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新卒ブログ|国際機関への憧れから社会起業に行き着いた理由

※2022年4月入社時の内容です

皆さん初めまして。東南アジアの子どもの貧困問題に取り組むためにボーダレス・ジャパンにジョインしました。御田麻友と申します。
この度は、記事をのぞいていただき、ありがとうございます!

私は、東南アジアの子どもの貧困の中でも、フィリピン・セブ島のシングルマザー家庭の子どもが、母親の不安定な収入が原因で、義務教育を終えずに働き始めるため、貧困の連鎖から抜け出せないという課題に取り組みたいと考えております。

現在は、20−30代のフィリピン人富裕層・中間層と観光客に向けた、現地の伝統繊維であるバナナ繊維(jusi)と藍染め・草木染めを掛け合わせた製品の製造で雇用を生み出そうとプランニング中です。

フィリピン・セブ島は私にとって、志をくれた土地であり、私にポジティブなパワーをくれる人達のいる、思い入れの強い場所の1つです。そのため、東南アジアという広いエリアの中でセブ島で事業を始めようと考えています。


(都市部の貧困層が暮らすエリアの1つ)

<目次>
1.大好きなフィリピンとの出会い
2.国際機関の憧れから社会起業家へ行き着いた訳
3.再びフィリピンへ、そして即起業という思いが芽生える
4.ソーシャルビジネスで、ボーダレスで、挑むわけ
5.最後に

1.大好きなフィリピンとの出会い

皆さんはフィリピン・セブ島と聞いてどんな想像しますか?そもそもどこだよ!って方もいらっしゃるかもしれません。

私がフィリピンに初めて訪れたのは、小学校2年生の時でした。
その際に、車に乗っていた私たちに、当時の私と同い年くらいの子ども達が物乞いをしてきました。お金を求める彼らに対して、キャンディーをあげる両親や叔父叔母達。
(ちなみに、物乞いの子ども達がきた際にあげるように車にはいつもキャンディーが積まれていました)

そして「お金をあげてはいけないよ」「裏には大人がいる」「彼らのためにならないから」という父達の言葉が当時の私には理解できませんでした。困っている人がいるのに、なぜ助けてはいけないの?と戸惑い、、、同時に同い年くらいの子ども達が、兄弟や家族のためにお金を稼いでいるという現状に衝撃を受けました。

一方で、父の会社の工場があったり、叔父叔母が住んでいるフィリピンに何度も訪れ、日本でもフィリピンの方々と接する機会が多々あった私は、彼らの家族を大切にする姿勢やポジティブで陽気な人柄に接する中で、フィリピンという国と人が大好きになっていました。
小学校の家庭科の課題で好きなテーマでポーチを作る時に、フィリピンの国旗のポーチを作ったほどです笑

2.国際機関への憧れから社会起業に行き着いた訳

そんな私は、中学・高校に上がると国際機関で働く方や国際協力を仕事にされてらっしゃる方々のお話を聞く機会が多くなりました。加えて、授業でも社会問題や国際社会の勉強を行う中で、私も国際協力を仕事に国際機関で働き、社会の課題を解決できる人になりたいと考えるようになりました。

そして、国際学部への進学を決め、大学に入学しました。

大学に入学したら現場に行く!と決めていた私は、とにかく様々な東南アジアの国にいきました。


(カンボジアでのインターンで営業中の1枚)

長期休みには、マレーシアでのフィールドワーク、タイへの旅、カンボジアでのビジネス立ち上げインターン、フィリピンでのボランティアなどを行いました。現場を見に行くと同時に、授業でソーシャルビジネスをされている方のお話を聞き、これが私のアプローチしたい方法かもしれない!と考えるようになっていました。しかし、「ビジネス」というものを全く想像をすることができなかった私は、とりあえず経験してみるしかない!と考え、講演会に参加した際に見つけたカンボジアでの事業立ち上げインターンに参加。2日間でマーケット調査から場所の確保など全てをチームで行い、3日目に実際に営業し、売上の利益は全てカンボジアの子ども達に使われるという内容。私の将来像と類似していたため、即申し込みを決めました。

結果は利益を出すことができず赤字。この経験から、このままでは「誰も幸せにすることができない」と感じ、自分の無知に失望した私は、マーケティングの大切さを痛感し、商学部マーケティング学科の履修を開始。と、同時に実践が足りないと感じていたため、経営サークルにも所属しました。

