減なものを見せたら、上長大激怒ですよ。 更に、エンジニアがやることと言えば「製品提案書」の作成です。如何に市場に出回るか。如何に既存の特許権を維持させるか。そういうことに書類の命運がかかっているのですよ。たかが書類、されど書類です。それに、提出時期も決まってますし。のんべんだらりと提案書が書けない。
取りあえず、契約社員として採用されたはいいものの、水島会長の本拠地(当時)食料品売り場(デパ地下)がけん引しており、その他AV商品は売上イマイチなところへもってきて、新米社員が70円で仕入れた乾電池を72円で売ろうとするなど、正社員にコスト意識が全くない。そんな職場でした。むしろ、アルバイト・契約社員・プロパー社員の方が元気ハツラツでした。
親の離婚調停が成功したので、千葉家庭裁判所で子の氏の変更届を提出し受理。母親の姓「田所」を名乗るようになりました。同時に、母親を養うことになり、自分自身と母親を食べさせなければならない困難に直面しました。幸い、母親が先に千葉そごう(催事場担当の)パート社員だったので、食べるには困らなかったのですが、千葉市(緑区)誉田の住環境が良くない(少年院を出てから観察処分になっている男性が上階に住んでいた)ため、家主から敷金礼金返してもらって、そのおカネを元手に、兵庫県尼崎市に転居したものでした。
本当に、百貨店で生計を立てていなくて正解だったのですが、完全にアパレル移行になろうとも、ターミナル駅でモノを陳列して、売って儲ける「百貨店ビジネス」は、コロナ禍と、インターネット社会の中で、完全に終わりを告げようとしている2022年です。コンビニが、そごう・西武を飲み込んだ上で、屠ろうとしている現在です。そごう・西武売却報道を受けて、コンビニの株価が、高値を付けるというご時世です。デバートメントストアというものが、今ではすっかり厄介者扱いです。
そこで、村田機械株式会社さんの「エフ・ジャン・ムーラ」というA4のファクシミリを2個セットで売りまくって、売り場の上司からは「ムーラ」というあだ名が付く。本来商業系の脳みそをしていない(工業系情報処理)のですが、ここで、商売っ気を出して売り上げに少しは貢献できたかな? と思っています。
仕入れ部門(本社)に、仕入れ値のディスカウント能力が全くなく、商品仕入れ値の12%しか利益を吹っ掛けられない。同時に、店舗の上司毎に派閥めいたものがあり、縄張り争いで同士討ちをしている。そんな会社が、他店に勝てる訳もなく、ハゲタカファンドに全部持っていかれて、資金繰りがショートして倒産の憂き目に遭いました。正社員になっていなくて良かったです。
東洋経済オンラインのように、かつて千葉市街を支えた「千葉セントラルプラザ」内に出来た「第一家庭電器DAC千葉店」です。このセントラルプラザそのものも、2013年に解体工事され、現在では「千葉セントラルタワー」という住居兼店舗がございます。
家電製品を販売しました。特に、オーディオ専門店ということもあり、バブル末期の好景気でもあったので、たこ焼きが売れるように、飛ぶように高級オーディオコンポが売れました。60番担当でもあったので、第一家庭電器が弱いとされているパソコンの拡販にも努めました。
売り上げがバブル崩壊とともに頭打ちになったので、なるべく自社の在庫を取り崩すために、松下電器のこたつ、MSX用の専用カード(FS5200用)RS-232Cカード、アイワのパソコン通信モデムなどを、社員優待で購入して、売り上げに貢献しました。
https://cms1.chiba-c.ed.jp/chiba-th/ TTL回路、電源回路、アセンブラ、N88BASIC、FORTRAN77、COBOL80、ANSI Cなどを学びました。芸術科や家庭科を端折った普通科の勉強と同時並行で学ぶものです。当時のネットワークは、10base-2。 校訓:信義礼譲・自主責任・勤労愛好
授業を真剣に受けていれば、学年年度末試験があるのです。工業高校では。(以下、Wikipediaより) 「基礎的情報技術に関する、知識と技能が習得されているかを検定する事が目的である。 受験資格は、高等学校在校生・卒業者および受検校が受検を認めた者である。 高等学校では「情報技術基礎」をすべての学科で履修する様になり、情報に関する知識や技術の習得が必須となったため、情報技術検定に関しては科目関係なく受験する傾向にある。」
