こんにちは。株式会社シンシア・ハートで代表取締役をしている堀内猛志(takenoko1220)です。
このnoteでは、起業を志してベンチャー企業に新卒入社したのに、結局17年も所属してしまった結果、38歳6か月にしてやっと起業した人間のヒューマンストーリーという名のポエムブログを書いています。
先月のnoteでもシェアしましたが、堀内家では昨年の4月から激動の日々が続いています。
【創業note】「長さ」よりも「濃さ」を大事にしている話〜2025年4月振り返り〜|キャリア・クラフティングのススメ
そして、5月は僕が一生忘れられないであろう大きな出来事がありました。今も、そのときのことを振り返り、自問自答を繰り返している毎日ですが、冷静になる意味も込め、ありのままの記録を綴りたいと思います。
目次
5月初旬 〜弾丸で関西へ〜
5月中旬 〜薬の変更と体調変化〜
40℃の高熱
激しい身体の痛み
5月下旬 〜忘れられない3日間〜
引かない熱と痛み
様子がおかしい妻
寝ていたはずの妻がいない
虚ろな顔
病院への救急搬送
現在〜回復を祈る日々〜
時間の許す限り妻のそばに
繰り返す自問自答
とめどない後悔
「忘れないこと」と「活かすこと」
二度と忘れられない記憶
最悪の事態を想定する
最悪の事態に向けて準備する
これからの希望
まだまだ回復の見込みはある
妻に怒られたい
最後まで読んでくださった皆様へ
★メンバーを募集しています★
5月初旬 〜弾丸で関西へ〜
これも先月のnoteに書きましたが、4月は、妻のがんが脳へ転移していることがわかりました。これにより、ゴールデンウィークに予定していた2週間ほどの入院が一旦中止に。そこで、夫婦二人の実家がある関西に帰る案が浮上しましたが、その前から、妻は「ちょっと体が痛い」と言うことが増えていました。
僕としては長距離の移動が心配だったのですが、ちょうどそのタイミングで、妻の大学時代の友人が京都で集まる会が企画されていました。
彼女は、今も大学時代の友人とすごく仲が良いです。息子と同学年になる子を持つ友人も3人もいます。そのうちの一人で、今年の4月1日に出産したばかりの方も参加するなど、今回はいつもよりたくさんのメンバーが集まりそうだ、とのこと。
妻も「せっかくの機会だし会いたい」と言うので、開催1日前に新幹線の空き状況を調べたところ、連休の中日ということもあってたまたま空いていたんです。そこで、急遽、関西へ向かい、妻は無事に友人宅でのバーベキューに参加することができました。
ちなみに、妻は自分の病気のことをごく限られた人にしか伝えていません。事情を知らない方からは「お酒飲まないの?」と聞かれたようです。「今は控えてるんだよね」と答えたそうですが、妻は見た目がすごく元気なので、「母乳をあげているからだろう」と思われたのではないかと思います。
5月中旬 〜薬の変更と体調変化〜
40℃の高熱
帰省自体は短かったものの、家族で充実したゴールデンウィークを過ごすことができました。ただ、東京に帰ってきてから検査をしたところ、肝臓の腫瘍マーカー値がかなり上昇していたんです。
そこで、抗がん剤を変えたのですが、その薬の影響なのか、がんの影響なのか、40℃を超える熱が頻繁に出るようになってしまいました。
今までは、隔週金曜日に抗がん剤治療を行い、土日は体がだるくなるので寝る、という程度だったので、安静にしていれば日常生活も問題ありませんでした。
薬を変えてからは、朝から昼にかけてはまだ良いものの、夕方以降はすごくつらそうで、食欲もありません。それでも、薬を飲まなければならないので、野菜とフルーツだけ食べ、お風呂に入ったら19時過ぎには寝る、という日が続くようになりました。
激しい身体の痛み
今年の2月頃から、妻はよく背中やお尻のあたりが痛いと口にしていました。そうは言っても、深刻そうではなく、冗談めいた口調で「いたーい!」と言う感じだったので、僕は、痛みがある部分をさすったり、知り合いのマッサージに行くことを勧めたり、お風呂にゆっくり浸からせたりしていました。
本人も、毎日息子を抱き上げるから筋肉痛になったかな?くらいに思っていたようですが、この痛みも、がんから来るものだったようです。痛みは背中全体に広がり、段々と強くなってきていました。
5月下旬 〜忘れられない3日間〜
引かない熱と痛み
5月24日(土)の夜から25日(日)の早朝にかけて、かねてからの熱と痛みがひどくなってしまいました。一晩中、横で苦しんでいる妻を見ながら、背中をさすり、痛いところに手を当てていましたが、本当にかわいそうで、僕自身本当につらかったです。
