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ノインの創業代表・渡部賢。現在ノインで働いている従業員の中にも「入社のきっかけは渡部さんと面接で話して惹かれたこと」という人は少なくありません。しかし、渡部の考え方や生い立ちなどについて知っていただく機会はこれまでなかなかありませんでした。
そこで今回、本人に生い立ちや考え方について聞きました。「ここまでの人生に後悔はひとつもないです。」と言う渡部の人生とは?1万字越えの盛りだくさんのインタビューです。ご覧ください。
ノイン株式会社 代表取締役CEO 渡部 賢Naver Japan (現LINE)にてディレクション業務を行った後、グリーにてスマホ版GREE NEWSを立ち上げ、同サービスを数百万MAUに成長させる。その後、サービス開発のマネジメント、新規事業の企画/開発/提携業務/子会社の立ち上げを経験。2015年よりフリーランスのプロデューサーとして、上場企業など数社の新規サービスの立ち上げや運用などを行う。2016年11月に個人事業を法人化させたノイン(株)を設立。
――今、渡部さんはどういう毎日を送っているんでしょうか?
平日は仕事にフルコミット、週末は家族と過ごす時間を楽しんでいます。経営者とパパのふたつの顔を持っている感じですね。
「趣味は何か」と聞かれることもありますが、ないんです笑。 しいていえば、自分が知らないことに出会うことが大好きで、そういったことに出会うと調べまくって誰よりも詳しくなりたくて、寝落ちするまで調査を続けています。この執着心?探究心?は自分でも度を超えているなと思います。笑
仕事でTikTokをやろうという話になれば色々なパターンの動画を調査し、自分で作ってみたりしますし、海外のサービスもたくさん見ていたりもします。インターネットサービスの発展が著しい国や面白いカルチャーのある国のAppStoreから目新しいアプリを片っ端からDLして使ってみる、ということも昔よくやっていました。好きなことを仕事にしているので、好きなものを見る延長線上で情報のインプットをしている感覚です。
――渡部さんは幼少期はどんな子だったんでしょうか?
新潟市の出身で、高校を卒業するまで新潟で過ごしました。男3人兄弟の末っ子で可愛がられて育ちましたね。
近所に住んでいたお兄ちゃんと写っている写真が残っていますが、寡黙でいつもニコニコしていたそうで、ご近所さんから可愛がられ、良く他家に貸出されていたみたいです。また、昔から何かに縛られるのが嫌な子で、幼少期の僕を縛り付ける最大最強の天敵は”靴”だったようです。靴を履いて家の外に連れ出されたら、嫌すぎて玄関を出た瞬間に靴を脱ぎ捨てるというルーティンをしていたようで、その様を撮られた写真も残っています。
――三つ子の魂百までですね。やっぱり目立つ子だったんですか?
高校生の頃は部活はやらず、ずっとバンドをやっていました。クラブやライブハウスにも出入りしていました。悪目立ちするようなところもあったみたいで、ほかの高校の生徒から目をつけられて後日農協の裏に呼び出される、みたいなヤンキー漫画のようなシチュエーションもありました。
クラスの中でも(無自覚に)目立つ存在だったようで、すごく恥ずかしいですが、高校の頃についたあだ名が「スター」だったんですよ。でも、輪の中心で調和を取る存在ではなく、周りとはちょっと違うところにいる扱いづらい存在だったのかなと。
ある日、仲良くしていたグループの友達の反応が悪くなって、あれ、、、様子がおかしい。と思ったことがありました。数週間そんな雰囲気が続き、『嫌われたならまぁいいか。別の楽しい過ごし方を探そう』みたいな気持ちでその雰囲気というか状況を放っておいたんですよ。そしたらそのグループの中のひとりの友達に呼び出しをくらって、真剣に説教してくれたんです。涙ぐみながら「お前それでいいと思ってんのかよ」と。
当時の僕は自分の思ったことをそのままの勢いで口にすることが多く、対面に立った人の気持ちを踏み躙ったり、虐げるような言動をしていました。(ちょっとここは思い出せないけど)何かのきっかけでグループの一人がその不満を口にした瞬間に『それ俺も思ってた!!』みたいな広がり方をして、みんながそれを僕に遠回しに伝え、直させるためにハブく行為をした。という流れでした。完全に自分に原因があるイジメられ、でしょうかね。笑
でも、その子が涙しながら真剣に怒ってくれた瞬間に、100%自分が悪かったし、これは本当に改めようと思って、そこから自分が発言する言葉には気をつけるようになりました。思っていることを言葉にしても、言い方やタイミングが悪かったりすると人には伝わらない、だから伝える時の表情や、自分の気持ち、背景など、単純に思ったことをいうだけじゃなくてその前後に何を言うか、どんな表情で言うか、どんな声のテンションで言うか等をすごく気にするようになりました。
『自分がどう思うかではなく、相手にどう伝わったかがすべて』を心から学んだ出来事でした。
――高校を卒業してから東京の大学に来たんですか?
