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一人では「祭り」は出来ない。多様性を受け入れ、個を活かす。祭りで日本が盛り上がった世界とは?#代表取締役~優ちゃん~の場合

オマツリジャパンの代表取締役であり、創業者である加藤優子(かとうゆうこ)<通称:優ちゃん>にインタビュー。

美術大学出身で、幼少期からアートの世界で生きていくことを目指していた加藤が、どのようにしてオマツリジャパンの起業に至ったのか?

自分だけに閉ざされていたアートの世界。東日本大震災をきっかけに「誰かの役に立つことがしたい」という意識の変化と、「一人では祭りは出来ない」という気付きが加藤をオマツリジャパン立ち上げへと向かわせる。様々なバックグラウンドを持つ老若男女が個性を活かしながら同じ「祭り」という目標に向かう様子は、株式会社オマツリジャパンの会社の在り方と似ている。オマツリジャパン立ち上げの経緯から、現在、そしてこれからについて語って貰った。

ずっと絵描きになりたかった。美大生としてアートの道へ。

美術大学時代の加藤。友人たちと一緒に製作に取り組む様子

‟幼稚園の頃から、将来は絵描きになりたかったんです。” 加藤の夢は幼少期から一貫していた。幼稚園の頃から絵が好きで、中学生の頃にはすでに美術大学への進学を決めていたという。描きたい対象は当時流行していたアニメキャラクターから、成長と共にモノや風景、生身の人へ。そして美大生時代には、抽象的な現代アートへとシフトしていく。

“抽象画って他の人にあまり伝わらないんですよね。自分の母親に見せても「良く分からない」と言う反応が返ってきたり。それでも自分の世界だから、その中で完結していいと思っていました。”

自分の世界を造り、その中で表現する。他者からの評価はあってもなくても構わない。自分の世界の中で完結することが、加藤のアーティストとしての在り方だったのだろう。しかし、2011年に起きた東日本大震災でその考えは一変する。

アートの力って何だろう?自分の世界で完結する生き方から、誰かの役に立つ生き方へ

創業のきっかけとなった青森ねぶた祭。

“甚大な被害をもたらした自然災害の前では、アートは無力だ…と実感したんです。今日寝る場所にも困るような状況下で絵を描くことは(少なくとも私の絵に関しては)誰の役にも立たない…無力だなと思いました。それよりも家を直すとか、料理を作る人の方が、当時はよっぽど他人の役に立っているように見えたし、誰かを幸せにしている。「もっとリアルに誰かの役に立ちたい」と感じたんです。”

前衛的な現代アートで、自分の世界の中で完結していた加藤の生き方は、東日本大震災をきっかけに「誰かの役に立つことがしたい」と変化する。

多様な当事者が個性を発揮し、思いっきり楽しむ世界が「祭り」

設立初期の頃、商店街のお祭りの運営支援をした時の様子。子供向けに落書きコーナーを作り、自由に絵を描いて楽しんでもらった。

絵を描くことが好きだった加藤。そんな加藤はどのようにして祭りに興味を持つに至ったのか?祭りとの関りについて聞いた。

‟母親が青森出身なんです。毎年夏には帰省の折に青森ねぶた祭りを見に行っていました。”しかし、加藤が大学生の頃までは参加するのではなく「見に行く」に留まっていたという。

“お祭りに参加している人の中に知り合いが居なかったんですよね。もちろん親戚は青森に住んでいるんですが、高齢で参加はしていなくて。”大学生になった加藤は当時流行していたmixiのコミュニティで「青森ねぶた祭のハネトに参加しませんか?」という募集を見つける。そのコミュニティに参加したことがきっかけとなり、加藤はお祭りを「見る側」から「参加する側」へと変化する。“参加してみたらめちゃめちゃ面白いんですよね”と加藤。

祭りは当事者として参加して楽しんでこそ、より深く楽しさが感じられるものなのだろう。これはお祭りに参加する誰もが経験していることではないだろうか。

祭りには多様な人が関わっている。職業や嗜好、年齢や所属、バックグラウンドも全く異なる人達が、同じ「祭り」に関わり、1年のうっぷんを晴らすがごとくエネルギーを爆発させる。加藤が祭りの力を実感したエピソードの一つだ。