ただ、夜が明けると、ある程度落ち着いてきている様子でした。とはいえ、安静にしていた方が良いことに違いはないので、妻にゆっくり休むように伝え、息子を遊ばせることができる子育て支援センターに向かいました。
息子と一緒にこの施設に行くのは毎週恒例なので、いつものように、息子の様子を知りたがる妻に写真や動画を送り、「今はこんな感じで遊んでるよ」なんてやりとりをしながら過ごしました。
妻からは、15時45分くらいに「今からお風呂沸かして入るね」という連絡が入り、その後、僕たちも家に戻りました。
様子がおかしい妻
家に帰ってくると、メッセージのとおりお風呂に入っているようで、妻の姿は見えませんでした。脱衣所の外から「ただいま」と声をかけると、「うん」と返事があったので、ゆっくりお風呂に入ってるんだな、昨晩の影響はなさそうだなと思い、息子の相手をして過ごしていました。
それからしばらく経って、僕は「あれ?2時間近く風呂にいないか?」と気づき、急いで脱衣所に向かったんです。そこには、電気もつけずに裸でへたり込んでいる妻がいました。「大丈夫!?」と声をかけると「うん」という返事はしてくれます。ひとまず服を渡し、自分で着られるか聞きました。その問いにも「うん」と答えたので、一度脱衣所を離れました。
その後すぐにドライヤーの音が聞こえてきたこともあり「熱冷まししてたのかな?」と解釈したのですが、ガタガタッと大きい音が聞こえ、転んだのかと思い、また急いで脱衣所へ。ところが、単にドライヤーを落としただけのようで、妻は普通に髪を乾かしていました。再度「大丈夫?」と尋ねましたが、またしても「うん」と言います。
その後は気にして見守っていたのですが、ガチャッと脱衣所のドアが開き、妻はふらふらと寝室に歩いて行きました。ベッドに腰掛ける妻に、大丈夫か、ご飯食べるかなどといろいろ問いかけると「うん」または「ううん」という返事。普段から、妻は、しんどいときに無口になる方なので、「ああ、熱が相当しんどいんだろうな」と思いました。
寝ていたはずの妻がいない
その後、息子を寝かせてから夕食を食べ、自分も寝室へ向かいました。前日はあんなにも痛がっていた妻がすやすやと寝ていたので、僕は「薬が効いたのかな」と少し安心してしまいました。今思えば、その時、違和感に気づくべきだったんです。
深夜2時くらいにふと目を覚ますと、隣に妻がいません。あれ?と思って探しに行くと、トイレの電気がついていました。「大丈夫?」と声をかけると「うん」と返ってきましたが、その声は台所の方から聞こえました。
そして、台所で見つけたのは、暗闇に座り込んでいる妻の姿。正直、最初は寝ぼけているだけかと思い「どうしたの?ベッド行くよ」と声をかけました。妻はここでも「うん」と答えるものの、身体に力が入らず、うまく立つことができない様子でした。
虚ろな顔
慌てて電気をつけたときに目にしたのは、僕の背筋が凍るほどに、表情を失った妻の顔。このとき、ようやく「これは脳をやられてる」と察しました。
妻は、水が飲みたくて台所に来たものの、水の飲み方がわからなかったようです。コップを取ってほしそうにしているのですが、「あの、そこの、丸い……」と、言葉が出てきません。僕が水を飲ませても、口からあふれてしまう状態でした。
正直、そんな妻を見て僕は身体が震えましたし、腰が抜けてへたり込んでしまいそうでした。でも、ここで僕がおかしくなったら本当にまずいと思い、すぐに救急車を呼びました。
病院への救急搬送
病院に到着したのは、26日(月)の早朝4時。その時点での妻は、うまく喋れないものの、こちらの言っていることは理解している様子で、医師からの名前や誕生日といった質問に答えていました。しかし「今は何月何日ですか」という問いには「10月です」と回答。やっぱりこれはヤバいと思いました。
結果として、妻は脳梗塞を起こしていました。緊急手術です。
僕は、兵庫にいる妻の母に連絡をしました。また、息子を抱えて着の身着のままで家を出てきてしまったので、ミルクやおむつなども持ってきていません。妻の入院の用意など、必要な準備をするために一度家へ戻りました。
妻の母が病院に到着する頃に手術が終わり、改めて医師から説明を受けました。
現在〜回復を祈る日々〜
時間の許す限り妻のそばに
手術直後は、息子の名前を呼ぶ、「ここが痛い」「起き上がりたい」と訴えるなど、つたないながらも話すことができていた妻ですが、27日(火)から28日(水)にかけて、言葉を発することも難しくなってしまいました。現在は、指は動くし、目も開くのですが、左半身は動かない状態です。
身体に負担がかかるため、5月は抗がん剤をストップすることになりました。現在は、痛み止めの薬だけを投与しています。