そうですね。夢も何もない学生生活の始まりですね笑。「この大学に行きたい!!」「こんな夢を実現するんだ」という子たちを横目に、あぁなんかすごいわー、と冷めた目で見ているようなところがありました。本当は夢がある子たちがすごい羨ましかったんですよね。
受験勉強もせず、大学受験も適当。高1の時の初めての全国模擬テストでS判定が出たところを受験し、そのまま入りました。
大学に入ってからは、歌舞伎町のダイニングバーでアルバイトしてました。学生店長みたいなことをやらせてもらって、月30万円くらい稼いでましたので、当然大学にはほとんど行ってませんでした。笑
このダイニングバーで1年ちょっと働いた頃に、ある日ふと気づいたんです。「3か月間1日も休まずに歌舞伎町に行っていて、このままだと俺の人生、歌舞伎町で終わるぞ!!」って。だから、そのダイニングバーを辞めて、夜の仕事の真逆のスポーツジムのインストラクターのバイトを始めたんです。
――真逆に行きましたね!
スポーツでの目立った経歴がないので最初は受付の仕事をやりました。受付の仕事をやりつつも、「インストラクターやりたいです」と志願して、レッスンの仕方を他のコーチに習ったり、インストラクターになるための実技試験を受けたりして、ついにカリキュラムを持てるようになりました。
元々受付のころから会員さんからは親しまれていましたので、自分のスタジオレッスンにはみんな来てくれるんだろうなと思ってました。が、いざ始まったら誰もスタジオに来なかったんです。ショックすぎた!!!
ノリが良くて会話が面白くても、一方でレッスンを受けたいと思う対象ではないと。その瞬間に自分の中のすべてのプライドが瓦解です。笑
でも逆に燃えた!!
まず最初にやったことは自分のいる場と、会員さんとの会話の2点を改善。
“場”は、受付周辺ではなくトレーニングエリアでの滞在時間を増やすこと。そして、会員さんとの会話は(世間話も大切だけどそれだけじゃなく)「何でこのジムに来ているのか」「どんなことをやっている(レッスンも含め)のか」などを聞いて、会員さんひとりひとりのモチベーションの源泉をヒアリングしました。
そんなことを続けていく中で、スタジオレッスンをパンパン満員にするコーチたちの特性を二分することができました(自分の中の持論ねw)
ひとつは『圧倒的なカリスマ性』、もうひとつは『スーパー可愛がられ性』。この場合のカリスマ性は、その方のスポーツの経験や実績・資格なども大きな要素だったため僕の場合は自然消去。『スーパー可愛がられ性』の一本に賭けることにしました。
“可愛がらせ性” の醸成は『スタジオプログラムを会員さんと一緒に組み上げていく』ということで行いました。振り付けの内容や楽曲を相談するんです「今回はこの曲を使ってこういう振りを入れようと思うんだけど、盛り上がるかな??」みたいな。レッスンが終わってからも「今日のどうでした?」と聞くようにしたら、会員の皆さんとの距離がドンドン縮まっていって、継続してくれるお客様が増えました。
最終的には、自分の振り付けの間違いに会員さんが気づいて『プッ』と笑ってくれる感じでした。めちゃくちゃ嬉しかったな。
今の言い方で表現すると、めちゃくちゃマーケット調査して考え続けて、ここだ!!!!って感じでプロダクトアウトの手法でマーケットに自分を放り込んだら徐々に跳ねてった。って感じ。この体験は今の自分に繋がるものがありそうです。
――インストラクター以外にも大学時代に経験した仕事はあるんですか?