祭りは生き甲斐であり、アイデンティティ。実感したのは震災直後の青森ねぶた祭。

キリンアクセラレータプログラムに応募。見事優秀賞を受賞し、出資を受けることとなる。

加藤が祭りの更なる力を実感したのは、2011年に行われた青森ねぶた祭でのこと。東北地方に甚大な被害をもたらした東日本大震災直後に行われた青森ねぶた祭だ。

“2011年8月に行われた青森ねぶた祭は、日本中が自粛ムードの中で行われたんですが、地元の人達は地域外から観光客が来ていようが、いまいが関係なく、祭りを楽しんでいて。エネルギーを爆発させている姿を見て改めてお祭りのパワーを感じたんです。”

日本中が自粛ムードに包まれる中で行われた青森ねぶた祭。観光客は少なかったにも拘わらず、地元の人は自分たちのお祭りを純粋に楽しんでいた。誰のための祭りなのか?何のための祭りなのか?パフォーマンスやイベントとは異なる、自分たちのアイデンティティ、生き甲斐としての祭り。

改めて祭りの持つ力を実感した加藤。この時の体験が加藤に起業を決意させることとなる。

そして、オマツリジャパンの立ち上げ。一人では何もできない。個性ある仲間があってこそ。

法人化して間もない頃(2015年4月)あきる野市の祭りに参加した時の様子。写真中央に共同代表の山本、山本の右隣りが取締役の橋本

新卒入社した漬物メーカーに勤務する傍ら、任意団体のオマツリジャパンを立ち上げ、お祭好きが集まるコミュニティとして運営に着手。徐々に引き合いが増えたことから会社を設立することになるが、創業当初は加藤が一人で営業活動から、事務作業まで全て行っていたという。

“ずっと孤独でしたね。”と、当時を振り返って加藤はこう語る。“一人の力ってやっぱり限界があるんですよね。一人では出来ないことも、皆の力を合わせれば出来ることがどんどん広がっていく。これって祭りも同じなんですよね。一人では祭りは出来ない。そのことに気付いたんです。”

祭りが老若男女、バックグラウンドも嗜好も異なる多様な人たちで作り上げていく様に、オマツリジャパンもまた皆の力を合わせて運営をしていこう…。加藤がそんな想いを持つ中で、コミュニティ時代からオマツリジャパンで活動をしていた仲間が一人、また一人とオマツリジャパンへのJOINを決意。それが現在の共同代表山本、取締役の橋本の2名だ。

多様性を受け入れ、個を活かすマネジメントが「働きやすさ」につながる。

2019年、加藤の誕生日をお祝いした時の様子

1人が3人になり、また更に営業の加藤匠大山菅原、メディア編集長の池田…と、続々と優秀なメンバーがJOINを決意。いずれも有名な大手企業や外資系コンサルの出身者だ。優秀なメンバーがJOINしたことでオマツリジャパンの事業は飛躍的な発展を遂げる。

“一人では何も出来ないんですよね。皆がいてこその私なんです。”

現在、1児の母となった加藤は、家庭と仕事を両立しながら経営を行っている。限られるリソースで最大限のパフォーマンスを発揮するためには、周りとの連携や協力が不可欠。周りとのコミュニケーションを欠かさぬよう、社内のコミュニケーションツールの活用も含め、最大限の配慮を行っている。

社員側も家庭の事情から、出勤時間の調整を申し出るなど、個別に相談・調整が可能な社風であり、働きやすい雰囲気を作っているのは、代表の加藤自らが子育てと仕事の両立に奮闘している影響が大きい。

もっと多くの祭りを支援し、関わる全ての人が幸せになるために。

左から共同代表山本、代表加藤、取締役橋本の3名

最後に、加藤の考える今後のオマツリジャパンについて質問した。

‟もともと商店街が主催する小さなお祭りの運営サポートからスタートしたオマツリジャパン。お祭り主催者からお困りの声は多数寄せられるものの、なかなか会社の利益が上がらず活動を続けることが出来ない…というジレンマがありました。

この状況を打破するため、お祭りをビジネス活用したい企業から協賛金を得たり、お祭りを観光活用したいと考える自治体から資金を得ることで、持続可能なお祭り支援の事業にシフトしました。

とはいえ、どんなお祭りもサポートしたい。そのために無料でお祭りの情報発信が出来るWEBサイトの運営や機能拡充も行っています。

一人では決して出来ない「お祭り」を盛り上げることで、日本中を盛り上げたい。オマツリジャパンが目指すのは「全てのお祭りのインフラになること」。オマツリジャパンに関わる全ての人が幸せになれるように、今後も祭りや文化を守り、持続可能な方法を探りながら日々取り組んでいきたいと思います。”

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