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哲学とコンピューターサイエンスが融合するまでの、JamRollプロダクトマネージャーはずむの「寄り道」:山崎 はずむ(Co-CEO)インタビュー
プロフィール
山崎 はずむ Co-CEO
東京生まれ。小学生からバスケットボールに親しみ高校までバスケ部に所属、主なポジションはポイントガード。経済的な理由から大学進学は難しいと家庭で言われる中、本や人との出会いを通じて得た「文化的なことを勉強したい」という思いを叶えるべく、当時の学費無料制度を活用し2005年に東京大学へ進学する。学部時代はリベラルアーツに取り組むことを目指し、図書館に籠って勉強する時代を経て、バンド活動に没頭する時期、掛け持ちのアルバイト勤務など、様々な寄り道を経験。2010年修士課程に進学。その後博士課程においてニューヨーク大学大学院に招聘研究員として留学する。帰国後スマートメディカル株式会社のインターンとして働き始め、さらに海外展開担当として就職。株式会社Empathがスマートメディカル社からスピンアウトし創業されると同時に移籍、2021年より同社の共同代表に就任。2022年にローンチしたプロダクト「JamRoll」プロダクトマネージャー。
はじめに
Empathは2022年にJamRollをリリースし、自分はCo-CEOそしてプロダクトマネージャーとして取り組んできました。これまであまり自身の話をする機会がなく、バックグラウンドを記すことはなかったと思います。少し長くなりますが、自分の持つ学問への興味・人文科学の知識、ビジネスへの取り組み、それに伴う想いや考えがどう発生してきたのかを順を追ってお話できればと思います。
学問への興味
家族の影響だったと思うのですが、小学生の頃はNBAが家で流れていたので、中継の英語の内容を理解したくて英語教室に通わせてもらったり、中学生になってからは近所のイギリス人のお兄さんに英会話を習いに行ったりしていました。彼を通して海外の音楽や文化に触れたり、小学生の時に一度だけ親戚にアメリカに連れて行ってもらったり、そういった体験からもっと広い世界を見たい、色々なことを勉強したいという気持ちが漠然としてあったのを覚えています。経済的な余裕があまり無い家庭ではあったのですが、懇願して英会話を続けさせてもらったのを覚えています。
大学にも進学したかったけど、高校2年生くらいの時に「金銭的に大学は行けないかも」と言われ、何か方法は無いかと調べた結果、当時の東大は「年収が一定金額以下の家庭は学費無料」という制度があったので、これしかない!と思って戦略を立て始めました。合格最低点から逆算してみると、なんとか工夫して勉強すれば合格できると感じ、その時から必死に取り組みました。結果的には一浪するんですが、その間は学費無償で入ることのできた予備校に入りびたり、様々な先生や仲間と出会って、これまでいた環境では出会えなかった人たちと過ごすことができました。
例えば予備校の先生は賢くて、その科目の文化的な背景などマニアックな話をしてくれました。一般的な「受かるための授業」ではなかったかもしれませんが、そういうところから「大学で勉強するとこんなことが起きるんだ」と感じ取り、より総合的な学問を勉強したいという意欲が高まりました。予備校の近くには古書店街やレコードショップもあり、よく帰りに立ち寄って、本や音楽から多様な価値観に触れることができました。
実学ではなく、リベラルアーツを
2005年に東大に進学し、自分は3,4年次も駒場キャンパスに残り、学問を総合的に勉強するリベラルアーツをやることを目標にしていました。日本では珍しいかもしれませんが、海外では一般的な学問体系です。東大でこれを実現するためには、前期教養課程の2年間で良い点数を取る必要があったので、9時から21時、授業の時間以外はずっと図書館に居て勉強していました。勉強ができて嬉しかったです。
結果、この進路に進むことができ、後期教養課程の比較文学比較文化専攻を選んだのですが、「図書館に籠って勉強」という、ひたすらインプットする生活に飽きてきていたのも事実でした。それで、もともと触っていたギターでなにかアウトプットできないかと考えて、下北沢のライブハウスに通うようになりました。さらに、実際に気になったバンドに懇願して入れてもらい、バンド活動もするようになったんです。同時に予備校講師とか家庭教師もして生活費を稼いでいたので、これまでのような勉強時間は確保できなくなりました。
