※こちらの記事はCULUMU公式noteからの転載です(2026年4月22日掲載)
本稿では2026年4月17日にCULUMUのメンバーによって執筆された『当事者発想 あなたの誰かのためは、何のためか?』(クロスメディア・パブリッシング)について、少しでも多くの方にメッセージが届くよう書籍の冒頭部分をまるごと公開させていただきました。なぜ今、「当事者」なのか。その背景や私たちの想いを知っていただければと思います。もしこの記事を読んだ後、少しでも興味を持っていただき書籍を手に取っていただくことがあれば、これほど嬉しいことはありません。
目次
- はじめに
- この本の読み方
- プロローグ
- 「みんなにとって良いこと」と”自分ごと”の狭間
- 自分ごとにするとは、どういうことか
- 翻訳されるべき構造
- ”名付けようのない孤独”の正体
- 誰のために存在するのか?を忘れたシステムたち
- ネグレクトされる個人の存在
- 硬直化した「する」「される」の関係性を再起動する
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はじめに
この本の読み方
この本を手に取っていただき、有り難うございます。この本は、知識を増やすための本というより、「自分がどんな問いを立てて生きているのか」を見直すための本である。だから、最初から順番に読んで理解しようとするよりも、むしろ自分の中にある違和感や、最近引っかかっている出来事を持ち込んで読むほうが、本来の力を発揮することだろう。
どんな人向けの本なのか、というところでは、下記のような方々にお薦めしたいと考えている。
- 「社会のため」「誰かのため」と思って行動したいのに、なぜか気持ちが乗らない人、ポジティブな反響・反応が得られていない人、行動を実践したにもかかわらず望ましい成果が得られていないと感じている人。
- SDGsや多様性やDXなど、正しいとされるテーマには賛成できる。でも、それを自分の問題として動けるかと言われると、どこか遠い話に感じてしまう人。
- 良いことをしたいと思っているのに、現場ではうまくいかず、誰かを助けたつもりが相手に嫌がられてしまったり、むしろ関係が悪くなってしまった経験がある人。
この本が扱っているのは、「みんなにとって良いこと」と「自らが視ている現実」の間にある溝だ。社会の正しさは、たいてい大きな言葉で語られる。国や企業や専門家が、社会全体のために必要だと言う。しかしその言葉は大きすぎて、個人が引き受けられる形になっていないことが多い。そのとき、問われている問いが個人の行動につながる形に翻訳されていないと捉えることが大切になる。この本は、その翻訳の仕方を扱っている。
この本の読み方の中心は、「誰かのために」という言葉を疑うことにある。誰かを助けたい、良いことをしたいという気持ちは、もちろん悪いものではない。ただ、善意はそのままでは簡単に空回りしてしまう。助ける側は合理的に考え、「これが役に立つはずだ」と思う。しかし助けられる側には、その人なりの自尊心や過去の経験や怖さがある。同じ行為でも「管理されているように感じる」「自分を否定されたように感じる」と受け取られることがある。ここで起きているのは、善意が足りないことではなく、前提がずれていることだ。
ここでは支援や配慮が失敗するとき、そこには「助ける側と助けられる側が対等ではない」という構造が隠れていると説明している。つまり、助ける側が無自覚に強い立場に立ってしまうと、支援はいつのまにか支配に変わってしまう。そのため、問いは「何をしてあげるか」ではなく、「どんな関係の中で、一緒に何を考えるのか」でなければならない、という方向へ導かれることだろう。
この本が本当に役に立つのは、「良いことをしたいのに、どうしていいか分からない」ときだ。あるいは「正しいはずの仕組みが、なぜか人を傷つけている」と感じたときかもしれない。しかしそんなとき、この本は、あなたに正解をくれるわけではない。ただ、あなたが何を問題として扱うべきかを見抜く目を育ててくれる。つまり、答えを探す本ではなく、問いを立て直す本であると考える。
