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息子、娘婿、娘、社員….. 後継者は誰が最適か

会社を良くする社長学

息子、娘婿、娘、社員….. 後継者は誰が最適か

広島同友会代表理事でタテイシ広美社会長の立石克昭氏もその一人だ。立石氏は高校を出ると、大阪で看板職人の修業をして帰郷、77年に地元府中市で起業した。24歳のときのこと。しかし当初は仕事が全くなく、夫人と2人で塗装の仕事で糊口をしのいだ時期さえあった。そうした苦闘期を乗り越え、小型から大型まで、屋内外の看板製作へと事業を拡大、さらに30年前、たまたまLED電光掲示板を手掛けることになり、手痛い失敗もあったが発注主の支援などで乗り越え、「町の看板屋」からデジタルサイネージ(デジタル技術を用いた看板分野)へ進出。同社は今やこの分野では大手も一目置く存在だ。

 身―つで創業し売上高10億円(17年度)にまで会社を育て上げただけに、立石氏はアグレッシプであると同時に、目端も利く。それは後継者問題においてもいかんなく発揮された。立石氏の長女は当時上海駐在中だったが、一時帰国中に生涯の伴侶を見つけた。 彼(現社長)は日本鋼管(現・JFEスチール)福山製鉄所に勤務中。長女とは友人の紹介で知り合った。その後、娘夫婦は横浜に移り住むが、安定したサラリーマン生活が約束されているだけに、娘は「お父さん、主人を自分の会社の跡継ぎにするなどと考えないでね」と釘をさすことを忘れなかった。だが、立石氏は折に触れ娘婿に「中小企業の経営者ほど面白いものはない」と繰り返し、自社の将来性を語るとともに、娘夫婦が帰郷した際には社員と交流する場を持った。

 中国留学の経験がある娘婿は、中国でのビジネスに携わることを強く希望し、凸版印刷へ転職、希望通り上海勤務となった。しかし希望した上海では80人程度の現地法人に出向、幹部社員として切り盛りを任された。それがきっかけで徐々に義父の言う中小企業経営の面白さを実感する。ちょうどその頃、娘婿が帰郷、社内の会合で立石氏は突然、娘婿が数年後には入社し、後を継いでくれることになったと報告する。次いで立った娘婿が、「社長になってさらにいい会社にしていくために全力を尽くします」と挨拶。娘婿はその場の雰囲気に胸を熱くし後継者になることを決意したのだという。社内は将来への安心と希望とでもいうべき空気に満たされた。事実、間もなくローンを組んで自宅を建てるという若手社員が相次いだ。「後継者がはっきりしたことで、社員も自社の将来を確信できたのだと思います」と立石氏は語る。

 娘婿、立石良典氏は13年にタテイシ広美社に入社、17年7月に40歳で社長に就任、18年7月には凸版印刷と共同で世界最高水準の高精細のLEDディスプレイを開発する一方、20年の東京オリンピック・パラリンピックに関連して、開催までの残り日数を示す「デイカウンター」をNECと都内自治体に納入。自動運転バス向けIOTバス停で自治体と実証実験を開始するなど、次世代看板への取り組みにも着手している。平均年齢30代半ばという社員たちは、自分たちとそう変わらない若手社長の就任で、いやがうえにもやる気が増しているようだ。

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