世界のHONDAに憧れ、世界のYUUKIを目指す。
第一部
13歳で必ず乗ると決めたバイクはCB400Four。学習机の中には常にバイクの雑誌が入っていたほどの無類のバイク好き。
憧れは、HONDAのバイクと漫画の中の鳶職の男たち。早く手に入れたくて、中2からこっそりバイトして16歳でバイクを購入。仕事は過酷で、当時は胃に穴がくほどつらかったが、地元の怪物社長(ワンピースの白ヒゲ)の元で鍛えられたおかげで強靭な心を手に入れた。雨でも雪でも無休。過酷な仕事の合間、憧れのバイクで仲間と走る時間が何よりの息抜きだった。 あの頃一度は手放したバイクを25歳のときに再購入。1から自分で組み立てた1974年式のバイクCB400Fourで新車登録できた日は感無量だった。今でもバイクをいじる時間は至極。走る時間はめっきり減ったけど、それでも大切な時間であるのは変わらない。 バイクがきっかけで敬愛し始めた本田宗一郎がエンジニアを貫きながら”世界のHONDA”になったのは44〜45歳の頃。
ゆうき総業の社長として、まだ数年の猶予がある。世界のYUUKIを目指して、まずはロゴを変更した。
世界に轟くYUUKIブランドとして刻印できるロゴに、世界への決意を込めた。ロゴがジュっと刻印されたオリジナル自社ブランドの製品を作り、
世界展開することが今の夢だ。HONDAのバイクには、俺にとっての人生とロマンが詰まっている。
ホンダCB400Fourも、会社も、HPも一から自分で作る。
第二部
自分で作っていくプラモデルみたいな感覚で人生を歩んでいる。 ゆうき装業を始めた頃は、今の常務2人と生きるための道を死に物狂いで模索した。
生き残るために背伸びして受けた仕事で失敗し、別会社で修行して身につけた防水と左官。技術を習得することで需要をキャッチしてきた結果、多能工として基盤ができた。自分でHPを早々に立ち上げたことも功を奏し、今でも新規獲得は問い合わせ経由が多い。
必死だったけど、不思議と悲壮感はなく3人で汗水垂らして働くのには充実感と達成感があった。ブルーシートに囲われた6畳の事務所も、新しい機械が増える度につい嬉しくて歩き回った倉庫も誇らしかった。
昔の豆腐屋や佃煮屋と同じように時代と需要が移り変わり、役目を終えていくものがある。業界そのものがなくなり、将来自分たちもペンキ屋ではなくなるかもしれない。これからも塗装や左官に執着しない。仲間と走り続けるために、時代に合わせて会社と事業は柔軟に塗り替えていく。
ゆうき総業の法人化を決めた30歳の時、仲間を守りたいという思いが強くなった。山形の冬は過酷で、冬場は積雪で仕事にならない。季節雇用制度を活用して、12月〜3月は休業しスキー場のアルバイトで食い繋ぐのが通例だったが、どうしても納得できなかった。季節雇用制度に頼らない通年採用を実施し、冬場に働ける県外の仕事も積極的に受けてきた。
全国でも珍しい充実したショールームで地元基盤を固めつつ、今後はオリジナル自社ブランドを開発し、New Yorkに支店を出すと決めた。
100億、1000億を超えても、現場が居場所。
第三部
業界の先輩に言われた「社長ってやつは、3億いったら社長室から出なくなるもんだ」の一言。帝王学を学んだ今でも、いまだに理解できない。現場は俺にとって、楽しくてエネルギーが湧く場所。本田宗一郎がそうであったように100億でも1000億でも、一生現場に出続ける。