つまるところ、この本の正しい読み方とは、読み終えることを目標にしないことにある。読みながら、自分の違和感を言葉にし、誰のための正しさなのかを問い、当事者の立場にある人が本当はどうありたかったのかを想像し、現状と未来をつなぐ構造を考える。そのプロセスそのものが、この本の目的だ。もし読み終えたときに、自分の現場で問い直す力が少し増えていたなら、それが著者としての望みでもある。
プロローグ
「みんなにとって良いこと」と”自分ごと”の狭間
自分ごとにするとは、どういうことか
DX、SDGs、DE&I、テックビジネス、働き方改革、リスキリング、外国人材政策、アテンション・エコノミー……現代社会をひとことで象徴するバズワードは、万人に向けた合理性と正当性を纏っているかのように見える。
流行や世論は、しばしば刹那的なものとして語られる。だがそれらが積み重なったとき、まるで雪崩のように無視できない流れになる。個々の選択は取るに足らない雫のようでも、集まれば大河となり、個人の意思を無視して大衆を従わせるような力をも持つ。
多くの人が、「みんなにとって良いこと」に違和感なく賛成する。SDGsに反対する人はほとんどいない。サステナビリティ、社会的包摂といったテーマや大義名分そのものに異論を唱えることも稀だろう。にもかかわらず、これらを真に”自分ごと”として内面化しているかと問われると、答えに詰まる人は少なくないのではないか。
自分ごととは、組織や社会の課題、目標、あるいは他人の問題を他人ごと(ひとごと)ではなく「自分自身の問題」として捉え、主体的に関与し、責任を持って行動する姿勢を指す。これは当事者意識や責任感、主体性とも言い換えられ、「自分の行動が結果に繋がる」と認識し、積極的に解決策を探し実行する状態のことだ。
しかし、他人ごとだったはずの事象について「自分にも責任がある」と感じ真摯に取り組むその殊勝な姿勢は、そう簡単には発現しない。世の中には共感され支援のあつまる社会課題と、そうではない社会課題とが存在する。それ自体を非難するつもりはないが、事実として明らかに偏りは存在する。これは、自分ごと化しやすい事柄と、しづらい事柄があるということでもある。
哲学者であり経済学者であるアダム・スミスは「他者の幸福を求めることは人間の本性であり、共感はそれを支える作用を持っている」と主張した。また、霊長類行動学者フランス・ドゥ・ヴァールは「この混迷極まる現代社会を良くするには共感こそが鍵である」と論じている。
では、「みんなにとって良いこと」を自分ごとにできない者は、人としての共感力に劣る人間なのだろうか。世界中で困っている人々の姿を一人残らず自分ごとにできない者は、その感受性や無責任を恥ずべきなのだろうか。無論、そうではない。この問いは問い自体が誤っている。できないことをできない者に罪や恥を与えるのは、倫理というより暴力に近い。これは倫理の名を借りた過剰な要求であり、むしろ共感の萌芽や善意のきっかけを破壊する凶器にすらなりえる。他者に無限の共感を要求し、それを道徳として押し付ける態度こそ、恥ずべきことである。
「自分ごとにできない」ことは、必ずしも無責任ではない。人が他者の苦しみを見て距離を取るのは、その人が冷酷だからではなく、精神的に壊れないための防衛反応でもあるかもしれないからだ。持続可能な距離感を確保しながらそれぞれが各々の責任を果たそうとする姿勢を大切にすることが、結果として社会のための共感になっていくのではないだろうか。
翻訳されるべき構造
ここにあるのは、善悪の問題ではない。論点は、「みんなにとって良いこと」と”自分ごと”のあいだに横たわる断絶感である。
多くの社会課題テーマは、主語が社会やシステムに置かれている。そこでは、政府、経営層、有識者、推進組織といった“管理・設計・推進する側”が語り手になる。一方で、個人である私たちからすれば、その語りの受け手に留まりやすい。賛同はできるが、主語は還ってこない。そこには、大きな分断がある。
これは意欲の問題ではなく、構造の問題である。文化を浸透させる。価値観を広める。理念や思想を啓く――これらは常に推進する組織やシステムの側の責任として語られてきた。その結果、個人がそれを自分の責任として引き受ける感覚は、著しく希薄になる。あまりにスケールが大きく抽象度が高いため、現実感が持てないのだ。