何をどうやったか。まあ、記事をご覧ください。千葉県全県区から集まった、電子工作オタクの集団に囲まれた結果、このような不思議ちゃんが出来上がったものですよ(笑) その結果として、社会に出てからのお仕事は「パソコンの修理」ですよ。えらい違いですよ。180°違う。なぜかというと、死屍累々の電子部品を壊して来た結果「あ、ここを触ったら、俺の本能がヤバイと言っている」という風な変な勘が付き、それからというもの、何の贖罪か、パソコンを申し訳ございませんと言わんばかりに修理している毎日を過ごしたものです。
工業高校に欠かせない、計算技術検定という、関数電卓をどこまで使いこなせるか、という試験が、年度末試験に出て来るものでした。とろくさいので、ノロノロしているので、僕は関数電卓はゆっくりと使う派です。
情報技術(1・2・3)、実習、工業数理、電気基礎(上)(高圧電力を除く)、電子技術などの授業では、例えば、キルヒホッフの法則(閉回路の電位差の和はゼロ)とか、プログラム実習では、例えば、メモリ領域を管理する、スタック・ヒープ領域などの、POP、PUSH、FIFOなどの概念を学んでおり、ガーベイジコレクション(無駄遣いしているメモリ領域を解放すること)なども学びました。また、コンデンサ・キャパシタ・蓄電池などの充放電特性といった突っ込んだことも、千葉県立千葉工業高等学校・情報技術科ではさせるものですよ。あとは、半導体素子の原理をトランジスタから学んだ、とかですね。
https://www.fureai-cloud.jp/tomisatokita-j/ 千葉県印旛郡富里町立富里北中学校。心技体を重んじる学校です。インドの山奥じゃなく、印旛の山奥。野菜とスイカしか獲れないような田舎に出来た、成田市の植民地的ニュータウン。京成成田駅やJR成田駅から都心を目指す通勤客多し。
https://www.fureai-cloud.jp/hiyoshidai-e 千葉県印旛郡富里村立日吉台小学校。主に、身体をトレーニングさせる学校。
https://kawasaki-edu.jp/2/609miyamaedaira/ 小学校4年生のお勉強。親の勧めで「日能研・たまプラーザ校」に通うが、ストレスで挫折。
近所の、現:あおば沢井病院の院長先生(が、まだ爆竹で遊んでいた頃)母に促され「沢井さんと同じお受験塾に通いなさい!」と命じるので、しぶしぶ行きました。勉強大嫌いなのにね。トリッキーな問題(いま思えば、中学校の国語・数学の先取り)ばかりで、小学校3年生の凡人には毎日がつらかったのですが、何とか1年通い、千葉県富里市に越した時には、身体はしんどかったですが、学校の勉強はせずとも出来ていましたね。僕の教育方針をめぐっては、父母同士で対立しており、母が「慶応義塾大学に行きなさい!」と言う一方、父が「憲雄、これからはコンピュータだ!」と違う教育方針でしたので、間に立ってとてもつらかったです。
当時は、川崎市立中原会館と呼ばれていた施設です。「牧場の子牛」「さあ太陽を呼んで来い」の2曲を、クラス全員で合唱したものです。渋谷先生という音楽の先生が、合唱コンクールに非常に熱心な方でしたので、宮前平小学校代表として出場したものです。
https://www.kita9.ed.jp/moritsune-e/ 小学校1年と3年は守恒小学校。小学校2年生は、当時の北九州市立企救丘養護学校・小倉記念病院分室。(気管支喘息の公害病認定患者のため)
今でこそ、小2の国語の教科書に出て来るぐらいの名作ですが、1970年代当時は違いました。守恒小学校の図書館で借りた初めての図書は「車のいろは空のいろ」という「松井さん」という気のいいタクシー運転手さんが登場する、不思議なお話だったのです。あれ以来、不思議なもの好きになりました。
http://shitoku.murahashi.ed.jp/ 主に、どろんこ遊びをしていました。自宅ではレゴ・ブロックで遊ぶ日々。給食旨し。
カグラベーパーテック株式会社 / 技術部
2024年12月現在では、創業家の玉井家は、経営から撤退し、兵庫県からも撤退している模様です。東京都で暮らしている模様です。