俺の幸せは仲間と同じ飯食って同じ格好で同じ仕事をすること。だから社長だけどトイレは毎日掃除するし、夜間作業でモルタルだって運ぶ。タイル屋も左官屋も工務店も同じ。一緒に仕事する人とは同じ釜のメシを食う仲間でいたい。創業当初、夜の事務所での技術談義は本当に楽しかったし、扉が外れるぐらいの中古車、1Kに8人で雑魚寝した県外の仕事は今では笑い話だ。今でも変わらずどんなに遅い現場でも誰かのピンチには一目散に駆けつける。緊急の夜間作業でもヘルプを伝えたら20人ぐらいがバーッと集まる。外壁塗装が一大イベントだったあの頃から泥臭い働き方が自分らしい。
もう一つ決めていることがある。それは、営業会社にはならないということ。営業会社の方がきっと効率よく稼げるんだろう。鈍足だって言われるかもしれない。でも、それでいい。技術に誇りを持って外注依存にならない社内体制があるから需要に応え続けられる体制ができつつある。
技術屋としてNo.1を目指すことが自分の夢であり、ロマンだ。
山形、東北、New York。
第四部
身につけたいのは、他を寄せ付けないほどの圧倒的技術力。多能工として技術を底上げし、山形No.1から東北No.1へ。そして、世界の中心ニューヨークにゆうき総業として店を構える。でも、正直、俺らが指導しても今の若い子たちには響かない。2〜30代と7〜80代はまさに異次元で、自分たちが継承の橋渡しをしなければ、十年後の日本の塗装技術は現在の2割も受け継がれないまま衰退の一途をたどってしまう。継承に使命感を感じたのは40代になって人からの恩や縁を意識し始めたから。恩返しをしようにもできない人もいる。だから、俺がもらった恩は後世に送ることに決めた。
塗装の奥深さにハマった21歳のころ、師匠から大塚製の“筑波”の30号という刷毛をもらった。昔は師匠から刷毛を貰い受け使う文化があった。天井を塗って、顔にポタポタ垂れなくなるまで練習しろとの言葉を思い出し、家で練習に明け暮れるほど嬉しかった。今の若い人たちに当時されて嬉しかったことを返していく。 2023年に立ち上げた一般社団法人日本多能工協会で掲げている新しい3K、”向上・拡散・継承”。次世代に技術を受け継ぐため「見て覚えろ」は廃止。学校で教える取り組みも実施している。7〜80代の大ベテランはデジタルなんて知らない超アナログ世代。方法だって驚くほど原始的なやり方をしている時もある。それでも、この道50年はやはりレベルが違う。近年は便利なローラーが主流だが、寸胴刷毛の使い方も後世に残していく。
使命は継承。技術への誇りを後世につなぐ。
だから、人の役に立とう。
第五部
土木会社に居た頃。そこの社長とけんかしてしまい、ダンプを置きっぱなしにして、そのまま家に帰ってしまったことがある。その社長に言われた言葉が、忘れられない人生の教訓。 「お前は一生ろくな人間にはならないよ」 まさに人生どん底。そこから、人生のターニングポイントにはいつも人がいた。 何も出来ないクソガキだった俺を愛情込めて叱り続けてくれた第二のオヤジ 16万円の機械を10回払いでいいよ「がんばれ、あなたはきっと大きくなる」と言って仕事をくれた材料屋の社長 俺のHPの師で毎日毎晩電話するほど面倒を見てくれた曽根塗装店の曽根さん 最年少だった俺に交流会から塗魂ペインターズとのきっかけをくれた元塗魂ペインターズの会長・安田さん、池田さん、原田さん。 ”結城さん、俺はあんたに賭けてるんだよ”と仕事の面倒まで見てくれた抜刀道の先生。 あげ出したらキリがないが、この人たちは本当に裏切れないと思った。 塗魂ペインターズのボランティアで行ったハワイで、遮光塗料をまとった真っ白な学校を見た時には込み上げるものがあった。靖国神社の神社内境内塗装にも携わり、社会貢献支援財団で表彰されるまでになった。 だから、人の役に立とう。に集約したんだ。