一緒にバンド活動している人達は、音楽に熱中してそれを中心に生活している人たちばかりでしたし、音楽の世界に惹き込まれていた自分は一意専心して音楽に集中することも考えていました。こんな環境に身を置いていたので進路は定まらず、とてもいい加減な気持ちで大学院の願書を書いていたら、送り先を間違えてしまい、進学先が決まらないまま大学を卒業しました。1年間予備校や塾の講師をしながら、Kazuo Ishiguroに関する論文を執筆、酷評されつつも合格をいただき大学院に入り直しました。
地道な積み上げの大切さ
修論を書くタイミングで「自分はこっちだ」と学問の道に進む決意ができ、やっと身を入れるようになるのですが、時すでに遅しと感じるところも多々ありました。
特に語学については地道な積み上げが必要なので、研究者になるには能力が足りないことを痛感しました。文学研究や哲学研究では、最終的に「どれだけ外国語が読めるか」にかかっていると言っても過言ではなく、世界の研究者たちは当たり前に5か国語、7か国語、読めたりするんです。自分が学問をさぼってきた期間を思うと、これから突き抜けた何かを持つには、大きいビハインドがあることに気が付きます。「突き抜けた何か」は社会に役立つかどうかの基準ではなく、バンドにしても、学問にしても、積み重ねているものがきちんとある人たちを見たときに、自分もそういうものがあったほうが良いと感じていました。
事実とは何か
ちなみに、修士論文を書き始めたころから文学研究の中に哲学の要素を取り入れはじめました。特にアメリカのニュー・ジャーナリズムに注目し、トルーマン・カポーティの『冷血』を中心に「ノンフィクション・ノベル」というジャンルに関する研究をしていました。ノンフィクションなのにノベルであるという語義矛盾に注目することで、そもそも事実とフィクションは区別可能なのかという問いと格闘しました。
結論、事実とフィクションを区別するような言語的な特性は存在しないという点にたどりつきました。何が事実であり、何がフィクションであるかということはある絶対的な指標で判定できるようなものではなく、その事象をとらえるコミュニティや社会の規範に依拠するんです。たとえば『聖書』はキリスト教を信仰するコミュニティのなかではノンフィクションであり、そうではない別の規範のコミュニティにおいてはフィクションになる。そう考えてみると僕らは非常に柔らかい不確かな状況の中で生きていることが見えてきます。日常的な感覚からすれば事実は事実として絶対的に存在していると考えてしまいがちですが、実はそんなことないんですよね。事実かフィクションか、という二項対立では解消できないような曖昧性のなかに僕らは生きている。
ニューヨーク大学へ
前述のテーマを熱心に研究しはじめた頃から楽器も触らなくなり、博士課程に進むと決めていたのですが、論文を提出したその日に、ずっと興味のあったゴールデン街に連れて行ってもらったんです。当時のゴールデン街は、もう少しクローズドな場所で、このコミュニティの方々と親しくなればなるほど、ずぶずぶと嵌っていってしまったんですよね…。このゴールデン街で共同代表の下地と出会うのですが、親しくなるのは1年後のことで、この時は「このままだとだまずい!」と再度奮起して留学の準備を始め、修士2年目でニューヨーク大学に大学の公募の枠を使って留学しました。
ニューヨークに到着してすぐ、家もない、金もない、知り合いもいない、周囲は優秀な学生ばかりというタフな環境で、スーツケースを机にしてご飯を食べて、ニューヨーク中を動き回り、当然普通の不動産屋には相手にもされずネット検索して家を探して…というスタートでした。学生も優秀かつ白人の学生が殆どで、自分のような人文系の博士課程で入学してくるアジア人なんてなかなかいないですから、露骨に「相手にされない」「輪に入れてもらえない」という経験もしました。授業のプレゼンなどを通して「話すに足る人間だ」と注目してもらい、友人ができ、そういったことは解消されていくのですが、この馴れ合いのない実力の世界で、自分は無力であることを痛感できたのは貴重でした。
アメリカの図書館は24時間空いているのが基本なので、勉強するのはもちろん、翻訳の仕事などもしましたし、学校外のコミュニティでも様々な出会いがありました。アメリカは日本よりずっと人文系の学問や研究者へのリスペクトがあり、ディスカッションしたり、勉強会を開いたり、現代アートに触れたりと、貧しかったけど非常に豊かな毎日でした。今後もアカデミアに残り、北米の大学院に転入したいなと思いながら帰国したのですが…。またゴールデン街に立ち寄ってしまって飲みに行くようになったんですよねぇ。
Empathへの道筋