スノーボードの販売やダーツバーの店員をやりました。
スノーボードを売るのも得意でした。スノーボードの販売経験も、今の自分の原点のひとつです。当時勤めていた販売店で自分に仕事を教えてくれた方が、『お客さんのやりたいこと(滑り方)』を実現するために『マテリアル(スノボの素材や構造など)の組み合わせ』の提案に拘りまくる人で、その提案の基礎となるスノーボードの知識を物凄く重んじる人でした。グラスファイバーの含有量や波形によって板の反発が違ったり、ブーツ・ビンディング・ボードの硬さによりできるアクションの幅がどう異なってくるかなど、かなり細かいところまでの知識を暗記させられました。
『スノーボードで一番楽しい思い出って、ボードとかウェアを褒められた時じゃなくて、ちゃんとやりたい滑りができた瞬間なんだよ』って。超納得だよね。笑
なので、自然と接客の流れはお客さんにボードのデザインや価格で選んでもらうのではなく、どんな楽しみ方をしたいのかというところからブレイクダウンしてアイテムを選んでもらうように指導されました。
初めてだから、滑るようになりたい、グランドトリックをしたい、キッカーで飛びたい、スピードを出して滑りたい、、、色々な楽しみ方がありますよね。どんなことをやりたいのかを聞いたうえで、「じゃあこれがいいと思いますよ、なぜなら...」と提案するのが流れ。でも、それだけで全員に通用するわけはなんですよね。「でも私、あのデザインがいい」というお客さんもいるし、その選び方だって正しいから。
そういう場合、どんな楽しみ方をしたいのかを聞いたあと、店内に並んでいる商品を見てもらってから「ちなみに今パッと見た中でデザインで気になったものありました?」と聞きます。「これ気になりました」と言われた時にそのセレクトが最初に聞いた「どんな楽しみ方をしたいのか」とマッチしていれば「めっちゃいいと思いますよ」と言い、そのボードにあうブーツやビンディングを提案しますし、マッチしていなければ「ちなみにこのデザインのどこが良かったですか?」と聞きます。絵柄なのか、形状なのか、どこを好きになるかも人それぞれですので。それを把握した上で、
「ちなみに、ここに似てるデザインあるんですけど、どうですか?」
「あ、それでもいいかも」
「あ、ほんとですか?なんでこれ提案したかというと...」
ここで初めて知識を話すようにします。決して頭ごなしに否定をしないことが重要です。こんなふうに、「どうしたら気持ちよく買ってもらえるか」を学んだのはスノーボードの仕事の時でした。
――他にも学生時代に学んだことはありますか?
同じ時期に本をたくさん読みました。僕は見た目がバカっぽいので、話すこともバカっぽかったら人からまったく信頼されない。そんな人生嫌だなと思った時がありまして。そこで、とりあえず魅力的な言葉の引き出しを増やしたくて本を読むようにしました。大学時代は小説を1日1冊くらいのスピードで読んでいました。(どんなに時間が取れなくても週に1~2冊は読んでいたと思います。)東野圭吾、浅田次郎、山崎豊子など、著名な作家の小説は一通り読みました。
大切なことはほとんど小説から学んだと言ってもいいと思います。
例えば、ひとつの事象に多方面の捉え方があるということをそこから学びました。「この人の目線から見るとこうだけど、反対にいる人の目線からみるとこうだ」ということを知ったので、ここの目線だけ、ひとりの人の気持ちだけを聞いても、事実が立体的に浮かび上がってくることはないんだろうと思うようになりました。
また、伝えたいことの前後の本脈をしっかりと表現しなければ伝わらないことがある一方で、言葉をたくさん言ってもチープになるだけで伝わらなくなっていくこともあるということを学びました。
敢えて言わない、大切なことを全部話さない、100個くらい言いたいことがあるのに、5個くらいしか言わないで去るというようなコミュニケーションを取るようになったのは小説を読んでからですね。
最近は、本を読むなら”ノンフィクション”と決めています。捉えている時代背景や事象は事実であるのを前提にして、そこに描かれている方たちの心情とかはあくまでフィクションっていうのがものすごい没入感と同時に学びがあって大好きです。
――ものすごく濃い大学生活のように聞こえます
振り返ると面白いですよね。
今思うと、様々なものに出会い学びを得た、すばらしい学生生活でした。濃かったけど、もう戻りたくないです。笑
人生どこに戻りたいですか?って聞かれても「本当に今でいいです」っていつも答えてます。
――新卒ではどんな会社に入ったんですか?
