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「最善の選択をし続け、後悔のないように生きる」自分に素直に生きる私が大事にしていること

好きこそ物の上手なれ

学習院女子大学の国際交流学部で学ぶ呂詩織。明るい笑顔が印象的な彼女は福岡県で生まれ、4歳の時に香港に渡った。

呂は日本語が堪能だ。どのように習得したのかを尋ねてみた。

「幼少期は日本語を話していたと思いますが、香港で暮らすようになってからは完全に忘れてしまいました。しかし、小学校4年生の時に日本のアニメやアニメソングが好きになり、再び日本語に触れ始めました。日本のゲームも好きで、攻略本を読解するために必死で勉強しましたね。また父が経営している会社は日本の顧客が多く、彼らと日本語で話す機会もあったので、そこで会話力を上げていきました。」


自らの手で勝ち取った自由

父は規律正しく、厳しい人だった。呂は日頃から父の言うことに従っていたが、小学校4年生の時に形勢逆転し、自由を獲得したと語る。一体なにが起こったのだろうか。

ことの始まりは、両親の意向で通い始めた学習塾だった。香港は超学歴社会でエリート教育が盛んだが、呂が通っていた塾はその中でも特に厳しかった。小学校1年生から4年生まで、毎日4時間睡眠で勉強に励んでいたと話す呂は、当時の厳しい生活について詳しく教えてくれた。

「頻繁に塾の先生の家に泊まり込んで勉強をしていました。深夜2時まで机に向かい、4時間だけ寝て6時に起きます。朝も塾で勉強し、そこから小学校へ。放課後は再び塾に戻って課題に取り組む日々を送っていました。」

小学校3年生の時に転校し、公立学校のエリートクラスで学ぶようになってからは、さらに負荷をかけて勉強に取り組んだ。並々ならぬ努力の末、最下位に近かった成績は一気に学年10位以内をマークした。ところが、その代償は大きかった。

「心身ともに限界がきて、これ以上この生活を続けられないと思いました。そこで親に抵抗を示すために、人生で初めて家出をすることにしたんです。今の私なら、知人や友人に相談してみる、少しの間だけ塾を休ませて欲しいとお願いしてみる、など様々な方法が頭に浮かびますが、当時の私はあまりにも必死だったので家出しか思いつきませんでした。」

呂の家出は計画的なものだった。時期、期間、待避場所を決めて決行した。

「両親に意思表示はしたいものの、過度な心配はかけたくなかったので『家出します』と宣言して飛び出しました。私の行動を見て、その時はじめて父は塾の大変さに気づいたようです。3日ほどで自宅に戻り、ついに塾を辞める許可がおりました。」

呂は自らの手で自由を獲得することに成功した。


2年半におよぶ療養生活からの逆転劇

新しい環境でチャレンジしたいと思った呂は、友人が一人もいない中学校に進学した。ところが、そこで新たな試練が彼女を待ち受けていた。

「進学先は小中高一貫の学校で、勉強の進度が速かったんです。入学前に出された宿題はほとんど解けませんでした。それがきっかけで一部の先生に目をつけられ、何度か嫌がらせを受けました。また私が入学したタイミングでは、すでに仲良しグループが出来上がっていたため友達づくりにも苦労しました。」

他にも様々な出来事が重なり、次第に体調を崩すようになっていった。そしてある時を境に登校が難しくなり、学校を辞めることになった。

「退学後は自室にこもりました。部屋から出るのはお風呂とトイレの時のみです。以前のように、気軽に外出できるような精神状態ではありませんでした。」

療養生活は2年以上に及んだ。呂は好きな小説やアニメを観て日々を過ごした。

ところが2年半ほど経った頃、少しずつ心が回復していた呂は中学校1年生からやり直そうと思い立つ。そうと決めたら行動開始。予備校に入って勉強を再開し、半年後には以前とは異なる中学校に入学した。そして懸命に勉学に励み、常に学年トップの成績を収めるようになった。

「この時は『いい意味』で先生に目をつけられました。風紀委員も任されていて、クラス運営では先生に頼りにされることも多かったです。同級生は年下の人ばかりだったので、私はみんなのお姉さん的な存在として親しまれていました。」