そのゴールデン街で、いまの共同代表の下地と再会し、スマートメディカル社でインターンを始めました。ニューヨークから戻り2か月くらいの頃だったと思います。はじめは週1で顔を出して論文調査して飲みに行くというようなゆるーい感じだったのですが、年齢も重ねてきたので「働く」ことを意識するようになったことと、スマートメディカルが取り組む精神疾患に関するテーマに興味が持てたので、博士過程を休学して就職してみることにしました。実際に会社でサラリーマンとして働いてみると、「思ったのと違う。」というのは往々にしてありましたが、「まぁ数年は体験してみよう」と思い、海外を飛び回るうちに楽しくなってきて、Empathがスピンアウトして独立することとなり、後に共同代表になりました。
Empathに参画したことはとても大きな転換で、学びと反省の連続です。シード期から積極的に海外展開にチャレンジしてピッチコンテストで優勝したり、だれもが知るようなテック・ジャイアント企業たちとシリコンバレーで商談をしたり…。けれども「誰の何の課題を解くのか」というスタートアップとして最も基本的なテーゼの解像度をなかなかあげられませんでした。世界を回りながらたくさんの起業家と出会い、会話をしていく中で、もっともっと事業の解像度をあげていかないとまずいという状況で苦戦した時期もあり、優秀なメンバーの離脱も経験しました。
これから出来ること、打席に立つ慶び
メンバーの離脱は電気ショックのように感じられました。けれども、まだまだいける、絶対に大丈夫だっていう根拠のない自信はありましたし、さらに残ってくれているメンバーの日々の頑張りにも触発されて、新規事業に取り組みはじめました。それがJamRollの開発につながっていきます。
こうやって目標を新たに目指して走ってみると、日々打席に立つよろこびを感じますし、様々なメンバーの能力を結実して実際にプロダクトが誕生することは何物にも代えがたいです。そんな中で、一度離脱したメンバーが戻ってきてくれたり、どんどん新しい仲間がEmpathに入ってくれて、たくさんのハードシングスがあるものの、Empathという会社をみんなと一緒に前に進めていけることがとても幸せです。
研究と様々な寄り道は経営に活きている
研究者と経営者は一見全く違う役回りに見えるかもしれませんが、「誰のせいにもできない、自分の采配で決断・実行し、自分で自分のケツをもつ」のは同じです。研究は他の人がやって積み上げてきた成果に乗っかって自分の新しい取り組みを行いますが、それはビジネスでも同じで、対話相手が人間であるか紙であるかだけの違いだと思います。決して研究は、外界と切り離して好きなことだけをやっている世界ではありません。発表する場も読書会や討論の場もあります。また、自身のバックグラウンドからも、バスケットボールや家庭環境を通じて客観的に物事を見たり、予備校での勤務経験、バンド活動も併せて、学問以外で体験してきた事が今に活きていると思います。
共感形成のためのプロダクトづくりは、はじまったばかり
2022年にJamRollというプロダクトが一つ出来たことにより、Empathのミッションを達成するためのひとつの入り口が作れたと思っています。JamRollはAI書記が会議に入ってくれるという仕組みで、チーム内での一次情報へのシェアとアクセスをしやすくすることで共感形成に役立つものだと考えています。そもそも、AIはオートメーションで何かを実行し、作業を効率化するものです。なので、Empathがめざす人間同士の共感形成とは相反する業務を得意とするツールなのですが、私たちの今の考えでは、仕事を全自動化することを目的とせず、「人間が人間に対して配慮できる時間を、人間とAIがコラボすることによって作っていきたい」と考えています。
人文系学問とコンピューターサイエンスの融合
一方で、録画のようなデータからわかる情報は白黒、または0か1か、はっきり判断できないことも多いです。人によって解釈が異なる情報(言葉・表情など)が多くありますよね。このグラデーションを取り扱うことを得意としているのが人文系の学問で、「白黒ではないグレー」があることを認め、「分けられないこととちゃんと向き合う」ことができます。コンピューターサイエンスにはないこのような分野を自分は得意としているので、接合させてJamRollないし今後の取り組みに生かしていきたいと思いますし、メンバーにも互いの専門や得意分野を学びあってほしいと思います。
遠い未来には、コンピューターサイエンスと人文科学、さらにはビジネスが融合し、プロダクトアウトできる組織、研究機関でもあるような場所を作りたいと思っています。大学のような学びの場であり、学んで終わりではなく実際に生かす場です。今後も様々な寄り道をするかもしれませんが(笑)その時はその時で、また知見を持って帰って来て、活かせればと思っています。