【後編】ドコドア代表本間の人生を振り返る。ー波乱万丈の社会人生活とドコドア経営ー | 社員インタビュー
前回から2回にわたって、弊社代表本間の人生をインタビューを通してエッセイ風に振り返ります。後編である今回は主に社会人時代についてです。▼まだ前編を読んでない方はこちらから!では早速後編スタートで...
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ドコドアの代表として会社を牽引し続ける本間。オフの時に少しずつ明らかになるその半生。社員も全容を知らない本間が歩んできた人生とは、一体どんなものなのでしょうか?今回から2回にわたって、弊社代表・本間の人生をインタビューを通してエッセイ風に振り返ります。前編である今回は、学生時代を中心に、その原点に迫ります!
ドコドアに興味がある方だけでなく、これから新たなステージに足を踏み入れられる方、起業を考えていらっしゃる方、全ての皆さんに読んでもらいたいです!
両親と同居していた祖父母、全員が教師という家庭の次男として生まれました。父が三兄弟の長男だったこともあり、女の子を期待していた祖母の目には落胆の色が浮かんでいたとか、いなかったとか...。思い返せば、幼少期はどこか閉鎖的で息苦しいものでした。とにかく活発だった私は、家の中でも、近所でも、保育園でも、常に叱られていた記憶しかありません。
特に母親のしつけは厳しく、おもちゃを買ってもらったこともなければ、好きなテレビも観せてもらえることもありませんでした。NHKの「おかあさんといっしょ」でさえ観せてもらえず、記憶に残っているのは大河ドラマくらいです(笑)
ただし、習い事と本だけは好きなだけ与えてもらえました。就学前に母親の実家へ預けられている時もひたすら本を読んでいました。横山光輝さんの三国志を初めて手にしたのもこの頃でした。
年中の時に、3歳上の兄に憧れてピアノを始めました。頑張って小3くらいまで続けましたが、予習復習ができないせいで毎回ピアノの先生に怒られていました。どうやら、音楽の才能はなかったようです。毎週ピアノ帰りに一人で帰宅する暗い夜道がとても怖かったことを覚えています。このせいもあってか、今でも火曜日が少し嫌いです(泣)
私が通っていた小学校は、全校生徒が300人弱の小さな学校でした。私の学年は、6年間ずっと1クラス。狭い世界でしたが、その分、いろんなことに挑戦できる機会がありました。スポーツや金管バンドなど、選択する余地などなく、全員参加が当たり前。けれど、その強制された環境こそが、飽きっぽい私にとってはちょうどよかったのかもしれません。
低学年ではベテランの独身女性教師が担任でした。 ある日曜日、突然先生の家に呼ばれ、授業で描いた絵の書き直しを命じられました。理不尽だな...と思いつつも描き直した絵が、なぜか県展で県知事賞を受賞。受賞理由は作品性やクリエイティビティなどではなく「足の裏を描いたから」らしいです(笑)
中学年では、若手の体育教師が担任に。きっと私が生意気だったのでしょう。授業を受けさせてもらえなかったり、今だと大問題になるような出来事が多々ありましたが...詳細は伏せておきます(笑)
この頃からそろばんを習い始めました。どうやら性に合っていたようで、習い始めてすぐに県大会に出場させてもらいました。 特に暗算との相性が良く、今でも頭の中にビジュアルを思い描いて処理をする癖はこの経験にルーツがあると思っています。
高学年になって、ようやく「当たり」の先生に出会いました。今でも鮮明に覚えているのが、安西冬衛さんという詩人の「てふてふが一匹韃靼海峡を渡って行った」という、たった一行の詩から感想文を原稿用紙10枚以上書くという課題でした。正直、かなり苦労しましたが、最終的には40枚以上書くことができました。勝手に書いた後書きだけでも10枚という暴走ぶり(笑)。授業でディベートをしたり、ホームルームでギターを演奏したり、学校が楽しいと思えた唯一の時期でした。
この辺りからスポーツにも積極的に参加し始めました。陸上や水泳、バスケ、少年野球...野球以外は全て強制参加でしたが、100m走と50mバタフライでは市内記録で優勝して、今でも学校に記録が飾られているのがちょっとした自慢です。特に水泳では、表彰台に上がった中でスイミング教室に通ってなかったのは私だけ。それが少しだけ話題になりました!人口10万人に満たない小さな市内での小さな出来事です。正に井の中の蛙でした(笑)
それまでは、休みの日に一人で過ごすことが多かったですが、スポーツを通して友だちと呼べるような存在ができ始めました。
小学校時代は、休み時間にハイチュウを食べて罪悪感を感じるような純真な子どもでしたが、中学の入学前後でその空気は一変しました。まるでヤンキー漫画に出てくるような先輩たちに囲まれ、「頑張ることがダサい」とされる空気が支配するようになります。 地元には、努力や意欲を表に出すと浮いてしまう、独特の逆マウント文化が根付いていたのです。部活にもほとんど顔を出さず、放課後は友人宅でだらだらと過ごす日々。。 この風潮は今でも地元に根強く残っています(泣)
中学校も4クラスほどの小規模校だったため、勉強面ではそこまで困ることはありませんでした。授業だけは真面目に聞いて、テスト前に一夜漬けするだけで毎回学年トップ。そんなスタイルで、塾にも通わずにやり過ごしていました。全体的なレベルが低く、競争のない小さな世界で過ごしていました。
