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dot button company株式会社が出来るまで。体験を開発する会社?!ってなんなんだ。

2017年3月の設立以来、ありがたいことにいろんなご相談をいただき、日々楽しくプロジェクトに取り組んでいます。けれど、怒濤の日々でもあり、なかなか立ち止まる時間がないのも正直なところ…。

そこで、普段一緒にお仕事をしているライターさんに、考えの棚卸しも兼ねてお話を聞いてもらうことにしました。代表の中屋のインタビューです。

多種多様なお客様とプロジェクト
ーまずは、改めて中屋さんの自己紹介と、普段どんな役割でお仕事をされているのかを教えてください。

dot button companyの代表・中屋祐輔です。代表といいつつ、私はプレーヤーでもあります。各プロジェクトのプロデューサーも担っています。

ー〝プロデューサー〟というと、幅広いことを手掛けると思うんですが、一言で表すとどんな役割だと思いますか?

まず、お客様が課題と感じていることの本質を認識するのが第一であり、それに対して自分たちが蓄積してきたナレッジを組み合わせることで新しいシナジーを生み出すことだと考えています。もちろん、責任ある立場でもあるので最後の最後まで一緒に並走させて行きます。

ーなるほど。つぎに、dot button companyの事業内容についても教えていただけますか?

dot button companyの事業内容は会社のメッセージに集約されますね。
「体験を開発する会社」変な日本語に感じてしまわれるかもしれませんが、
私たちが日々の仕事として取り組んでいることは食だったり、空間、はたまたコミュニティプラットフォームだったりと意識的にも無意識的にも人が感じる心の部分を中心に企画や設計を行っています。
とても定量的には測りきれない部分でもあるんですが、例えばそこに素敵な場所があったとして一瞬感動を覚えると思うんですが、それだけではなく、そこに人との出会いや、美味しい食事があるだけで何倍にも記憶に残る体験になると考えているんですね。
なので、一言でいうと「体験を開発する」なんですが、それを実現するためには体験する人がタッチするポイント全てを考えなくてはならないんです。
なんだか、話しがややこしくなってきましたが地域の食材の提供方法を考えたり、その場に参加できない人のために映像を残したり、あとで文章として読めるようにライティングしたり、事前事後も含めた体験開発に関わる企画を創っています。

ーセールスシートも作成されましたよね。あれを拝見させていただくと、dot button companyのことがよくわかります。


周りに知ってもらうために、できるだけ見える化したいという思いから、作成しました。他に、すでに実績として公開している代表的なプロジェクトだとこのようなものがあります。

熊本県高森町のファンクラブ「FAMILY TREE TAKAMORI」を結成
宮崎県の名物・もち米鶏しゅうまい「鶏鳴」のクリエイティブディレクション
熊本県のイベントにて、一流シェフと熊本県の生産者によるコラボレーションメニューを販売
小学校で防災教育プロジェクトを実施

ー地域にかかわる仕事が多いイメージがあるのですが、その認識は合っていますか?

現在、実績として出している仕事の多くが地域にかかわることもあって、そう見られることも多いです。実際、数も多いんですが、地域の仕事が中心というわけじゃなくて。特に最近は、ナショナルクライアント様からメディア戦略の相談をいただいたり、地域一帯を舞台にしたプロモーションの相談が来たりもしています。うちの会社くらいの規模で、学校・研究機関・大企業・地方の行政やNPO等などまったくタイプの違うお客様と仕事をしてる企業は珍しいのかなと思ってます。

ー事業内容もさまざまなら、お客様もさまざまなんですね。相談は、どのように持ちかけられるんですか?

明確に「これをしてほしい/作ってほしい」などと依頼されるんじゃなく、「プロモーションに力を入れたい、どうしたらいいか相談に乗ってほしい」といった感じで話をいただいて、最初はざっくりとしたディスカッションから始まることが多いですね。私としてもあまり、要件が固まっている、いかにもな受託プロジェクトというのが苦手でして…。

ーディスカッションして、どういったことをすべきか決めるところから案件がスタートするんですね。

そうですね。話を聞きながら現状を整理して、どんなプロジェクトをどのように進めていくべきかを決めていきます。

ー最近はどんな相談が多いですか?

