アメリカで、反トランプの集会に膨大な人々が集まったそうです。暴力的なアンティファだけでなく、白人のリベラル層やエリート層までもが参加していると聞きました。私はこのできごとを、政治的な対立というよりもむしろ、人間の認識のあり方そのものが二極化している現象として見ています。
一方は、理性によって世界を整理し、秩序を築こうとする人たち。もう一方は、感性によって世界を感じ取り、つながりを大切にする人たち。これは単なる思想の違いではなく、人間が世界をどう認識しているかという深い次元の分かれ目です。
理性派の人々は、物事を対象化し、他者や自然などを、自分とは独立した客観的な「対象」として捉え、分析的に扱います。その姿勢は近代の科学や技術を生み、社会に安定と繁栄をもたらしました。私たちは間違いなく、その恩恵の中で生きています。しかし、理性が過度に強くなると、世界は「感じる対象」ではなく「操作する対象」になってしまいます。人間は自然を支配し、他者を分析し、あらゆるものを数値化して把握しようとする。その過程で、数値化できないものはノイズとみなされ、世界は少しずつ体温を失っていく。生命の息づかいも、人と人とのあいだに流れていたやわらかな気配も、理性の冷たい光の中に溶けていきます。
リベラルな社会がしばしば犠牲を生むのも、そこに「分離の構造」があるからです。理性の思考は、世界を分けて理解します。自分と他者、人間と自然、支配する側とされる側。そうやって世界を切り分けることで、管理しやすくする。その結果、誰かが常に「支配される側」に置かれる。しかもその支配は、力ではなく合理性や正しさの名のもとに行われるため、人々はそれに気づきにくい。一見、平等で公正な社会に見えても、その裏には見えない序列と依存が生まれているのです。
一方で、感性派の人々は、「すべてはひとつ」と感じることを大切にします。自然や他者を自分の延長として感じ取り、「理解する」よりも「共鳴する」ことを選びます。この世界の全てはつながっており、調和はコントロールではなく共鳴によって生まれる。感性の世界では、正しいか間違っているかではなく、「響くかどうか」が基準です。理性が縦の秩序をつくるなら、感性は横のつながりをつくる。私は、これからの時代に求められるのは、この横の秩序だと思います。
理性派と感性派の衝突は、どちらかが間違っているわけではありません。理性は文明を築き、感性は文化を育ててきた。両者は本来、対立するものではなく、人間の中でバランスを取り合うべき二つの働きです。ただ、近代以降の社会では理性があまりに優勢となり、感性の領域が軽視されてきました。その偏りが、現代の分断や精神的な疲弊を生んでいるのではないでしょうか。
私は「自律分散型の統合」という言葉をよく使います。それは、中央がすべてを支配するのではなく、それぞれが自立しながら、ゆるやかに共鳴し合う社会のことです。理性派と感性派という異なる性質を持つ人々が、互いを排除せず、ただ違いのままに並存する。「多様性を受け入れよう」というスローガンではなく、違いを無理に解消しないまま、響き合うこと。そこに、本当の意味での統合があると思います。
理性がつくった秩序を否定するのではなく、そこに感性の温度を取り戻す。正しさと優しさ、効率とぬくもり。それらが手を取り合う時代へ。私はそんな社会を見てみたいと思っています。それは、誰かが上に立つ統合ではなく、生命が響き合うような統合。分断を超える未来は、すでに私たちの心の中で静かに芽生えているのかもしれません。
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