病院からは、特別に24時間病室にいて良いという許可をいただいたので、朝から晩まで一緒にいます。ただ、どうしても息子を病室で寝かせることができないので、夜は家に戻る毎日です。
でも、きっと妻は毎晩目を覚まして「そうだ、私、動けなくなっちゃったんだ」「あと何時間、何日この状態なんだろう」と感じていると思います。できれば、そのタイミングで、怖がり屋さんな妻の手を握っていてあげたい。それが叶わないことが、本当にもどかしいです。
繰り返す自問自答
ここからは、僕の懺悔です。
どうして、もっと早く気づかなかったのか。どうして、もっと早く救ってあげられなかったのか。こんなに近くにいたのに。妻には、謝っても謝りきれません。
だって、気づくチャンスはめちゃくちゃあったんです。
「ただいま」に対する返事が「おかえり」じゃなかったこと。服も着ずに脱衣所で座り込んでいたこと。動きが鈍かったこと。イエス・ノーの返事しかできなかったこと。
なのに僕は、裸を見られるのは嫌だろうからと行動するのを躊躇ったり、自分でドライヤーを使い、立って歩いているから大丈夫だろうと思い込んだり、熱がつらいからだと解釈したり。暗闇で妻を見つけたときでさえ「朝になれば落ち着くか?」と思いもしました。
そして、僕は知っていました。抗がん剤治療で血栓ができやすくなることを。医師に説明を聞き、渡された文書でも読んでいたので「そういうことが起こるんだな」っていうのは頭にあったんです。あったのに、そこが全くつながりませんでした。
医師の説明によると、妻は2回脳梗塞を起こしたようです。1回目は25日の入浴のあたり。もう1回は、26日の深夜から未明。
最初のは防ぎようがありませんでしたが、もっと早くに病院に運んでいれば、8時間は早く手術ができたと思います。2回目を防ぐことも、進行を遅らせることもできたはずなんです。
なぜ、あの時、即動けなかったのか。こんなことを、この1週間で何十回と繰り返し考え、ずっと反省し続けています。
とめどない後悔
後悔していることは他にもあります。
まずは、以前から妻が口にしていた背中の痛み。主治医の先生に「奥様は相当痛かったと思います」と言われました。僕が、ちょっと痛いくらいだと思えていたのは、ただ、妻が痛みに耐えていただけだったんです。僕はそんなことにも気づいてあげられませんでした。
そして、今年の2月には、医師から最期を迎える場所を選ぶことを勧められていました。それはそうだなと思いつつも、最期が来ることを信じたくなくて、先延ばしにしていたんです。
もちろん、妻にどうしたいか聞きながら、二人で話はしていました。でも、妻だって簡単に選べるわけないんだから、僕が「関西に帰る」と決断していれば良かったんです。
そうしていれば、こんな病室じゃなく、思い出が詰まった実家で療養できたかもしれません。今は、長距離移動が難しい状態なので、もはや叶わないことです。
さらに遡れば、もっと早くに子どもを設けていたらとも思います。妻は、年齢のことも考え、結婚後、早い段階から子どもをほしがっていました。でも、僕は、二人で過ごす時間がすごく好きだった。
結果として、妊娠するタイミングと、がんになるタイミングが重なって、発見が遅れてしまいました。もっと早く子どもができていれば、健康診断に行って、ステージが進む前にがんに気づけていたかもしれません。
こんなふうに「あのときこうしていれば」という後悔は山ほど出てきます。でも、今さらどうしようもないんです。
「忘れないこと」と「活かすこと」
二度と忘れられない記憶
先生からは「ベストなことをしたと思う。これ以上どうしようもなかった」と言われました。でも、おそらく僕は、どれだけ気休めの言葉をかけていただいても、この先ずっと反省しながら生きていくと思います。
人は、辛いことをいつまでも鮮明に覚えていたら前に進めません。辛いことを忘れることで、前向きに生きていけるのだと思います。
ただ、絶対に忘れてはいけないこともあると思うんです。僕にとってのそれは、あの時に見た妻の表情。今後の自分への戒めです。
やっぱり、もうあんな顔は見たくないし、あんな目をさせたくない。
だからこそ、あの時どうするべきだったのか、次はどうするべきかを考え続け、僕自身に、そして、他の人にも活かせるようにアウトプットしたいと思います。
最悪の事態を想定する
まずは「知っていること」と「行動できること」は別だということです。当たり前のようなことですが、いざとなって改めて思いました。
小学生の時に、地震や火事を想定した避難訓練を何度もしましたが、本当にそれが起こった時のことを想像すると、なかなか身体は動かせない気がします。
それと同じで、僕は、血栓ができやすいことを知っていたにも関わらず、妻の状態と脳梗塞の可能性を全くつなげられませんでした。一刻も早く救急車を呼ぶという判断ができなかったんです。
