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地域共生のまちづくりとは。鞆の浦・さくらホームと代表・羽田冨美江さんの歩み

広島県福山市にある鞆の浦は、瀬戸内海のほぼ中央に位置する昔から「潮待ち」として栄えた港町です。江戸時代から続くどこか懐かしい雰囲気が漂う古い町並みには、約3,800人(2020年時点)の人が暮らしています。地元の人は鞆の浦のことを「鞆(とも)」と呼んでいます。

そんな鞆の中心部にある介護事業所「さくらホーム(運営:有限会社 親和)」は、地域共生社会の実現を目指し、2004年から活動を続けてきました。

今回は、さくらホームの創設者であり理学療法士の羽田冨美江さんに、さくらホームができるまでのお話や、出来てからの地域とのあゆみ、また大切にされている想いについて伺ってみたいと思います。


■ 羽田冨美江 / 有限会社親和 代表取締役 / 理学療法士、介護支援専門員、認知症介護指導者
1956年兵庫県相生市生まれ。病院や施設に理学療法士として勤務した後、2004年4月に鞆の浦・さくらホームを開所。現在は、地域密着型デイサービス、小規模多機能サービス、居宅介護支援事業、放課後等デイサービスのほか、駄菓子屋、お宿&つどいの場等を運営。全国各地での講演活動も精力的に行っている。




さくらホームが生まれた原点

ーー 兵庫県出身の羽田さんが、広島県の鞆の浦にさくらホームを作ることとなったきっかけを教えてください。

きっかけは、義父の介護を経験したことにあります。

私は、結婚を機に鞆(鞆の浦)に移住してきました。当時23歳、人と人との距離が近い、なんだか狭い町になかなか馴染むことができず、職場は自宅から離れた町の病院まで通っていました。

そんなある日、義父が脳梗塞で倒れました。半身麻痺の状態でしたが、本人の「鞆にある自分の家に帰りたい」という想いを尊重し、自宅で介護生活を送ることになります。当時、私が38歳の時でした。


ーー 理学療法士として活躍されてきた経験から、お義父様の介護やリハビリに関しては特別な想いがあったのではないですか?

そうですね、要所要所で私の理学療法士としてのプライドが掻き立てられましたが、心が折れそうになったことも何度かあります。

ある日、義父が「行きつけの居酒屋に顔を出したい」というので一緒に行ったところ、かつての飲み仲間から憐みの目を向けられ、以降、義父は引きこもりとなってしまいました。特別扱いされたことで、自分の居場所がなくなったのです。

私がいくら外出やリハビリをすすめても、言うことを聞いてはもらえません。当然、私の専門職としてのプライドも傷つき、途方にくれていました。

そんなある日、近所でお祭りがあったので一緒に出かけました。久しぶりに地域の人と話したりビールを飲んだりする中で、義父は自分の居場所を次第に取り戻していきます。そして、帰る頃には以前のような生き生きとした姿に変わっていたんです。その後は自ら地域に戻ることを望み、リハビリに励むようになりました。

この時に初めて、支援が必要な人が地域で暮らすためには、住民に受け入れてもらうことが必要だということに気がつきました。

そして、鞆にある築300年の商家が取り壊されるのを耳にしたのをきっかけに、この商家と街並みを守るために介護施設として再生させることを決意。多くの方の協力を得て、2004年にさくらホームを開所しました。



さくらホームと鞆の町

ーー さくらホームが掲げる「ノーマライゼーション(=高齢者や障がい者も、そうでない人と同じように日常生活を送れる社会を実現する)・地域共生のまち」。今でこそ、人と人とを繋ぐハブ的存在、そして地域共生を実現した介護事業所として名が知られていますが、開所当時から現在までの期間で、多くの試練もあったのではないでしょうか。

そうですね、開所当初は住民の理解を得るのに時間がかかりました。当時は認知症グループホームとデイサービスから始めたのですが、利用者さんと町で散歩や買い物をしていると「あんな状態の人を歩かせていいんか」「見せ物にするんか」などの声が聞かれました。

認知症高齢者を受け入れる意識も乏しく、どれだけ必要性や熱意を伝えても怒鳴られることもしばしばありました。

最初の5年は無関心との闘い、5年が過ぎると徐々に変化が見えてきて、10年経った頃には明らかに町の人の意識が変わっているのが分かりました。

そして、15年を迎えた今は、住民の皆さんと一緒に地域で共に暮らす豊かさを感じることができています。地域の力が高まり、「地域共生」のまちづくりを地域の人たちと一緒に進めているという感覚です。


ーー鞆の町を、そして鞆の人を想い、やっとのことで立ち上げた事業を受け入れてもらえない場面は、想像しただけでもとても胸が苦しくなります。当時の羽田さんは、そのような状況で何を感じ、どのように乗り越えてこられたのでしょうか。

もちろん、最初の頃は悔しくて悔しくてたまりませんでした。枕を濡らした日もあります。しかしそれは、私の中に「この町のためにしてあげている」という支援側の意識が少なからずあったからかもしれません。

私は、地域共生のまちづくりを行うという明確な目的を持っていました。このぶれない軸があったからこそ、乗り越えられたと思っています。

義父のような支援が必要な人が町で受け入れてもらえるようになるには地域共生のまちづくりが必要不可欠であり、そのためには時間をかけてみんなに分かってもらうしかないのです。とにかく、軸を持って行動し続けました。


これからもずっと、地域と共に

ーー これからも地域と共に歩み続けるために、羽田さんが大切にしていることを教えて下さい。

私は鞆で18年間さくらホームを運営してきて、分かったことがあります。それは、行動し続けることで、地域の人の意識は確実に変わるということです。

私は、開所して1年が過ぎようとした頃、くも膜下出血で倒れました。1ヶ月間はほとんど体を動かすことができず、半身麻痺となったのです。それでも、様々な人の支えのおかげてリハビリにも励むことができ、杖で歩けるまで回復しました。

退院してから、障がい者となった私は杖をついて町を歩きました。自らが町に出ることで、住民の「受け入れる意識」が育まれると思ったからです。

足を引きずりながら歩く私を、地域の人ははじめは遠くから見ていました。しかし、次第に「歩き方よくなってきたな」とか「うちで休んでいき」と声をかけてくれるようになりました。

行動し続けることで、地域の人の意識は少しずつ変わっていくのです。

私はこれからも、住民の皆さんと一緒に、地域で共に暮らす豊かさを感じながら過ごしていきたいと思います。




以上、今回は、さくらホームの代表・羽田冨美江さんに、さくらホームの地域と共に歩んできたストーリーと大切にされている想いについて伺いました。

冨美江さんの素敵な想いが、少しでも多くの方に届きますように。

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