しかし、2年生の半ばあたりから同級生たちも荒れ始め、授業がまともに受けられない状況に。私もその流れに飲まれて、徐々に授業から遠ざかっていきました。3年になると教科書すら開かなくなってしまい、成績は急降下。さすがにこのままではまずいと焦り、冬休みから近所の塾に通い始めました。
年末年始には、新潟市内のホテルで開催された合宿型の特訓にも参加。そこで出会ったのが、「勉強はできるけど、しっかり遊ぶ」タイプの、まったく新しい世界の人たちでした。彼らとの出会いは、私の中で閉ざされていた視野を一気に広げてくれるものでした。
そのおかげもあり、なんとか地元の進学校への合格を手にします。とはいえ、この時点ではまだ、明確な目標や将来のビジョンはまったく持っていませんでした。Windows95が発売された直後ですが、一般家庭ではインターネットの普及率が0に近いような社会情勢であり、東京と地方の情報格差が激しい時期でした。そんな中でも、我が家にパソコンがあったことには、両親に感謝しています。
進学校に進んだものの、授業に真面目に取り組んでいたのは最初だけ。すぐに他のことに夢中になり、気づけば出席日数が足りず、毎年のように年度末は補習を受ける羽目になっていました。
1年生の頃にクラブカルチャーにのめり込み、2年生でDJデビュー。HIPHOP、HOUSE、TECHNO、Acid Jazzと、ジャンルを問わずイベント運営に没頭していました。スノーボードにもハマり、学割定期を活用して昼はゲレンデ、夜はクラブという、今考えるとカオスな生活を送っていました。
最初に始めたアルバイトはマクドナルドで、時給600円スタート。当時はPDCAという言葉を知りませんでしたが、マニュアルが整備された中で、日々改善を重ねるオペレーションの姿勢に感銘を受けたのを覚えています。今の「仕組み化」や「標準化」という考え方の原点は、もしかしたらこの経験かもしれません。
そんな高校生活の中で、通算3回の停学処分を受けることに…。3回目の停学時には退学も覚悟しましたが、なんとかセーフ。その代わり、坊主にさせられました。停学中に時間を持て余していたある日、なんとなく描いた絵を見た祖母から「美大を目指してみたら?」と意外な一言。調子に乗って美術の先生に絵を見せると、まさかの酷評。悔しさが募り、突如美術部に入部します。いきなり問題児が入ってきたので、部員の皆さんはさぞ迷惑だったと思います…。
美大受験も意識し始め、美術予備校に通ってデッサンなどの訓練も始めましたが、遊びの誘惑には勝てず、数ヶ月で挫折。とはいえ、このとき身につけた感覚が、後々の受験に活かされることになります。
高校で停学を繰り返している中でも、生徒会選挙でなぜか生徒会長に当選。しかし、特に目立った活躍もできず、そのまま卒業へ向けて迷走は続きます。当時の私は、将来のことなんて何も考えておらず、「ストリートアーティストになりたいな」くらいの感覚で、デザイン系の専門学校を専願受験していました。
そんな中、3年生の1月中旬。春休みに予定していたスキー場でのアルバイト中に学校から連絡が。なんと、10教科中9教科で出席日数が足りないということで、泣く泣くアルバイトをキャンセルし、春休みは毎日学校へ通うことに。
このタイミングで、ようやく親や先生の勧めもあり、初めて「大学受験」を考え始めます。ただ、時はすでにセンター試験終了後。選択肢は少なく、アパレル系や家政系といった、デザイン系の2次募集の中から選ばざるを得ませんでした。最終的に選んだのは、長岡造形大学・産業デザイン学部。ここから、また新たな寄り道が始まります。
大学生活が始まり、最初のうちは真面目に授業に出ていました。しかし、やはり長くは続かず、1年の夏休み以降は授業に出なくなりました。代わりに情熱を注いだのが、クラブイベントの運営とアルバイトです。
とくにHIPHOPのダンスにのめり込みました。当時はLDHなどのダンススクールもなく、完全にストリート中心。駅前のガラスや鏡の前で、好奇の目に晒されながら踊っていました。とはいえ本気で取り組んでおり、東京へ遠征したり、有名な先生の元でレッスンを受けたりと、精力的に活動していました。
この頃に、現在「スタジオf」を経営する本間社長と出会い、一緒にイベントを企画・出演するなど、仲間との活動が生きがいのような日々でした。クラブイベントでは、DJやダンサーとして出演したり、Tシャツなどのグッズを制作・販売するなど、今で言う「学生起業」のようなこともしていました。ブランド名は“Street Mania”。完成度はともかく、当時の自分たちには誇らしい挑戦でした。
アルバイトも、ただの生活費を稼ぐ以上の意味を持っていました。特に印象に残っているのは、DJブースのあるショットバー。週末にはクラブイベントを開催し、夏には海辺でレゲエフェスを主催するような、まさに憧れの詰まった空間でした。その環境に惹かれて起業を決意し、大学を中退しました。2年の夏、夢を追って大学を離れたのです。
こうして私の大学生活は、学業ではなく、クラブとアルバイトの記憶だけが残るものとなりました。そして、これがのちの「底辺生活」の幕開けでもありました。
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