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茂呂製作所のはじまり ~製作所のルーツをひも解く~


茂呂製作所は、現在の茂呂哲也社長が2011年に先代から経営を引き継ぎ、今年で57年目となります。

クライアントには、山梨県を代表する企業、産業用ロボットメーカーF社をはじめ、パナソニックなど数多くの企業がいます。

F社はロボット系統のモーター製造に関して世界シェア70%を占める、世界4大産業用ロボットメーカーの1つとされる国内屈指の優良企業として名高い企業です。F社は茂呂製作所の技術を高く評価し、茂呂製作所に治工具製造を多数任せてくださっています。

茂呂社長:よく大手企業様から「メーカーの人間でもないのにこの機械を直せるのか」と思われることは多いのですが、私たちからしてみれば誰かが造った機械なのだから「私たちにだって蓋を開けてみれば分かる」という自信がありました。この茂呂製作所の技術者にとっては「当たり前」とされている高い技術力と、真摯にモノづくり企業の課題を解決し続けてきた実績と信頼の積み重ねが、同社の何よりの強みです。

年々従業員も増え、海外にも拠点を持つ茂呂製作所ですが、最初は家内工業規模の小さな製作所でした。はたして、その高水準な技術力のルーツはどこにあるのか、茂呂製作所の始まりについて社長に教えてもらいました。



茂呂製作所のはじまり

始まりは茂呂社長の祖父、丙二さんまでさかのぼります。丙二さんは生前、「モロヘイニッポン」という会社を作り、製造業を営んでいました。


茂呂社長:これはモロヘイニッポンが営まれていた当時、戦時中の封筒なんですが、会社の屋号の前の何をやってるかっていうところの一番最初に『兵器』ってあるんです。ちょっと怖いですよね。当時、鉄砲の弾とか大砲の弾とかを旋削(せっさく)で作っていたと祖母から聞いています。そして東京で空襲があったことをきっかけに、山梨に疎開してきました。

私の先代(茂呂社長の父)が17 歳の時に丙二さんが亡くなって、食べていくのに困ったから祖母と先代である父は遺された道具で、当時山梨県内で工業として盛んだった宝石の加工に用いる治工具を製造する仕事を始めました。

しかしそれだけでは家族を養っていくことができず、先代は山梨県の産業の特性に着目して、果樹園で使われている地下水をくみ上げる水中ポンプを修理する事業も新たに始めます。

従来ポンプが故障すると東京からメーカーの技術者を呼んで修理をしてもらう必要があり、来るまでに時間がかかるうえに、水が止まっている間に樹木が枯れてしまうこともありました。そこの修理の需要に先代は目を付けたのです。

最初はメーカーの純正部品を使って修理していたものの、緊急時には旋盤で必要な部品を自作して対応するまでになりました。その後、茂呂社長が生まれた1971年を過ぎる頃まで、6人程度の家内工業規模で事業を営んでいました。



作り手の血

茂呂社長:茂呂製作所のルーツを調べてみたら、嘘か本当か分からないですが茂呂家の前身は滋賀県で鎧を作ってたかもしれないと分かりました。そこで、そもそもうちはものづくりの家系なんだと思いました。

茂呂家のルーツとして現在、本家は栃木県になり、「モノづくり」か「教職」についている人がほとんどのようです。私のひいおじいさんは自由奔放な方でモノ作りが好きな学校の先生だと聞かされました。そんなことからも、モノづくりが好きであり時に”お節介”なくらい人の成長に携わることが好きな家系なようです。



継ぐ気のなかった茂呂社長

今や茂呂製作所の社長として事業を進め、従業員を引っ張り、新たなことに挑戦している茂呂社長ですが、製作所を継ぐことがずっと嫌だったのだとか。

茂呂社長:父親は「いつも居ない人」でした。そんな父親を好きになるはずもなく、それが理由だったか定かではないのですが、「あんな苦労をして報われそうにないことは自分はしたくない」と会社を継ぐなんて考えられないでいました。

21歳で結婚した時も奥さんの家族と同居し、苗字を変えるつもりでもありましたが、なぜかそれには猛反対されたことを覚えています。いつも「やってみろ」「そういう経験も必要だぞ」と言ってくれていた父親の否定意見はあれが最初で最後でした。

しかし学歴も何の取り得もない私は父親に頼るしかなく、父のコネで松下電器のグループ会社で修行させていただいたりしましたが、結局茂呂製作所に入社しました。



父の事業を受け継ぐ決意

茂呂社長:まずは技術者になろう!と訓練していたのですが、お客様からの要望もあり「技術のことは中途半場だが知っているものを活用して技術営業を担当していこう」と飛び込み営業もして顧客拡大に走り回りました。

とはいえ、当時はまだ事業を継ぐことは考えておらず、継いで苦労するのは嫌だな、とずっと思っていました。それは父にも話していて納得してくれている雰囲気でしたが、周囲から「親父は本当は継いで欲しいと思っているよ」とも聞かされていました。

自分は他の経営者のように大学で経済や経営を学んでいるわけでもない。だからどうしようかと悩みながら仕事を続けていたのですが、その気持ちを変える1つのきっかけがあったのです。

35歳くらいの時、ある経営者研修に参加した時に「親への感謝」の話になった。

それで、自分は今まで紆余曲折があったけれど、その度に父が懐深く受け入れてくれたじゃないか、と気づくことができたんです。そのとき、「父の会社を守り伝えよう」と、会社経営への意欲が湧いてきました。

経営の面でやりたいことが増えていたのも後押しになり、自分が経営を指揮していきたい、と考えるようになったことから、41歳の時に「自分が継ぐよ」と伝えました。そして先代も「お前にやってほしい」と言ってくれたのです。



成長を続ける茂呂製作所

祖父から始まり、先代の作った会社を引き継いで9年目には年商は3倍、社員も2倍にまで成長しました。現在は、オンラインでの相談・機械修理といった新たな取り組みや、海外からの留学生や研修生の受け入れ、インターンシップなどの若手育成など、さまざまなことに挑戦しています。

茂呂製作所は挑戦、成長を止めることなくこれからも進んでいきます。

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