ここで立ち返るべきは、社会にとって正しい問いが、個人にとって動ける問いに変換されていないという構造的な欠陥にある。問題は、「社会的に良いことをやるべきか」ではない。「その問いの主語は、誰のものとして設計されているのか?」ということである。人は、自分が責任を持てない問いでは動けない。逆に言えば、問いのスケールを落とし、主語を自分に引き寄せ、影響範囲を具体化した瞬間、同じテーマでも行動は生まれる確率は上がる。
この課題は、自分の中にあるどの要素(当事者性)と接続しているのか
自分が動くことで、どこまでが変えられるのか
変化が起きたとき、誰のどんな状態がどう良くなるのか
これらが言語化されて初めて、「社会にとって良いこと」は自ずから自ら関わる意味のあること=”自分ごと”になっていく。個人である自分が引き受けられる問いに翻訳する意義は、このようなところにあると考える。
”名付けようのない孤独”の正体
しかしそれでも、世の中は一定の全体最適が成されたという“事後的な”前提の下、大衆の典型的・平均的な価値観と多数派の分かりやすさを軸にして前に進む。一方で、人の生は常に具体的で、ユニークで、取り替えがきかない。自分自身や、助けたい誰かの小さな息づかいは、統計にもトレンドにも現れにくいことだろう。
このように、個人がシステムから置き去りにされるとき。人は”名付けようのない孤独”を感じる。
世界が誤っていると断言できるわけでもない。自分が正しいとも言い切れない。ただ、何かが決定的に噛み合っていない。「正しい」と頭で分かっていても、心が付いていかない。自分自身や大切な誰かの小さな息づかいが置き去りにされて、世の中が先に動いていってしまっている――そんな名の付けようのない孤独を感じたことは、ないだろうか。気づけば、世の中が先に動いていってしまう。自分は取り残されているわけではないのに、同じ時間を生きている感覚が持てない。そこに生まれるのが、名の付けようのない孤独であり、違和感だ。
この孤独は、個人的な弱さから生まれるものではない。むしろ、「正しさ」が誰のどの現実を基準に定義されているかが曖昧なまま、物事が進んでいるときに生じる。
重要なのは、この違和感を否定しないことだ。違和感は、思考停止のサインでも、共感力低下のサインでもない。むしろ、より本質的なイシューが未定義であることを知らせるシグナルである。
誰のために存在するのか?を忘れたシステムたち
ネグレクトされる個人の存在
この10年で、私たちが向き合ってきたビジネスと社会の景色は、明らかに質的な転換点を越えている。新型コロナウイルス感染症のパンデミックを経たDXの進展、AIの社会実装、人的資本経営や働き方改革の普及――いずれも個別には合理的で、人間中心という価値観を共有している。
しかし全体を俯瞰すると、ある共通の構造が浮かび上がる。管理する側としてのシステムと管理される側としての個人の関係の深層において、管理する主体(システム)と管理される客体(個人)の間で、システム側の論理だけが過剰に優先されているのに対して、個人側の論理がネグレクトされてしまっているという構造に。
表層では、「人を大切にする」「多様性を尊重する」「より良い社会をつくる」といった大義名分がいかに大事であるか?が語られる。だが深層では、評価、可視化、効率化、最適化といった論理が暴走し、個人は次第に“扱いやすい単位”として整理されていく。この二重構造こそが、いま多くの現場で感じられている違和感の源泉である。社会全体の理想ばかり追い求め、一人ひとりの人間の個別性を軽視して個人の存在が零れ落ちてしまうような状況に陥るリスクは、至る所で顕在化してきている。
ここにきて、私たちは次第に問わざるを得なくなっている。
その「大事」は、誰が定義しているのか
何の目的で、誰の何が大事だとされているのか
そして何より、その目的は現場で生きる人の痛みや願いと接続しているのか
これらの問いに即答できない空白。ここにこそ、大義名分の背後に隠れてきた“違和感”の正体がある。
硬直化した「する」「される」の関係性を再起動する
