職人の伝統技術×経営の効率化で、100年後も残り愛される店へ。親子2代で挑む、新しい寿司屋の形【株式会社アミノ代表取締役インタビュー 〜前編〜】
宮城県を中心に、各地で高い人気を誇る「うまい鮨勘」をご存知でしょうか。
豊かな漁場として知られる三陸沖に面した宮城県で、舌の肥えた地元の人々をうならせ続ける、寿司チェーンです。
石巻市内の小さな寿司屋として産声をあげ、1997年に「うまい鮨勘」の1号店を仙台市内でOPEN。おかげさまで、2020年現在では国内外に30店もの回転寿司・寿司料理店をかまえるグループへと成長することができました。
その裏側には、どのような歴史や背景があるのでしょうか。
当社のことをより多くの方へ知っていただくため、「うまい鮨勘」を運営する私たち株式会社アミノの代表取締役・上野敏史(以下、上野社長)へインタビュー。
前編では、上野社長が現在の役職に就任するまでの経緯をお聞きました。
家族を養うために24歳で入社。厳しい父の元、経営者としての研鑽を積む
創業者である父・上野高正からバトンを託され、2012年に31歳の若さでアミノグループを率いるリーダーとなった上野社長。
「傍(はた)楽(らく)仲間の成長と幸せを通じて、社会と地球が喜ぶことに貢献します」という企業理念を掲げ、先代が築いたアミノグループをさらに進化させるべく、日々取り組んでいます。
社長就任にいたるまで、どのような道を歩んできたのでしょうか。
「私は生まれた時から寿司屋の息子。家は生活の場であると共にお客さまが出入りする店舗でした。
家族や生活と商売は常にとなり合わせの環境。『仕事は家族のためにするもの』と思っていました。こうした原体験は、今も私の仕事観に大きく影響していますね
また、職人であり経営者である父は、私にとってもっとも恐れ、尊敬する存在。
家でも常に敬語を使っていましたし、今もそれは変わりません(笑)」
そんな環境で育った上野社長ですが、「自分もゆくゆくは寿司屋に」という考えは、意外にもまったくなかった、と屈託のない笑顔で語ります。
入社のきっかけは、24歳での結婚。家族を養う身となり、アミノグループの門戸を叩いたのだそうです。
「もともとの入社理由は、家族を養えるだけの仕事に就き、自分にとって理想の家庭を築くこと。父の後を継いで経営者になりたいとか、そんな考えはありませんでした。
しかし、父は厳しい人ですので『社長の息子という目で見られているんだから、人の2倍働いて当たり前、3倍働いてやっと他の社員に認めてもらえると思いなさい』と教えられ、気がつくと私は仕事にのめり込んでいきました」
入社してからは、傍目にもハードな下積みの日々。
職人ではなかった上野社長ですが、仕入れの知識を身につけるため朝4時に起き、5時から市場に買い付けへ。そのまま店舗へ出勤し、夜9時ごろまでホールとして働きます。
帰宅して雑務などを終えると寝るのは0時頃、睡眠時間は3〜4時間ほどだったといいます。
また、先代社長はあえて、上野社長に寿司職人としての経験は積ませなかったのだそうです。その理由について、上野社長は次のように語ります。
「当時、職人の世界では、『職人としての技術がある者が強い』という暗黙のルールのようなものがありました。
父は自身がカリスマ的な寿司職人であり、経営者。その技術と経営手腕で職人たちをまとめていましたが、同じように技術も経営力も兼ね備えた人材というのはそうはいません。
父は企業として次のステップへ行くために、『寿司職人ではない経営者が必要になる』と確信し、あえて私を職人にはしなかったのです。
代わりに私は、経営の勉強会などに積極的に参加し、経営者としての心や考え方を磨くことに力を注いできました」
中でも上野社長が時間を割いたのは、長く経験を積んでこられた経営者の先輩方から話を聞き、言葉の中から学ぶこと。
先人たちが長い時間をかけて導き出した知恵の中から、若い自分にないものを吸収し、現在の経営哲学・考え方を築き上げていったといいます。
早朝から深夜に及ぶ寿司屋としての仕事と、経営者としての学び。
その積み重ねが、今の上野社長の礎となっているのでしょう。
3.11の大震災をきっかけに事業承継。その背景にあった想いとは
入社以来、連日地道な下積みを続けていた上野社長。
しかし、先代社長はなかなか上野社長を経営陣に加えませんでした。
「これは後から聞いた話ですが、当時周りの取締役たちは『息子さんが入社してくれたのだから、経営陣に入れるべき』と言ってくれていたそうです。
しかし父は、頑なに『まだ早い』とそれを断り続けていました。
私に対しても『従業員に認めてもらえない限りは社長にはしない』と断言していました。
その結果、私の出世スピードは、社内でも異例なほど遅かった(笑)」
しかし、2011年3月11日に起きた東日本大震災をきっかけに、事態は急変します。
アミノグループ本拠地である宮城県はもちろん、地震と津波、原子力発電所の件により東北エリアの店舗はいずれも甚大な被害を受けたのでした。
「あの震災は、良くも悪くも人の心が大きく動かされた出来事。
私たちは震災発生から1か月の間、プロパンガスや店の器具を用いて、地元の方々のため炊き出しを毎日行っていました。
本部が東北にある飲食企業が少ないこともあり、営業や炊き出しを早期に再開できる飲食店は少なかった。だからこそ自分たちが、地域のためにできることをしなくては、という想いからでした。
結果的にアミノグループも地域の方から助けていただき、震災を経て売上はむしろ上昇していきました」
「そんな大きな変化のとき、父はあえて社長のポジションを私に譲る決断をしました。
私はまだ30歳。父はまだ50代で、経営者として脂が乗っている時期です。
父は先見の明がある人。まだまだ自分も仕事ができて、息子の私も考えや人間性が固まっておらず柔軟で、良くも悪くも大きな変化の最中に社長をゆずるのがベストだと考えたのでしょう」
また、早くから積極的に地域の人々のために炊き出しなどを行っていたことから、アミノグループと地元・宮城の人々の間にはこれまで以上の絆が生まれていました。
震災を経て、社員や関係者、地元の人々と共に次のアミノグループへ進化する。
社長交代は、そのための第一歩だったのかもしれません。
また、先代社長の背中を押した要因の1つとして、ある監査法人の先生からもらった次のような言葉もあったのだとか。
“あなたの人生は外から見ると数々の奇跡が重なってできている。
1つめは、飲食業という領域で、しかも10数年で年商50億まで届いたこと。
それも寿司屋という板前、技術職が必要な業態でこれは非常に珍しい。
2つめは、長年公私ともに支えてくれる奥さんがいたこと。
3つめは、健康な長男を授かり、その長男が入社してくれていること。
これだけ奇跡が重なった人生ですから、もう1つくらい奇跡を信じてもいいのではないですか”
「初めは家族のために入社した私ですが、父の想いと周囲からの後押し、会社や社員への責任感から、アミノグループの社長という大役を引き受ける決心を固めました」
結婚を機に父の会社へ就職し、ハードな下積み時代を経験。
震災を経て、30歳という若さで年商50億円にもおよぶ企業を率いる立場となった上野社長。
「初めは社長になる気はなかったんですけどね」「私には職人のセンスはなかったので、経営の勉強を頑張りました」と、終始飾らない言葉でインタビューに応えていました。
しかしその言葉の節々から、地道な努力を感じます。
後編では、社長就任後の改革と、アミノグループが目指す未来についてお聞きします。
ぜひお読みください。