2008年の新卒入社で、人材紹介会社の営業職としてキャリアをスタートしました。ちょうどリーマンショックの影響で入社した会社の業績が悪化し入社早々に社長が退任、数ヶ月ずっと社長不在のままだったと記憶しています。
当時はまだまだ体育会系ノリで、テレアポと飛び込みの毎日。日々の行動指標が達成できるまで会社に戻ってくるな!!というような雰囲気でした笑
――大使館に飛び込んだこともあるそうですね
はい、確かに大使館に飛び込んだこともありました。どちらの国かは忘れてしまいましたが。正面から訪問したもののまったく相手にされず、裏手にまわったら門とインターフォンがあったので、迷わずピンポン押しました笑 そうしたら普通に応答してくださって、お話を続けていたら血相変えた警備員さんが走ってきて試合終了です。(怒られた気がします。)
他には、有名高級外車メーカーに飛び込んで年収2000万円くらいの求人を頂いたこともありました。その時も、とあるビルの中を小走りしながら飛び込んでたら、『あれ!! これってあのメーカーじゃん!!!』って気がついて、目の前に内線電話があったのでザッと見て一番偉そうな”PRESIDENT”って肩書きがついていた内線にコールして、その場で案件頂けたんですよね。ルンルンで帰社したらマネージャーにちょっと困惑されちゃって、、苦笑いしながら『お前なにやってんだよ笑』と。というのも僕、IT業界担当の営業だったので、お隣の部署の領域に手を付けちゃってたんです。笑
――心臓に毛が生えてるって言われないですか?
よく言われます。笑
そもそも自分は人より秀でた能力がないと思っていたので、人が嫌がること・止まることを見抜いて、そこを踏み込むという生存戦略しかなかったんですよ笑 人が躊躇して止まった瞬間に自分が踏み出せれば絶対に追い越せますよね。ずっとそうやって生きてきた気がするので、仕事でも自然とそれをやっているのでは。と思います。
あと、チキンレースでも負けないです。
――そこから転職するんですよね?
入社一年目にリーマンショックの影響があって会社も部署の業績も悪く希望退職が始まりました。その後いろいろあり2年目の春に転職活動をしました。
――転職先はどのような軸で探したのでしょうか?
なぜかこの時、モノゴトは”生み出す側” とそれを ”売る側” があって、”生み出す側” にいないとこういう時に淘汰されるんだなーって思ったんです(今はそんなことは事はないと考えを改めてますが笑)なので、未経験だったのですが本音では ”企画職” をやってみたかったんです。
でも、ほぼ新卒かつ未経験で応募できる企画職の求人なんてないんですよ。まったくなかった笑
営業職はバシバシ内定出るんです。なかには、ほぼ新卒なのに年収を上げてオファーをくれる企業もあったんです。『あーやっぱ企画職は無理か。。。また営業か...』と思って内定承諾しようとしたら、NAVER JAPANという会社で未経験の企画職の採用枠が出たことを知りました。現在のLINE社です。NAVERって、当時日本でのサービス展開はなかったんですが、韓国では検索シェア80%くらい持ってた超有名インターネット企業だったんです。兄の奥さんが韓国人で学生の頃からよく韓国に行ってたこともあり、たまたまNAVERを知ってたんですよね。
今はすごい人気企業だと思うのですが、当時は無名だったのできっと倍率も高くなくて、こんな僕でも内定を頂くことができました。でもね、契約社員で年収300万円のオファー。新卒の年俸が360万だったので、60万円ダウンと非正規雇用というダブルパンチは不安定な景気下で、めちゃくちゃ迷いましたね笑
うろ覚えなんですが、当時の彼女(後に結婚するパートナー)に相談したら「本当にやりたい仕事選べばいいんじゃない。企画やってみたいんでしょ?」みたいなことを言われたんです。それで腹が決まりました。
――NAVERではどのようなお仕事をしていたのでしょうか?
