朝7時半過ぎ。ハノイの街の中心へ向かう途中、いつものようにベトナムで人気のあるカフェに立ち寄ると、若いベトナム人スタッフが濃いコーヒーを淹れる。独特の焦げたような渋み。暑さの中で、バイクの騒音を聞きながら味わうこの一杯が、今日もまた“問いに満ちた”1日の始まりを告げる。 日本での職を離れ、ハノイへ赴任してしばらく経つと、最初のうちは「海外勤務」という言葉にすがっていても、それがすぐに意味を失ったことに気づく。日々の生活のなかで体験するのは、肩書きとは無関係の揺さぶられるような出来事の連続だ。
路の端のフルーツ、値札のない交渉
赴任して間もない頃に、ハノイの旧市街を散策する多くの日本人が経験するのが値段交渉。道端でフルーツを売るおばあさんと目が合った。彼女はにこにこと笑いながら、ライチを差し出してくる。断りきれず、私も笑って簡単なベトナム語で「Bao nhiêu?(いくら?)」と尋ねる。
すると、彼女は手のひらで「20万ドン(約1,200円)」と示す。高い、と感じた。でも、それが外国人価格なのか、それとも“ふつう”なのかの基準がわからない。
結局、お札を差し出すと、彼女は笑顔でそれを受け取った。その帰り道、甘いライチをかじりながら、「たぶん、高かったんだろうな」と思いつつ、ほんの少し悔しさとベトナム人との交流による温かさが残った。
後日、ベトナム人の同僚に話すと、笑いながら、「ああ、それは確実に観光客プライスですね。でも、おそらくあなたが、“断れなさそう”に見られているんじゃないかな」と言う。
なるほど、ここでは価格以上に、“自分がどう見られているか”が交渉の出発点になるのだ。
コンテクストを読むということ
現地法人の会議室で、ベトナム人の若手社員たちとブレインストーミングをしていると、日本では経験しなかった種類の激しい議論と静けさに出会う。ベトナム人は議論を始めると相手の言うことを聞かないことも多く、激しいやり取りの末、行司役を上司である日本人に結論を求めることも多い。そして、こちらの意図を、慎重に“咀嚼”している静けさに行き着く。
私は言語以前のコンテクスト読解力のような感覚を研ぎ澄ませるようになった。たとえば、笑顔の奥にある遠慮と、同じ笑顔の奥にある確信を、どう見分けるか。誰の意見を立てるべきか。直接的な言葉では測れない熱量を、どのように捉えるか。
異なる文化を生きる他者と、同じプロジェクトの未来を語るには、言語能力以上に「関係性への感度」が問われる。それは、MBAやコンサルのフレームワークでは図れない、実践知の領域だ。
この「見えないものを感じ取る力」は、ハノイという都市での生活や、人とのやりとりの中で、日々育まれていく。
成長とは、「境界の曖昧化」だ
こうした経験を経て実感するのは、「成長」とは何かを新たに身につけるというより、むしろ「これまでの自分という輪郭を少しずつ変えていく」ことだ。
たとえば、交渉の仕方ひとつ取っても、日本では“丁寧さ”や“誠実さ”が通用する場面が多い。だが、ハノイでは、それがむしろ「交渉力のなさ」「決断力のなさ」「自信のなさ」と映ることもある。それを知ったとき、これまで、理論武装し、丁寧に議論を進めることにこだわってきた自分の中の価値観が揺らぐ。でも、その揺らぎの中にしか、「ベトナムの価値観とつながる自分」は生まれないのだと思う。s
情報の奥にある「生活」に触れる
仕事では、日系企業の進出支援や市場調査に関わることが多い。エクセルやパワーポイント、メールで完結する作業もある。でも、実際に成果が出るのは、現地の「温度」を読み取れたときだ。
あるとき、若者の集うショッピングモールの視察に同行した。売り場にいた顧客に話しかけると、「以前は”日本製の食品”に興味を持ったが、最近は、海外の著名人のインスタを通じて知った”抹茶”への興味が高まっている」と教えてくれた。これまでのデータには現れないその一言が、次のキャンペーンの提案内容の核心になった。
おわりに:不器用さとともにアジアで生きるということ
数日後、道端で以前ライチを買ったフルーツ売りに似たおばあさんに出会う。同じ人物かわからないが、彼女は笑いながら私に話しかけ、ライチを差し出す。今回は、笑って軽く会釈だけして通り過ぎる。振り返るとすべてこの街に馴染むための“通過儀礼”だったように思う。
成長とは、スキルが磨かれることではなく、「海外で再発見する不器用な自分を肯定できるようになること」なのかもしれない。それは、静かな誇りとして自分の中に残っていく。
ONE-VALUEは、日本とアジアの架け橋としての役割を果たしていきます。そしてその最前線には、新しい挑戦を恐れないあなたが必要です。「今、面白い仕事をしたい」と思った方は、ぜひ一度、私たちの門を叩いてみてください。