本書が説く「当事者発想」とは、痛み、喜び、誇り、不安といった身体的・感情的な生きた経験に基づく一人称の視点であり、「する」「される」というような二項対立を超えて”共にある関係”を築き、世の中を自分ごととして捉え直すための思考様式である。
ただし本書は、個人とシステムの二項対立構造に含まれる欺瞞や虚偽・矛盾をあげつらい、そのシステムの不備を重箱の隅をつつくかのように非難することを目的としない。知らず知らずのうちに硬直化した個人とシステムの関係値を紡ぎ直すことを目指した、一個人のささやかな抵抗としてご理解いただきたい。
置き去りにされた苦しみや絶望を見つめることから、私たちの真の希望や勇気は生まれると信じて。
テクノロジー・先端技術の陰に零れ落ちる息づかいと倫理観
女性の健康課題をテクノロジーで解決するフェムテックは、すでに一過性のトレンドではない。2025年時点で数兆円規模に達したこの市場は、投資家や企業から“最後に残された巨大なホワイトスペース(未踏の市場)”として注目を集めている。
女性の身体データは「新たな石油」と呼ばれ、こと日本においては歯止めの効かない少子高齢化社会が少子化対策や労働政策の一環としてそれをプラットフォームに組み込み、巨大なエコシステムを築こうとする動きが加速している。そこでは経済合理性こそが正義であり、人権への配慮をノルマとして理解しながら経済的な成功を収めようとする事業者が続々と創業に名乗りを上げている。
しかし、その華やかな成長の影には、商業化の在り方そのものに疑問を投げかける声も、静かに芽生え始めている。女性にとって、生理も、妊活も、更年期も――長いあいだ声を奪われ、我慢という沈黙の中へ押し込められてきた切実な痛みである。フェムテックがその痛みを可視化し、対処の方法を差し出してくれたことは、たしかに救いだ。しかし同時に、胸の奥にふと浮かぶ不安がある。
「私の最も親密な身体のデータが、知らぬ間に商品開発の材料や、広告として消費されていくのではないか?」その感覚は、まるで誰にも触れられたくない秘密の抽斗の鍵を、そっと奪われてしまったかのようだ。自分の痛みが市場価値という尺度で測られ、高額な商品として売りつけられる――そうした体験が積み重なり、当事者の間には静かな冷笑(シニシズム)が広がりつつある。ここには、データ化とビジネス化のプロセスにおいて、当事者の権利がどこまで守られているかという、きわめて構造的な問題があるのだ。
本来のフェムテックは、Tech(技術)の力でFem(女性)を支えるのではなく。Fem(女性)の声から、Tech(技術)が生まれる世界であるべきだ。その理念を体現し、成功している企業は、利用者をただの「ユーザー」として扱わない。彼女たちを「共創者」「共同開発者」として迎え入れ、コミュニティという温度のある土壌を育てている。さらに、データの所有権を利用者自身に帰し、得られた収益の一部を女性支援団体に還元するなど、互いが与え、互いが潤うような互恵性のコーズ(大義)をビジネスモデルに宿している。
それは、テクノロジーが人の身体を“資源”ではなく、“尊厳をもった主体”として扱うための、現代的な倫理観を損なわせないための、現実的な設計思想である。
テクノロジーは、かつて息づいていた”人”という存在を”数値”という単位へと分解し、データとビジネスの回路へと編み替えて合理的なシステムの歯車にしてしまった。それでもなお、数値には決しておさまりきらない「何か」が人の内側では確かに鼓動している。数値に置き換えられない「何か」と「数値」の混紡の存在である私たちの中にあるその微かな震えだけが、私たちがまだ人であることを証しているのかもしれない。
人的資本経営の中心に位置すべきだったはずのもの
2026年、企業社会は静かな転換点に立っている。ニューロダイバーシティの思想が広がり、DE&Iへの反発が世界的に高まり、オフィス回帰やリスキリングの圧力が重なり、AIの影と光が労働を揺るがし、「人的資本」という新しい名の下で人間を再び(管理・最適化すべき)“資源”として捉えようとする力が強まっている。
企業の論理はしばしばこうだ。
- 生産性の高いニューロダイバーシティ人材を「戦力」として活用したい
- 出社は管理のために必要だ
- リスキリングはROIのためだ
- AIは無駄を排除するための可視化装置だ
