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創業者の自己紹介 ~海外IT人材で起業した訳~

僕の会社は創業時から「インド工科大学(IIT)」と連携をして、優秀なITエンジニアを日本に供給する事業を展開している。

2018年1月11日、31歳になる前の月に株式会社Willingsという会社を作った。
起業して7年目の今年2024年は、長かったコロナの影響も無くなり、思いっきりアクセルを踏み込む一年にすると決めている。
あらゆるメディア媒体で発信量を増やすことで、自分の言語化能力を鍛えるつもりでもいるので、今時点で拙く伝わりにくい部分があったら何分ご容赦いただきたい。

この会社に興味を持っていただいた方に、代表である僕の素性を明らかにしておきたいと思い、この記事を書いている。



なぜ起業したのかについては、「起業した5つのキッカケ」という記事を3年前に投稿していたので、ぜひ目を通していただきたい。

起業した5つのキッカケ|町田 豊明
僕が起業したキッカケ。決して万人ウケするネタではないけれど、これから起業する人の参考になれば良いと思うし、将来僕の会社にJoinしてくれる社員に目を通してもらいたいのと、自分で原点を振り返るためのメモとして書いておこうと思う。 キッカケ① 失敗父さん、成功母さん キッカケ② お手本のような失敗 キッカケ③ 謎の占い師 キッカケ④ 予想外の部下の一言 キッカケ⑤ 大学生の志 ...
https://note.com/toyoma08/n/n69b2f4b984c5

生い立ち

昭和の最後の方、大分で保険代理店を営む父(当時40)と専業主婦の母(当時23)の平凡家庭に生まれた。男3兄弟の長男。

余談だけど、
子供ながらにずっと不思議だった父母間の17歳という年齢差。中学の時に、実は父がバツイチで、更に上に3人子供がいたことを知った。義理の兄弟に会ったことはない。

そろばん、水泳、知育、サッカー、習い事は色々やった。
初めて仕事をしたのは、小2の時。お金に困っていた訳じゃないけど、3年間くらい自転車で夕刊の配達をやった。
祖母が日本舞踊の師範ということもあって、8歳の頃からステージに立ってたので、人前に出ることにあまり抵抗はないし、伝統というものに対する敬意がある。ちなみに最後に舞ったのは24歳の時の「黒田節」。

ここまでは順調そうだけど、
中学校入学前に突如訪れた厳しい生活。テレビなし、窓なし、時に電気ガスなしの団地生活。この時期は不貞腐れちゃってて正直あまり記憶がない。
でももし仮にお金がない状況に直面しても、ある程度平気でやり過ごすくらいのサバイバル力は身に付いたと思う。
この状況を何とか打開しようと日々格闘する母を見て、経営者になりたいと思ったのもこの頃。

高校時代

高校は元プロ野球の内川選手を輩出した工業高校の化学科。
ほぼ男子校という点には絶望したけど、サッカーの練習量で県下TOP3に入ると有名だったからこの高校にした。
好きだったサッカー部の練習が始まる夕方4時頃にやっと登校して、日を跨ぐまでグラウンドにいたような、冗談なしにルールを守ったりお勉強ができない子だった。そして親の目から離れたかったのか、経緯は定かでないけど、高校3年間は祖母と2人で生活をしていた。

当時のサッカーの監督は尊敬している。
滅多に声を荒げることはなく静かに怒り、ゾッとする量の走りを課す一番怖いタイプ。
新人戦に呆気なく敗退したことで、夏休みの2ヶ月間、毎日8時間近くボールを一切触らせない走り込みだけの練習を課した。「俺が終わりというまで、坂道ダッシュ」とだけ言い残して、いつの間にか帰宅してるような、今だと完全アウトの理不尽監督。40人以上いた同級生も半数が辞めて、最終的に練習に顔出してたのは8人。心折れながらも、何とか最後まで残ったんだけど、レギュラーにはなれなかった。結局試合で結果を出さないとプロセスは報われない。
それでも最後の練習日、後輩たちの前で「レギュラーメンバーよりも、こいつの練習への姿勢を見習え」と監督が言ってくれて、涙堪えたことを覚えている。最後の最後で精神的な報いをくれた。

