すべてが燃えた日。それでも椎茸をやめなかった理由
レンチナス奥羽伊勢社長・伊勢隼人の転機
椎茸栽培が、ようやく軌道に乗り始めていた頃のことでした。
平茸事業の市場崩壊をきっかけに、会社は椎茸栽培へと大きく舵を切っていました。
栽培方法を試行錯誤しながら、収穫が少しずつ安定し始めたこのタイミング。
そんなある日、一本の連絡が入ります。
「ハウスが燃えている」
急いで現場へ向かったのは、伊勢隼人一家。
レンチナス奥羽伊勢株式会社の伊勢社長でした。
目の前に広がっていたのは、大きな炎に包まれたハウスだった。
(焼け跡写真)
家族それぞれの反応
当時の状況について、伊勢社長はこう振り返ります。
「正直、何が起きているのか分からなかったですね。今までやってきたものが全部燃えていくのをただただ見ていました。」
「家族の反応もそれぞれで、母はショックでその場に崩れ落ちて倒れた際に骨折してしまったし、自分もどうしていいか分からず、ただ涙を流しその場に立ち尽くしてました。」
「近隣住民やトモ(現在専務取締役の米森智明)も助けてくれて、燃え広がらないように外壁を壊したり、まだ使えるものを取り出したりしてくれてました。」
「壊さないで…!」
そう思いながら燃える火の粉を前に立ち尽くしてたそう。
ただ、その中で一人だけ様子が違う人物がいました。
父でした。
父だけが冷静だった
火災の現場は混乱していました。
それでも父は、消防団への連絡や近隣への対応など、周囲に指示を出しながら動いていたといいます。
伊勢社長自身も消防団として活動していたそうですが、当時は何もすることができなかったそうです。
「父だけがすごく冷静だったんです。」
伊勢社長はそう話します。
それまで父のことを、「会社をやっている人」くらいの感覚で見ていたそうです。
でもこのとき初めて思いました。
「あ、この人すごいなって。」
この出来事は、伊勢社長にとって父を“経営者”として見るきっかけになりました。
椎茸をやめるかという話
火災のあと、現実はかなり厳しいものでした。
ハウスは焼け、設備も失われた。
借金も残っています。
しかも椎茸事業は、まだ安定していたわけではありません。
父の口からも、弱気な言葉が出ました。
「もう椎茸やめるか」
そんな話が出ていたそうです。
そのとき、伊勢社長は父にこう言いました。
「じゃあ俺がやるよ」
この言葉が、レンチナス再建のきっかけになりました。
再建までの半年
火災による保険金は約2,000万円。
しかし、それだけで再建できる金額ではありませんでした。
それでも伊勢社長と父は、すぐに動きます。
八峰町や秋田銀行へ相談し、補助金や融資の準備を進めました。
「本当にいろんな人に助けてもらいました。」
伊勢社長はそう振り返ります。
特に印象に残っているのが、当時町で重要な役割を担っていた人物の存在でした。
火災のあと、何度も相談に乗り、再建に向けて背中を押してくれたといいます。
「正直、あのときは本当に救われましたね。」
こうした周囲の支えもあり、再建の道筋が少しずつ見えてきました。
そして火災から約半年後。
新しいハウスが完成します。
多くの人の助けがあって半年で再建できた。
ここからレンチナスの再スタートが始まりました。
あの日から
伊勢社長はこう話します。
「それまでは、どこか家業を手伝っている感覚だったと思います。」
火災をきっかけに、会社を自分が背負うという意識が強くなりました。
その後レンチナスでは
・栽培環境の改善
・独自の湿度管理
・自社菌床づくり
など、栽培技術の改良を重ねていきました。
そして、その試行錯誤の中から後に会社の象徴となる椎茸が生まれます。
それが 黑椎茸 (くろしいたけ)です。
この誕生の裏側については、また別の記事で紹介したいと思います。
椎茸農家で日本一へ
現在、レンチナス奥羽伊勢株式会社は椎茸栽培を中心に事業を展開しています。
そして伊勢社長が掲げる目標は明確です。
椎茸農家で日本一になる。
それは単に生産量の話ではありません。
地方からでも、農業でも、圧倒的なビジネスモデルをつくる。
それを証明したいと伊勢社長は言います。
火災から始まった再建の物語は、今も続いています。