- 人は投資対象(人的資本)だ
問題は、それらが何を前提にしているかだ。この論理が前提としているのは、人間を「機能」の集合として扱う視点である。
これらの論理には経営的な合理性がある。だが同時に、人間を“機能”としてしか扱わない冷たさがある。システムの論理は硬く鋭く、痛みを感じる個人の心は柔らかい。硬いものが柔らかいものを圧するとき、最初に壊れるのはいつも“人間”だ。その混沌のただ中で、当事者の声は問いかける。「私は、誰のために働くのか」「私の時間は、誰のものなのか」「組織は本当に“私”を見ているのか」。
たとえばASDやADHDなど、神経発達症の特性をもつ人々が求めているのは、「特別な才能があるから雇用してほしい」という条件付きの承認ではない。ただ、ありのままの自分が安心して働ける環境、それだけだ。騒がしいオフィス、曖昧な指示、同調圧力。これらは、発達障害(神経発達症)当事者と環境のあいだにある不一致(ミスマッチ)の産物である。
同じ構造は、女性、LGBTQ+、障害者、その他のマイノリティをめぐるDE&Iにも当てはまる。DE&Iは優遇措置ではないはずだ。DE&Iとは、長い文明社会の歴史のなかで傾いた地平線――不平等なスタートラインを、やっと水平に戻すための生存要請であり、時代に合わせた人権回復のための最小限の条件である。
しかしこの世界で起きたバックラッシュは、この声を逆差別と呼び、努力の物語で上書きしようとする。このとき、当事者が感じるのは怒りではない。再び社会から”見えない存在”にされるのではないかという、深い恐怖である。
さらに、育児や介護を担う人にとって、オフィス回帰は“効率化”ではなく“切り捨て”として響く。リモートワークは福利厚生ではなく、もはや生活と働く権利をつなぐ生存インフラである。「なぜ今日、集まらなければならないのか?」この問いに答えられない出社要請は、平等に見えて実は不平等な悪平等にすぎない。
そして忘れてはならないのは、こうした現場の矛盾と向き合わされている管理職自身も、また当事者であるという点だ。成果とケアの両立を求められ、心理的安全性や感情労働を担わされながら、それが正当に評価されることは少ない。管理職は“罰ゲーム”ではない。成果とケアの両方を背負わせられた結果、彼らは最も支援を必要としている存在になっている。心理的安全性を高める行為や感情労働に、正当な価値づけが必要であろう。ケアを評価しない組織に、未来のリーダーはいなくなる。
現代の企業は、コンプライアンスでもブランド戦略でもなく、「人間の尊厳を中心に据える」という倫理的選択を迫られているのかもしれない。
なぜ、このようなことになるのか?
なぜ、このようなことが起こるのか?私たちが辿りついた一つの結論はこうだ――これは、“当事者性の欠如”が生んだ現象ではないだろうか。
「この業界は構造的に歪んでいる」「社会全体の価値観が変わる必要がある」「システムが追いついていない」どれも間違ってはいない。だが、これらは答えではなく、前提条件にすぎない。そして、当事者性が欠けた施策は、誰かの現実を踏まえることができない。だからこそ、目的が自分の生活や仕事にどうつながるか分からない→不都合や困難が声として届かない→形だけの取り組みが増える…こうした事態が連鎖してしまう。
木を見ずに森のみを語る議論は、往々にして責任の所在を曖昧にする。主語は社会になり、行為主体は消える。結果として、「分かっているが、誰も動かない」状態が生まれる。思考の質は、抽象度の高さでは決まらない。適切な抽象度を、適切なタイミングで選べているかで決まる。森を見たら、木を見にいく。その逆も然りだ。これを繰り返した先に、本当に価値のある思考とは、「どの木をどう変えれば、森の景色が変わるか」を整理できている状態を目指すべきだ。
森とは社会であり、組織であり、データやシステムである。そして木とは当事者であり、個人であり、一次情報である。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。続きは是非、書籍にてお楽しみいただければと思います↓
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