地域からもナショナルクライアントからも共通して寄せられるのは、リアルとWeb問わず「場(舞台)作り」や「体験作り」に関する相談が多いですね。ファンをつくったり、読者とつながりをもったり、そうすることでエンゲージメントを高めていきたい、というものが多いです。


ー中屋さんはもともと会社員だったじゃないですか。どうして会社を立ち上げたんですか?

会社員としていろんなプロジェクトに携わる中で、まず「中屋のノウハウを活かしてくれないか」と会社に属しながら個人への仕事の相談が増えてきて。会社員との両立が厳しくなってきたので悩んだ挙句独立を選択しました。けれど、私の仕事は私1人で到底できるものではなくて会社のメンバーや、いろんなクリエイターの方とタッグを組んで成果を出す類のものが多くて。パートナーの皆様にも信用してもらうためにも、お客様に安心感を与えるためにも、法人格を持つ株式会社という形態にした方が望ましいだろうと思って、dot button companyを立ち上げることにしたんです。


ー一方、個人としての中屋さんは、変わったキャリアをお持ちですよね。

そもそも昔はギタリストを目指してました。音楽の専門学校に進学して、高校にもあんまり行かず毎日ギターを練習し、バンド練習に明け暮れていたんですが、高校卒業が近づくにつれメンバーの生活環境もどんどん変化して、最終的には一人になりバンドは自然消滅的な形で終えました。一緒に音楽をやっていた先輩や同級生の中には、プロになって、世界を飛び回っている人もいる。けれど、僕が所属していたバンドはなかなか結果が出なかった。当時の自分の行動に対する浅はかさや、自分よがりな性格は後に社会へ出るとき、随分と洗礼を浴びる結果になりました(笑)

ー音楽ではない別の道に進もうと思ったのはどんなきっかけがあったんですか。

本当に心の底から音楽を諦めたくはなかった。でも、親父が病気になってしまって。家族を支えるためにも、まともに働こうと決意したことが、人生の大きな転換点となりましたね。それで、地元にオープンした株式会社ライトオンの店舗にアルバイトとして入ることになるんですが。

ーライトオンに入ったのは、洋服が好きだったからですか?

というより、正直なところ「洋楽を聞きながら働くことができるから」でした(笑)。どこか働くことを決意したんだけど未練がましくもそんな動機でしたね、ただ仕事は辛いことも多かったけど、たくさんの人生の先輩たちから服の知識や遊びを教えてもらって、楽しく一生懸命に働きましたよ。そうこうしていると、契約社員、社員へとステップアップしてた。それが、初めての就職と呼べるものですね。その後、大きな売上店の店長になり、500店舗ほどの中で全国3位の売上を上げられたときはうれしかったですね。

ーアルバイトから店長まで!一気に駆け上がって、その後マーケティングの道へ進むことになるんですか?

店長をしてからは自分でも驚くように50名近い社員、スタッフがいるお店でしたが、順調に売上を伸ばす事ができたんですよね。そんなこともあって、中屋の実力じゃなくて店舗の立地や店舗スタッフのおかげで売上が伸びていて、本当はそんな大した力ないんじゃないの?とも思われていたと思います。
それなら、近くの古い店舗で、長く働いている方もたくさんいて売上が下がっている店舗に異動させてみてはどうだという感じで、大阪にある当時7年以上経過し、店もお世辞にも綺麗とは言えない、隣は回転寿司屋さん、極めつけにバックストックは常に魚市場のような匂いがする店舗へ異動を命ぜられました。
それで、悔しさと、自分に実力があることを証明したいという思いで、なんとかこの店舗をモデル店舗にできるくらい素敵なお店にするための奮闘が始まりました。日々スタッフとの意見の食い違いで喧嘩したり、自分の年齢(当時22才)から甘くみられてしまうこともしばしばでした。
そこで考えたのが、自分に欠けているもの全てを短期間で店舗マネジメントを通じて吸収してやろうという反骨精神でしたね。まず、店舗マネジメントと書いてある本は片っ端から買いあさり、スタッフとのコミュニケーションがうまくできるようになってくると、次は売上を上げること、販売促進、マーケティングと書いてある本は片っ端から読み漁りました。それこそ、朝の時間に30分、昼ごはん食べながら1時間、店を片付けながら30分、家に帰る前にカフェで1時間、自分自身が一番驚きましたがギターにハマってた毎日と同じようで熱中して過ごしてましたね。一日に1冊以上、2年近く読み続けて本棚を何回か買い足すほどになりました。そんな毎日を過ごしていたら自然と若造だった私をみんなが慕ってくれるようになり、中屋さんから聞いた作戦を実行したら売れました!とか、頭の中が整理されてお客様との会話がスムーズになりましたと言ったことを言ってもらえるようになり、売上も店の雰囲気も一気に良くなっていき、中には、主婦の方だったんですが、全国で5000人近いアルバイトさんがいる会社の中で個人での売上がNo.1になる方も出てきて、学習と実践の成果を肌身で感じられた経験が自分のベースを作っているように思います。