その後も順調に学校生活を送り、呂は高校に進学した。成績は引き続き学年トップクラスを誇った。


声優になる夢を諦めたくない

人生最大の決断。それは日本への留学だった。

「台湾と香港の難関大学に合格していましたが、いざ進路を選ぶ段階でふと『声優になりたい』と思ったんです。昔からアニメやアニメソングが大好きで、密かに声優に憧れていました。夢を諦めたくないと思った私は合格していた大学を辞退し、日本留学に向けて準備を始めました。」

「両親は私の決断を尊重してくれました。ただ、留学はお金がかかりますし、声優の仕事は狭き門なので、安心と納得をしてもらうために企画書を書きました。学費と生活費でいくらかかるのか、アルバイトでどの程度まかなえるのか、どのような計画で目標に近づくのか等をまとめました。」

進学する学校のリサーチと、サイン以外の手続きはすべて呂が進めた。そして夢への第一歩を踏み出した。


興味を持ったら挑戦!が呂詩織の流儀

来日後は語学学校に1年間通い、日本語能力をさらに向上させた。その後は声優の専門学校に入り、スキルを磨きながら充実した日々を送っていた。

ところが卒業を控えたある日、香港の親戚から改めて大学に行くのはどうかと提案された。

呂は考えた末に学士号を持っておいて損はないと思い、大学進学を決断。学習院女子大学の国際交流学部で学ぶことを決めた。好奇心旺盛な彼女は、様々なことに取り組んだ。

「3年次から声優業に専念できるよう、1・2年次で一気に単位を取ることにしたので、最初の2年間は毎日9時から18時まで授業に出ていました。そして学校が終わり次第アルバイトへ。さらにダンス部と放送部でも活動をしていました。声優の養成所にも入っていたので、多忙を極めていましたね。」

他に学生時代に熱中したことはあるかと尋ねてみると、インターンシップを挙げてくれた。

「カードゲームの会社で仕事をしていました。スタートアップだったので、SNSの管理から、動画メディアへの出演、さらに営業や経営に関することまで幅広く担当させてもらいました。」

興味を持ったらすぐに決断し、果敢に挑戦していく。呂のパワフルさには驚かされるばかりだ。


選択とは、すべてを天秤にかけること

将来声優業に専念する選択肢も持ちつつ、若いうちに様々な経験を積んで選択肢を増やしたいと思った呂は、日本での就職を決意した。就職活動は順調に進んだ。2社から内定を獲得した他、最終選考中の企業も複数あり、どの会社で働こうかと考えていた時だった。

いま接点のある会社でやりたい事はできそうだ。しかし、もっと自分に合った会社はないだろうか。心底納得のいく選択をしたいと思った呂は、大学4年生の夏にすべての内定と選考を辞退し、就職活動をやり直すことにした。そんな時に出会ったのがWealthParkだった。

「人生の前半戦は自由が少なかったため、WealthParkが掲げる『選択の自由が当たり前の世界を創る』というビジョンに興味を持ちました。

また私は、将来起業を視野に入れています。その時に、日本生活で経験した『外国人ならではの不自由さ』を解消する事業をやりたいと考えていましたが、WealthParkは既にそれを実行していたんです。より一層、WealthParkに入りたい!という思いが強くなりましたね。結果、無事に入社が決まって本当に良かったです。」

これまで様々な選択をして人生を切り拓いてきた呂詩織。最後に、選択とは何かについて語ってくれた。

「選択とは、すべてを天秤にかけることだと考えています。そして選択をする時に大事にしていることは、自分の信念を貫くことです。人はいつ最期を迎えるかわかりません。だからこそ、最善の選択をし続けて後悔のないように生きることが大事だと思っています。

この記事を読んでくださっているみなさんも、自分の人生に妥協せず前進しつづけてください。WealthParkでお会いできるのを楽しみにしています。」

インタビュアー
渡邉あす香|Asuka Watanabe
愛知県出身。大学卒業後に人材会社に入社。
企業のITエンジニア採用支援に5年間従事した後、2020年にフリーのライターに転身。
現在は、就転職や採用関連の記事を中心に執筆している。
https://www.facebook.com/asuka.watanabe.129
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