僕は、理解はしていたものの、想像力がすごく低かったのだと思います。「今はこういう状況だから、何かが起きるかもしれない」「こういうことが起きたら、僕はこんな行動をしよう」と、自分の中でシミュレーションしておくべきでした。
それをできなかったことが、今回こういう結果を招いたのだと思います。
最悪の事態に向けて準備する
今までは、最悪の事態になってほしくないがゆえに、その準備を怠っていました。関西への引っ越しもその一つです。
でも、今回のことを経て、「信じること」と「準備しないこと」はやっぱり別だと思い直しました。今は、最悪の事態に向けて準備をしていたら、最悪の結果にならずに済むのではないかと考えています。
なので、今まではあまり病気のことを伝えていなかった、妻の会社や友人の方々への連絡を始めました。もしかしたら、妻は言いたくなかったかもしれませんが、ここで、僕が妻を尊重すると言って、最悪の事態が起きてからみんなが知ることになるのは、やっぱり良くないんじゃないかと思うんです。
このことに限らず、今後は、妻に「こうするよ」と伝えつつ、いろいろな動きをしていくことになると思います。
これからの希望
まだまだ回復の見込みはある
術後の1週間は状態が悪くなる一方で、医師からも「日単位、週単位でいつどうなるかわからないかもしれません」と言われました。僕は、病室に来ては妻に泣きながら話しかける毎日を過ごすばかりでした。
でも、突然の事故や病気で大切な人を亡くすこともある中、今、僕たちは一緒の時間を過ごすことができているので、すごく幸せです。こうして家族一緒に過ごす時間ができる限り続いてほしいと願い、妻のリハビリに取り組み続けました。
そうして過ごしているうちに、最近では、妻が「おはよう」「バイバイ」と、口ごもりながらも返事をしてくれるようになったんです。表情もすごく良くなってきました。僕は「ここから絶対に良くなる」と信じています。
妻に怒られたい
妻は今、自由に動くことも喋ることもできないので、すごく辛いと思います。でも、医師から「絶対に耳は聞こえてるから」と言われたので、できる限り妻に話しかけることにしました。
せっかくなら、記憶に残りやすい話がいいと思ったので、ロマンチックに、僕らの出会いから、付き合って結婚するまでのことを。そして、今まで妻に内緒にしていたことも話しました。
僕らの結婚記念日は、僕が忘れないようにと、妻の誕生日にしようと決めていました。当日、二人で一緒にUSJに行き、帰りに近くの区役所で婚姻届を提出したんです。
ところが、次の日に区役所から電話がかかってきました。「旦那さんの本籍が登録してあるものと違います。なので、婚姻届を受理できていません」と。
僕は、その翌日、慌てて区役所に行って出し直しました。そこでようやく受理されたので、実は、僕たちが入籍した日は妻の誕生日の2日後なんです。
これは完全に僕のポカなので、絶対に怒られると思い、今まで言っていませんでした。もし妻が起きたら「おいっ!」って突っ込んでほしいなと思っています。
最後まで読んでくださった皆様へ
妻が病院に運ばれてから、僕はずっと同じことを頭の中で繰り返し考え続けています。でも、このまま考え続けて頭がおかしくなり、僕まで倒れてしまうわけにはいきません。
ここで全部を吐き出すことが僕が冷静になるための手段だし、二度と同じような後悔をしないためにも形に残しておこうと思い、今回のnoteを書きました。
当面は家族を100%優先するのでご迷惑をおかけすると思いますが、何卒ご容赦ください。そして、心の中から妻にエールを送ってもらえると嬉しいです。これからも、堀内家をどうぞよろしくお願いします!
★メンバーを募集しています★
今回はプライベートの話が中心になりましたが、僕が代表を務める株式会社シンシア・ハートは、おかげさまで5月末で第3期を終了し、6月から第4期を迎えました。
当社の掲げるビジョンは「全世代がときめくAgelessな社会をつくる」こと。年齢に関係なく、全ての人が自分の未来に期待し、今を生きること、明日が来ることにときめくことができる社会をつくるため、全力を尽くしていきます。
そんな当社では、現在創業メンバーを募集中です。COO候補をはじめ、キャリアアドバイザーや求人ライターなどさまざまなポジションがあり、副業やフルリモートといった働き方も選べます。
当社のビジョンや僕自身の生き方、思いに共感してくれる方がいらっしゃったら、以下のWantedlyからご連絡ください。Wantedlyに掲載している以外にも協力いただきたい業務はたくさんありますので、まずはカジュアルにお話ししましょう!ご連絡お待ちしています。