ーなるほど、そんな経緯があったことに驚きました。働きながら毎日1冊の読書はなかなか継続できないですね。

有名な本や、名著と言われる本は全部読んだし、マーケティングのフレームワークはたくさん頭に叩き込んだつもりでした。そんな僅かですが自分に自信がついてきた時に西日本で注目の大型商業施設ができる話しが上がってきて、そこの立ち上げを任されることになったんですね。それこそ、今まで学んだことの総決算だと息を巻いて必死に良いお店を作ろうと取り組むことができました。結果、初代店長だった自分の時の売上が以降も破られてないと人伝てに聞いた時には少し誇らしく思ったものです。
冒頭にも言いましたが西日本で注目の大型商業施設ということで、本社からも社長はじめたくさんの役員さんが店を訪れました。そこで私の存在を知ってもらうことができたんですね。なんだか新卒じゃないけど、生意気にも血気盛んで勢いがある奴がいるらしいぞと。そこで、自分が学んできた中でも一番興味のあったマーケティングの責任者がきた時に、目一杯アピールしたんですよね。傍目にはおしゃべりな変な奴に見えてたかも知れませんが(笑)。ただ、その成果があってかどうかはわかりませんが、ほどなくして本社でマーケティング職が公募されると教えてもらい、ダメ元で手をあげました。11名くらいの僕よりエリートな方々がいたので厳しいかなとは思いましたが、お店に来てくださったマーケティングの責任者が中屋に決まったからと電話をくださいました。天にものぼる気持ちでしたが、すかさず、それまでに何を勉強しておけば良いですかと質問した時に、しなくて良いからたくさん雑誌読んでおいてね。と言われたことが、思っていたことと違いすぎて今でも鮮明に懐かしい記憶として覚えています。

ーそこから中屋さんのマーケティングのキャリアが始まるんですね。

本社でマーケティング担当者となっても、まともな社会人経験がないので相当苦労しましたね。
ある時、今から商談があるから来客室に来なさいとお達しがありました。私は喜んで一番乗りで部屋に入ったんですね。そこでまずは名刺交換だ!と、役員や先輩を差し置いていの一番に名刺を差し出しました。後からもちろん怒られたんですが、こんな恥ずかしい失敗は山のようにあります。なぜなら地方のジーンズ屋とバンドでギターしか弾いて来なかった人間が新卒研修もろくに受けず、いきなり現場の最前線へ送り込まれたらこうなるよね。と何度恥ずかしくて赤面したか…。
その一方で仕事は億単位の金額を動かすエキサイティングな内容でとても経営の中心にきた実感を持てるものでした。だんだん業界のルールが分かってくると、また挑戦したくなる血が湧いてきて、広告代理店を通さずに直接レコード会社と契約を交わし、海外アーティストをPRに起用する仕事もやらせてもらった。それ以外にも、自分が面白いと思い挑戦したいと思ったことは一通りやらせてもらえたことには感謝しかないですね。

ーとても順調にキャリアを歩む中で、2社目のシナジーマーケティングに転職するきっかけはなんだったんですか?

色々ありますが一番のきっかけは親父の入院ですね。やはり、生来の自分はやりたい放題、あれがやりたい、これがやりたい、ギターが欲しい、小学校時代にはサッカーでブラジルに留学させてくれ。など私の我儘が父親に負担をかけていただんじゃないかと歳を重ねるごとに自責の念を感じて生きるようになっていました。そして少しでもそばに寄り添っていきたい、何ができるわけではないけど地元の大阪へ戻ろうと思って決断しました。仕事としては当時、偶然手に取ったハーバードビジネスレヴューにデジタルマーケティングやオムニチャネルのことが書いてあって、これこそが自分がやりたいことだ!と思い、顧客との関係性を軸にデジタルマーケティングをドメインにしていたシナジーマーケティング社にお世話になることになりました。

ー転職後は、やりたかった仕事ができましたか?