検索企画室のディレクターとして入社しました。 3年の在籍で経験した業務はざっくり以下です。
“検索”を軸とし様々なカテゴリのサービス企画をひたすら経験したので、”探す” というアクションをするサービスの企画に長けたのかなと思います。データを大量に集めてきて、バラバラのデータをマッピングして、検索性を考えながらテーブル設計をしたり画面や機能の設計をしていく。そんな仕事を積み重ねてました。
当時のNAVERには『アルゴリズム × 人の手』みたいな考え方があった記憶がありまして、最後に人の手が入ることで、サービス価値が圧倒的に高まる!! みたいな価値観が強烈に根付いた瞬間でした。これは今のノインに繋がる価値観だと思います。
あと、当時のマネージャーがすごい厳しくて。仕事、全然教えてくれないんですよ。『ググれカス』って目の前で言われたんじゃないかな笑 一方で、部長はめちゃくちゃ優しかったんだけど、上層部に対してめちゃくちゃ態度強いんですよ。上に厳しく下に優しいの、ほんとかっこよかった。
今思うと、
ってことを教えてくれたのが、部長とマネージャーだったなって思います。
この記事、見ててほしいな笑
――NAVERといえば、今や社会インフラにもなっているLINEを手掛けた会社ですが、LINEにも関わっていたのでしょうか?
LINEの開発には関わっていませんでしたが、在職中にローンチされたサービスでしたので、社内でサービスが開発され、それが世に出、世の中を変えていく様を間近で体感することができました。
LINEが出るまでのNAVERは、ユニークで革新的なサービスをいくつか運営していましたが、日本中の誰もが知っているようなサービス規模になっているものはありませんでした。それが、LINEをローンチしてから一転、瞬く間に世に広まっていきました。
それを横目で見ていて「自分もいつか世の中を変えるような、そんなサービスを生み出してみたい」と、思いました。夢がなかった自分が、初めて自分の未来のイメージをした瞬間だったと思います。
――その刺激を受けて起業を思い立つんでしょうか?
まだそこまでじゃないんですよ笑 そんな思いになりつつも僕は自分に自信がなかったので、自分を追い込める環境に身を置き、自己成長の最速・最大化をしたいと思い転職を選択しました。
――LINEの急成長を横目で見て、もっと自分を高めたいと思って転職を決意したというお話ですが、転職活動はどうでしたか?
「LINEをリリースしたNAVER JAPAN」という知名度の恩恵もあって、グリーをはじめいくつかのインターネット企業から内定をいただきました。ちょうど「スマホシフト」と声高に言われていた時代でしたので、スマホアプリの企画経験者は売り手市場だったと思います。結果、一番ハードなイメージが湧いたグリーを選択しました。
グリーで配属されたのは、SMEM(ソーシャルメディア・エンターテインメントメディア)部というところで、ゲーム以外の新規事業をやる部署でした。そのディレクターとして入社して、最初に任されたのがスマホ版のグリーニュースのローンチです。
当時はマネージャーがいて、そのチームのスタッフとして入社しましたが、1年弱でマネージャーが辞めて僕が昇格し、その後、ニュースや占い、辞書サービスにQ&Aサービスなどの複数のサービスを運営するチームのマネージャーを務めさせて頂きました。
――グリーでの仕事を通して学んだのはどんなことでしょうか?
ひとことで言うと、「推進力」ですね。要素分解すると以下でしょうか。
僕のいた部署の偉い人たち、”頭が良い × 回転早い × ロジカル”だったから、企画のツメが甘い部分にすーぐ気づかれちゃって全然提案通過しないんですよ。大成さん、伊野さん、石崎さんには鍛えられた笑
あと、すごい褒めてるみたいで嫌だけど大成さんの ”事象を因数分解するチカラ” は本当にすごくて、めちゃくちゃ刺激的だったな。負けたくない!!って思った。
また、NAVERとは違って当時のグリーは他部署との連携が取りづらかったんです、非常に。ユーザーにも会社にとってもすばらしい取り組みになる仕組みを考えたとして、同じ組織の中でも立場や役割が違えばその想いに共感することはなかなか難しいじゃないですか。そんな壁にブチ当たる日々で、(仲良くするのとはまったく異なる)本当のコミュニケーション能力を身につけることもできたんじゃないかなと思います。
あと、すごい深夜まで仕事漬けの毎日で、同僚たちと色んな議論をして、たくさんサービス作って失敗もしたし、ちょっとの成功もしたし、そんな中で今でも大切にしているかけがえのない仲間にも出会えたなって思ってます。
――ロジックで証明できないもので相手を動かすにはどうすればいいんでしょうか?