今会社のメンバーには聞かれないと言わないけど、会社設立を11のつく日にするほどサッカーが好き。
早くに亡くなった祖父が好きだったらしいという理由で、小2の頃に始めた。県大会で優勝して地元の新聞に載ったりと、小6で随分と早いサッカー人生のピークを迎える。。
ちょうどその頃に両親が別れて住む地区が変わり、行くはずだったサッカー強豪校に行けなかったからなのか、いじけちゃって3年間帰宅部。
でも3年生の頃、皆が部活を引退する直前の3ヶ月前にサッカー部に入部するという謎の行動を起こす。当然そこで生まれた運動能力の差は、高校生活の最後まで埋まることはないんだけど、大人になる過程で色々と教えてくれたスポーツがサッカーだ。

-自分にとってのサッカー-

海外との接触

高校を卒業して18歳の時に生まれて初めて海外に出る。
3年生の時、たまにある英語の授業に「ジョイル」っていうイケメン黒人が臨時講師としてやってきた。低身長でスキンヘッドだけど、ガタイが良くてNBAのユニフォームと金のアクセサリーが似合うような人。
不意に英語で何かを問いかけられて、何もできなかったことが悔しかった。
「自分が生きていけない場所が存在する」漠然とそう焦ったのがキッカケ。

工業高校は生徒の95%以上が卒業後に就職していく。
「仕事せずに遊びに行けていいよな」と、同級生とは違う進路を選択することに理解を示してくれる先生はいなかったけど、100年以上歴史のある高校で、海外行きの進路を選んだ生徒は初だったらしい。

初めてオーストラリアの空港に到着して、一歩街に踏み出した時に感じた「テレビで見てた海外が、本当に存在してる!」という衝撃。
あとは言葉が通じないところに、自分の身を置くことの怖さとか不安
20年近く経った今でも、あの時のインパクトは忘れられない。

20歳の時に帰国した。結局2年間の海外生活での一番の気付きは、自分が生まれた日本がいかにすごい国かということ。スーパーで売られる牛乳は漏れてないし、バスは手を挙げなくても止まってくれる。夜の街で警官がテーザー銃を打つ光景も見かけない。日常や常識は、その国々で全く違う。
一方で、道ゆく人はすれ違い際に目が合うと笑顔をくれるし、プラネタリウムのような星空。日本にはない自由と美しさがたくさんある。

-2年間過ごしたオーストラリア-

大学時代

生きていくための英語力は手に入れたし、経営学を勉強したい意欲に駆られ大学進学を目指した。入学金貯めようと福岡でアルバイト3つ掛け持ちのフリーター生活を1年間やって、21歳の時に地元大分の大学に進学。普通入試だと勝ち目がないから、英語の論文と面接で入学した。

この大学は6,000人のうち半分の学生が海外からの留学生で、グローバルな環境が整った大学だ。英語力を落とさないように、いつも海外学生のコミュニティにいた。(※日本人の友人もちゃんといた。)
月200万円の仕送りだとか、祖父が元大統領や、父が航空会社の社長など、異次元の海外セレブと一緒に刺激的な学生生活を送った。

将来、自分の子供も行かせたいと思うような大学に行けたことはラッキーだと思う。今も仕事で海外出張行く時に、Linkedinで検索すると必ずその国に同じ大学の出身者がいる。それは今も続く大きなメリットだと思う。

4年間の大学生活で「日本人だけのコミュニティ」と「色んな国の人が混ざったコミュニティ」を行ったり来たりしていた。
日本人だけのグループは気が合うから楽しい。わざわざ言わなくても暗黙知で意思疎通できるから楽。
でも後者のグループは会話の質が違うというか、全く違う価値観がぶつかり合って、時に面白いアイディアが生まれたりする。
創造性は圧倒的に後者の方が上。これこそがダイバーシティの魅力だと思う。

座学で経営学を学んでいると、その内容を実践したくなる。
夜の営業時間まで空き店舗だったバーのキッチンを借りて、自分でメニューや広告を作ったり、収支計算したり、スタッフに給料を支払ったりした。
飲食業は色々とうまくはいかなかったけど、それでもやっぱり経営者になりたいと再認識できたからこの経験も重要だった。

ベンチャー企業(前職)

卒業後は渋谷にあるIT専門の人材会社に入社した。
大手企業に混ざって、大学に説明会に来ていたかっこいい少数精鋭ベンチャー。これからITで海外に出ていくぞ、という勢いに魅了された。
一番行きたいところに行けないと意味がないし、想いも伝わらないと思って、その1社だけに応募するような、直感で動くことが多いタイプ。

会社も採用するかを随分迷ったんだと思う。その時既に26歳で社会人経験なし。一次面接で社長に「35歳までに起業します」って言ったもんだから、面接も長めで全部で6回。