自分の予想に反して、システムの提案が多かったので、ここでもまた初心者に逆戻りしクラウドシステムとはなんなのか、スクラッチで組むシステムは何故コストや保守費用などが高くなるのか、サーバーって一体何の役割を果たしているのか。など今まで見て触れるモノを売る仕事が中心だったので、そのあたりの概念的なことから理解するのに苦労しましたね。ただ、その仕組みがわかれば、また自分の強みである違った視点の組み合わせや既存のサービスとの連携方法など、どんどんとアイデアが浮かぶようになってきました。また、一番の収穫としてはクリエイティブという右脳で定性的にしか計測できないと思い込んでいたことがデジタルの世界では定量的に評価することができるということを知れたことですね。かっこいいクリエイティブは今でも大好きですが、それをどう扱うかは定量的でロジカルな観点でも評価できることは知る前と知った後では仕事の幅、考え方の幅が格段に広がった感覚を得ることができました。
そんなワクワクする武器を持って某テーマパークの顧客データ検証を行ったり、アパレルセレクトショップのコミュニケーション改善の企画に携われたことはとてつもなく自分の思考をアップデートしてくれました。

ーさまざまな業種のクライアントとお仕事されていたんですね。

そうですね。次の転機は2014年。シナジーマーケティングがYahoo! JAPANの子会社になったときですね。私はちょっとしたきっかけからYahoo!復興支援室のメンバーとして仕事をさせてもらうことができたのです。大阪時代にプロバスケチームのファンクラブシステムのリニューアル企画を担当していた経験のおかげで(笑)

ーお仕事の内容はどんなものだったんですか?


まずは、宮城県石巻市にある石巻元気商店という、震災後に女性社長が始めた海産物を中心とした地元産品のECストアの顧客調査から始めました。女性社長と数人のパートさんで回されている小さなストアさんでしたが、全国からの復興を願う方からの購買がたくさんあり、小さなストアと言えどお客様の傾向ははっきりと違いが見えましたね。
そこで、ビジネスとして継続性があるのはこのクラスターで……、などと解説をしながら石巻の町との距離がどんどんと近くなる感じが心地よかったですね。
その後、一番記憶に残る仕事のひとつと言っても過言ではない、石巻を中心とした若手漁師団体”フィッシャーマンジャパン”との出会いですね。事務局長である長谷川琢也さんは、Yahoo!の正社員でありながら漁業団体の事務局長という中心を担っていたんですね。それは、もう私として会社員としてプロボノしていた経験があったとしても、一体どういうことなんだと衝撃を覚えました。
結局のところ大きな会社であっても自分が社会の一員として大切だと思うことを会社に伝え、様々な調整の大変さがあったとしても信念を貫くこと、そして多くの共感者(仲間)を集めることで壁を超えていくことができるんだと身をもって教えてくれた師匠のような存在ですね。
仕事の話からはだいぶ外れてしまいましたが(笑)。
仕事では、当初1000人程度の規模でしかなかった”フィッシャーマンジャパン”のファンクラブを、一年で1万人に増やしたいと依頼されました。ミュージシャンでもスポーツ選手でもない漁師のファンクラブを一年で1万人以上にするという。とんでもないミッションだったわけですが、本当に様々な施策や協力を得て1万人を突破することができました。
それから、福島の農家さんを応援するチームふくしまプライド。のファンクラブ化や熊本県の高森町でもファンを作って行くという挑戦に繋がっていきました。
そして、そんな風に様々な地域に足を運んだり、はたまた東京のスタートアップ企業の支援だったり、自分の中で育まれてきたノウハウが色々なチャレンジを重ねることで普遍的な価値提供として貢献できる実感を得ることができました。その感覚こそが自分に自由を与えてくれたと思っています。

ーそこからの独立、起業なんですね。

自分のキャリアを思い返すと、「将来会社を作るぞ」なんて思ったことはなくて。目の前の仕事を一生懸命にしていたら、今の仕事に辿り着いたと感じています。
これから一緒に働く方には、これが絶対やりたいと思っている人はウェルカムですし、今は情報がありすぎて選びにくい環境だとも思ってます。一緒に働くことで得意が見つかれば良いですし、とにかく私から言えることは、不確かなこの時代の中でも懸命に自分と向き合って、他者にとって何か価値が提供できる人になれば、それで十分素敵なことだと思っています。

初登校ならぬ初出社にて@世田谷ものづくり学校

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