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【第1話】私が大手証券会社を辞め、柳井工業を継ごうと思ったわけ

この記事は、連載「起業よりもむずかしいよ、事業継承」の第1話になります。

いつも柳井工業のnoteを読んでいただき、ありがとうございます。柳井工業・常務の柳井です。noteでは、いつも私の体験談や感じたことを発信しております。

Twitterやnoteの発信活動をはじめてから、早5ヶ月目に突入しました。おかげさまでたくさんの方に読んでいただけており、「発信してよかったな…」と感じる毎日です。

いきなりですが、これから第3部作に分けて「起業よりもむずかしいよ、事業継承」の連載を行います。

私は柳井工業の後継者として、約5年間突っ走ってきました。酸いも甘いも嚙み分けてきたからこそ伝えられることがあると思い、筆を取っています。

第1話:事業継承の背景
第2話:しんどかった柳井工業での修行
第3話:事業継承で伝えたいこと

この3部作でお伝えしていきますので、この連載を通して「柳井工業」と「私の考え方」を知っていただけたらうれしいです。

きっかけは創業者である、父の病気が発覚…。

柳井工業へ参入した大きなきっかけは、2008年社長である父の病気が発覚したからです。ステージ4の胃癌で、医者からも「もう助からないかもしれない…」と言われました。

突然のことだったので、当然「今後の柳井工業会社をどうするか?」という話になります。

私は当時、野村證券で働いていました。就活時代「せっかく働くなら、若手からぐんぐん成長できる環境で切磋琢磨したい」と思い選んだ企業。

体育会の会社できついことも沢山ありましたが、2年目になりようやく仕事も覚えてきて、「よし、楽しくなってきたぞ」と思っていたところでした。

ただ、父の病気もあり「野村證券での存続」か「柳井工業での事業継承」で頭を悩ませていましたね……。

恥ずかしながら、プラント業界の仕組みすらわかっていなかったので、より悩んでいたのだと思います。

尊敬する上司や先輩に言われた「迷ったら、茨の道に行け」が響いた

ある時、より客観的に知るために、証券会社視点で柳井工業を見てみました。

当時、リーマンショック後ということもあり、数々のプラント企業が潰れていく中、黒字だった柳井工業。利益率もとてもよかったんです。

「父はすごい会社を経営していたんだな…」と、改めて感じた瞬間でしたね。

そこから興味がわき、はじめて社長や専務に「事業内容」や「業績がある理由」を積極的にヒアリングしました。話を聞く中で、プラントがニッチな業界ながらも大きなビジネスチャンスがあることが分かり、「親父が創り上げた技術をこのまま潰すのはもったいない」と思うように。

一方で、野村證券での仕事もたのしくなってきたので「もっと続けたい」と、葛藤しはじめます。その時、尊敬していた支店長に悩みを打ち明けると、こんな言葉をかけてくれました。

「いいか。人生で悩んだときは”辛い道”を選べ。楽な道を選んだら大成はしない」。

シンプルな言葉でしたらが、ガツンと心に響きましたね。今でも支店長にはとても感謝しています。それを機に「私にとってより辛い道はどっち?」と考えるように。

その結果、大きな会社に守られて生きていくよりも、親の会社を引き継ぎ、自分の力で経営をしていく方が、険しい道のりになるだろうな……と考えたんです。

そこから、野村證券を辞めて柳井工業へ。「なんとかなるだろう」と思っていましたが、辛い日々が待ち受けていましたね…。

・・・

第1話の「事業継承の背景」はここまでです。第2話の「しんどかった柳井工業での修行」は近日公開いたします。

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