結局この会社には4年半くらい在籍した。
自分が「海外IT人材」で起業しようと決めたのも、インド工科大学と出会えたのもこの会社のおかげだ。最終役職は副主任。出世スピードは遅め。もう少しこの会社に成果で貢献できたはず…と今でもふと思うことがある。
社員だった時に「もし何かがうまくいかなくて自己嫌悪に陥るような暇があるなら、1秒でも早く解決策を見出せ」と社長に言われたことは、今でも気分が落ちた時には思い出すようにしてる。

業務

入社してすぐに、グループ会社に出向しITの知識を叩き込んでもらった。スクール事業をしていたから、そこでWEB制作のインストラクターや教材制作をやった。
所属先に戻ってからは、法人営業。当時のトップセールスがメンターに就いてくれて、日本人のIT人材の派遣や紹介に従事した。

海外人材部門

2年半くらい経った頃に、念願だった海外IT人材の部署に配属となった。グローバル・セクション、通称GSと呼ばれた部署だ。当時のチームには、インド、カザフスタン、オランダ、中国、イギリスなど、ほぼ全員が外国人で構成された最高のチーム。
仕事は欧米から中途のITエンジニアをスカウトして、日本の企業とマッチングするという紹介業をやっていた。

実は今の会社の「Willings」という社名に含まれる「gs」は前職の部署名から取っている。起業した時に2人の後輩が一緒についてきてくれたから(※当然社長とは話し合った上で)。そんな背景もあって、Will-in-GSで「GSの意志」という意味もある。

-Willingsという社名の由来-

海外出張

大学時代には海外に行けなかったから、社会人になるまでに行ったことのある国は2年間住んだオーストラリアのみだった。だから社会に出たら海外に行きまくると決めていた。
それが叶ったのもこの会社だ。出張でインド、イギリス、米ボストン、中国大連、カタールに行く機会があって、たぶん社内で最も渡航頻度が多かった社員の1人だったと思う。
特にアメリカではMITやハーバード大学、インドでは現地のスタートアップを訪問して、ビジネスのスピードやスケール、創造性において日本との違いを体感したことは本当に大きい。

30歳手前で全てをリセット(余談)

色んな経験をしたが、特に思い出に残っているのは、社員寮が全焼したこと。上の階が出火元だったけど、真冬の木造はあっという間に燃え切った。消防車10台以上出動する大きめの火事。
これによって29歳の時に、ほぼ全ての私物を失った。ちょうど海外出張から帰ってきたばかりで、まだ荷解きをしてなかったスーツケースを1つ持ち出るのが精一杯だった。でも案外、命さえあれば自分の持っているモノの中で本当に重要なものなんて実はなのかもしれない。

点が線で繋がる

GS時代は多くの企業と仕事をさせてもらった。特に人事の方と仕事をする機会に恵まれ、当時からIT分野では人が採れないと頭を抱える人たちが多くいた。そこに対して僕たちは、海外から人を連れてくることで人員を補う提案をしていた。

ただ実はそこに大きな違和感があった。

人が減ったからその分を海外人材で補うなんて、一昔前の工場時代の考え方ではないか。人数を補ったところで、一時的な応急処置にしかならない。そんな中で果たして新しいものが生まれるのか。
「失われた30年」とか言われているこのデジタル時代に、日本が遂げるべき進化があるとしたら、少ない人口で高い創造性を生み出すことだと思う。

この違和感について語り始めると、記事のボリュームが倍増するので、また別の機会にしたいと思う。

とにかく海外IT人材の採用を単なる人員補充ではなくて、これから日本が更なる進化を遂げるための重要なパートナー選びとして見ていくべきだと考えている。
そのための策を講じるために、Willingsという会社を立ち上げた。

Jリーグを模範とすれば、日本のIT業界はまだまだ発展する|町田 豊明
先日神戸市のイベントに登壇させていただいた時に少し触れた話。 神戸と言えば、サッカー界のスーパースターであるイニエスタ選手の退団が最近話題となりました。 2018年、彼がチームに加わると、Jリーグは注目を集め、彼と一緒にプレーしたいと各国代表級の選手達が集まり、更に神戸から世界に挑戦する日本の若手選手も出てきました。 イニエスタが神戸、そして日本サッカー界に残したインパクトは本当に凄まじい。
https://note.com/toyoma08/n/nced940f874d9


僕は、日本って国は素晴らしいと思う。伝統も文化も。
ただの愛国心ではなくて、一度国外に身を置いたからこそそう感じる。
だから素晴らしいままの日本を後世に残したい。

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