推進力の要素のひとつとして挙げた “先を視るチカラ” なんですが、これはスタートアップ経営にとってとても重要な要素でした。具体的な必要箇所としては資金調達です。
ちょうどこの前、ANOBAKAの長野さんが投資先向けの会報誌みたいなので『渡部さんほど印象的な社長はいないかもしれない。最初に会ってすぐに投資しようと思いました。シード期から自分のやりたい事業の解像度の高さはピカイチでした。実際に投資してからも渡部さんの打ち手が的確すぎてあまりやることがなかったです。』って言ってくれてて嬉しかった。そこだけは負けたくないって思って行動しているので。
実際に、ANOBAKAは一番最初にノインに投資してくれた会社なんですが、彼らに見せたピッチデック(事業計画書みたいなやつ)に記載している、当時の僕が描いた業界の未来とノインが歩む戦略・ロードマップって、今でもビッタリ一致していると思います。
どうしてそういうチカラを養うに至ったかで言うと、やっぱ在籍当時のグリーってめちゃくちゃ優秀な人が多くて、その人たちに負けたくない!!って思ってもがき続けてたら『あっ、得意な領域これかも』となった気がします。
どんなルーティンで ”先を視る” ことをしてるかってのは、もし興味ある人がいらっしゃったら別途解説しますね。(この記事じゃ収まらないから笑)
――グリーで過ごした最後の1年で子会社も作ったそうですね
在籍最後の1年は、新規事業部にて事業立ち上げ→初速が立ったから子会社で事業運営をする、というようなことをやっていました。この事業部の事業企画から予算取りまでの仕組みが非常にユニークで、(グリー社のノウハウだから詳しくは言えないですごめんなさい)この期間に起業の前哨戦ができたのではないかなと思います。
“介護” という領域で、“シルバー” と表現される高齢者の方々にキラキラ輝いてほしいという想いから “プラチナファクトリー” という社名を名付け、入居系介護施設の口コミ検索サイトの運用を行っていました。
この事業を行う中で、たくさんの福祉業界関係者やサービス利用者の方々と接点を持つことができ、そんな中とあることがきっかけで、自分のこの先の人生『人を良くすること』以外やらなくていい!!って誓った瞬間があったんです。それが、会社を辞めて独立の道を進んだきっかけです。
会社に所属していると、その思いとは裏腹に会社に求められたことをやる瞬間ていっぱいあるじゃないですか。それが僕の信念(人を良くすること)に沿ってないことってどうしても出てくるんですよね。その時に『いやー会社の方針でさ、仕方なく』とか言ってる自分を想像したらね、そんな自分を許せないなって思ったんです。なので、退職して自分で事業をやる道を選びました。
振り返ってみると、グリー社で得たものってめちゃくちゃ多いですね笑
――グリーを辞めたあとはどうしていたんですか?
会社を作ったのはグリーを辞めてから約2年後です。その間は個人事業で、色々な会社の新規事業を企画・ディレクションするプロデューサー的な立場として業務委託を受けていました。
この時期にまた時代は大きく変化していて、たとえば、
のようなパラダイムシフトが起こっていました。
そんな中で、
というような軸で様々な領域 × ビジネスモデルを検証し、最終的に「これだ!」と思ったのが化粧品というマーケットでした。
その後、個人事業の仕事を継承する形で『ノイン』を設立。
『お前と一緒なら、なんでもいいよ』というモチベーションの数名の仲間たちで始まった会社が、いつからか『ノインのビジョンや事業に惹かれて』という理由で入社してくれる仲間達に変わり、今では60人を超える人たちに関わってもらっています。めちゃくちゃ嬉しい。
ノインは先日5周年を迎えました。ほんとーーーにあっという間の5年でした。
今回の記事の”履歴書”でいうと、いつの間にかノインが人生で一番長いキャリアです!
ノインでどんなことやってきたかーみたいな話は、また別途やりましょかね ^ ^
ありがとうございました!!
――渡部さんありがとうございました!
今回は渡部の幼少期からノイン創業までの過去について幅広く話してもらいました。社員でも初耳のエピソードが多かったですが、全てが今の渡部に繋がっていて"納得"という感じでした。次回は、ノイン創業から現在までの「ノイン秘話」を聞いていきたいと思います!お楽しみに。
ノイン株式会社では複数ポジションにて採用を行っております。渡部と一緒に化粧品業界を変えていきませんか?少しでも興味を持っていただけましたら是非採用情報をチェックしてみてください。