3.再びフィリピンへ、そして即起業という思いが芽生える

2年の夏、原点であるフィリピンを再度訪問。そこで目にしたのは、大きな組織が立てたプラントが始動から1週間も経たずして使われなくなった現場。

現地のニーズとの不一致に違和感を覚える機会が増えていき「起業」という選択肢が私の中で大きくなっていました。と同時に、絶対フィリピンに帰ってきたい、ここが私の道だ。と再認識する機会にもなりました。


(ここに戻ってくると思わせてくれたフィリピンの子ども達との1枚)

そして、東南アジアを将来のフィールドにするのであれば、長く住み「東南アジア」を理解しなければいけないと考えていた私は、大学2年の春からマレーシアに留学。この頃には、将来は社会起業家として「東南アジアの子どもの貧困解決」に取り組むと志が明確になっていました。一方で、国際協力のキャリアを通るのか、企業で働く経験を積むのかなど葛藤していました。

マレーシアでは、交換留学生として「東南アジア研究」を中心に学問を学び、寮生活や周辺国への旅に出た他、現地NGOでのインターンシップやボランティアをしていました。留学前はまだ国際機関やNPO/NGOで働くことへの憧れも捨てきれていなかった私は、それぞれの役割を理解するために、NGOでのインターンシップという選択をしました。NGOでは貧困の子ども達が通ってくる学校でteaching assistant業務をメインに、日々子どもと接していました。

活動をし子ども達と接する中で、ふと「私が5年後10年後、力をつけて起業しても今目の前にいる子ども達は成人してしまう。この子達の選択肢は増やせないな」と感じた瞬間がありました。この時「今最短でやれる方法を探さなくてはいけないのでは?」という思いが芽生え、悠長なことを言ってる場合ではない!と感じました。

マレーシアでの経験と一生ものの友人達との出会いは、私の志をさらに色濃くしたと感じています。


(マレーシアでの1枚)

4.ソーシャルビジネスで、ボーダレスで、挑むわけ

様々な変遷と共に、変化してきた私がソーシャルビジネスで「東南アジアの子どもの貧困」に取り組む理由は2つです。
1つは、私がどのように関わりたいかという視点です。国際機関等の国際協力の方法ももちろん素晴らしいものだと思います。一方で、もっと現場の近くで一緒に活動していきたいという思いと、最弱者であるローカルの人達のニーズにあった方法で、自立を促したいという思いが現場を訪れる中で、私の中に強く残りました。
2つ目は、NPO/NGOでは、資金を本当に「今」必要な場所に自由に使えないというジレンマや継続性を考えた際に、自分で資金を生み出したいと考えたからです。より多くの人達に、持続的にインパクトを出したいと考えた際に、ビジネスというアプローチに行き着きました。

そんな私が、ボーダレス・ジャパンで取り組む理由は、最短で実現したい社会へのインパクトを起こせると思ったからです。
元々は、国際機関で働く経験をした後での起業や一般企業に就職しビジネススキルを身につけてからの起業という選択肢も考えていました。しかし、マレーシアでインターン経験から、1年1日1時間でも早くインパクトを出せる人にならなくてはいけない!と考えるようになったことが今の選択に大きく影響しています。

加えて、マレーシア帰国後、現場を知り理解を深めたため次は、ビジネスを学ぶ時だ!と考え、ビジネスインターンを経験。しかし、確かにマーケティングや業務への姿勢、学ぶことは多かったですが、会社の中で働いていても起業できるイメージが全然想像できませんでした。そんな中、起業家としてビジネスを学ぶことができるボーダレスの採用ページや会社文化をみてここしかない!と思い選考を受けました。

その他にも、ボーダレスの恩送りのシステムを読んだ際に入社したいという思いが強くなりました。関心度は違えど、私自身がたくさんの社会課題に関心があるため、自分が黒字化し余剰利益を出した際には、その資金を他の事業立ち上げに使うことで、間接的に他の社会課題にも貢献できるシステムに感激しました。

5.最後

自分の信じた道を突き進むことができる環境、サポートしてくださる全ての方々がいらっしゃることを有り難く思います。
今は足りないことばかりで悔しい、もどかしいことがばかりですが、ひたむきに努力し、1日でも早く社会に還元できる人に成長できるよう、必要なことは全て行なっていきたいと思います。


(カンボジアの子ども達と)

最後までお読みいただき、ありがとうございます。
1日でも早く「貧しいを理由に何かを諦めない」人が増える社会になるよう精進して参りますので、見守っていただけますと幸いです!

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