皆様どうも初めまして!
人と話すのが大好きなエネルギッシュなミャンマー人カウンでございます。令和7年の6月よりジンザイベースで勤めることになりました。
元気と明るさだけで生きてます!そんな私だからこそできる貢献を、楽しく全力でチャレンジ中です!
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私のモットーは「笑顔第一」。どんなときでも笑顔を忘れません。
これからは、カウンがどんな人なのかを、皆さまに少しずつご紹介していきたいと思います。最後まで読んでいただけますと幸いです!
<プロフィール>
2013年3月 No (1) Basic Education Middle School Nay Pyi Taw 卒業
2013年4月 世田谷区立玉川中学校 入学
2015年7月 世田谷区立玉川中学校 退学
2016年6月 ピィンニャーパンタイ私立高等学校 入学
2017年6月 ピィンニャーパンタイ私立高等学校 卒業
2017年12月 モーラミャン大学海洋科学部 入学
2023年12月 モーラミャン大学海洋科学部 卒業
2018年1月 Glory Japanese Language School (日本語教師)アルバイト2020年1月 Japan Training Center Mawlamyine (日本語教師)アルバイト2024年7月 Qualy 株式会社 入社
2025年6月 Qualy 株式会社 退職
2025年6月 株式会社ジンザイベース 入社
ミャンマーから日本へあらすじ
私は2000年に、ミャンマーの旧首都ヤンゴンで生まれました。
7歳までヤンゴンで過ごし、その後、現在の首都であるネーピードーへ引っ越しました。
日本へ来るまでの間、ミャンマーでは中学生として、自然に囲まれた穏やかな日々を楽しく過ごしていました。
もともと自然が大好きだった私は、ネーピードーの静かで山に囲まれた環境がとても気に入っていました。
首都とはいえ、自然が豊かでのんびりとした雰囲気の中で育ちました。
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今現在の首都であるネーピードに住んでいましたが、私の暮らしていたのは町のはずれで、自然がとても豊かな場所でした。まるで日本の長野のような、穏やかで心落ち着く風景が広がっていました。
1度目のミャンマーから「日本」へ!
2013年には、私の父が日本・東京にあるミャンマー大使館で働くことになったため、私たち家族3人はミャンマーを離れ、東京都世田谷区で3年間暮らすことになりました。
ミャンマーに居た時はまだインターネットなどの情報も少なく、正直、日本という国がどんな国なのかもほとんど知りませんでした。
でもひとつ、強く記憶に残っているのは、ミャンマーでよく使われていた「富士(フジ)」という名前の洗剤です。
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今現在でもミャンマー中で使われています。
それが「日本にある有名な山の名前だよ」と聞いて、子どもながらに「日本って、どんなところなんだろう?」と、少しだけ想像を膨らませていたのを覚えています。
初めて訪れた日本の景色は、すべてが新鮮で驚きの連続でした。 「電車って、こんなに便利で静かなんだ!」と、感動しっぱなしだったのを今でも覚えています。
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初めて桜と撮った写真です。
日本語が全くわからない状態で日本の中学校に通い始めた私は、最初は戸惑うことも多くありました。
それでも、クラスメイトの友達が優しく日本語を教えてくれて、少しずつ言葉を覚えながら楽しい日々を過ごすことができました。明るく、人と話すのが大好きな性格のおかげで、先生方にもよくしていただき、今でも忘れられない、大切な思い出となっています。
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日本語が全く話せない私に優しく日本語を教えてくれた友達です。
父の3年間の任務が終わり、私たち家族3人は再びミャンマーへ帰国することになりました。
当時住んでいた家のベランダからは、美しい富士山を望むことができました。 毎日そのベランダに座り、富士山を眺めながら語りかける――そんな日々は、今でも忘れられません。しかしそのとき、私は最愛の富士山と一度お別れしなければなりませんでした。
訪れた思いがけない災難
ミャンマーに帰国後大学生活を送っていたある日、世界中に多くの被害をもたらした新型コロナウイルスの流行が私の暮らしにも影響を与えました。
大学は突然休校となり、学びの場も生活のリズムも奪われてしまいました。
その混乱が続く中、祖国ミャンマーではクーデターが発生。私は心の中で何度も問いかけました。
「もう日本には行けないのだろうか?」
「ミャンマーと日本の架け橋になるという夢は、もう叶わないのだろうか?」
「愛する富士山には、もう二度と会えないのだろうか?」
不安と絶望で、何度も諦めそうになりました。けれど、私は――決して諦めませんでした。
「必ず富士山にまた会う。」
そう心に誓ったあの日の自分との約束を、何があっても守り抜こうと決めたのです。
自分の“武器”である日本語で、人の役に立ちたい!
そんな中で私が選んだ行動は、自分の得意な日本語会話を活かして、他の人の力になることでした。
日本での面接に備えた学生たちに、会話の先生として日本語を教える日々が始まります。
ただ教えるだけでなく、「日本で困らないように」「面接でも堂々と話せるように」そう願いながら、一人ひとりと向き合ってきました。
その結果、私が教えた生徒15名が日本での面接に合格し、実際に日本で働いています。
これは、私にとって何よりの誇りであり、夢への大きな一歩でした。
再び日本へ
以前、私が日本語教師としてアルバイトをしていた日本語学校を運営している社長とご縁があり、「日本で働いてみないか?」とお声がけいただきました。
そのおかげで、もう一度日本に渡り、そして大好きな富士山に再び会えるチャンスをいただくことができました。本当に感謝の気持ちでいっぱいです。
そして大学を卒業した後、昨年の7月に再び来日することとなりました。
懐かしい景色、そして何よりも心から愛している富士山と再会できたとき、心が温かくなり、「戻ってこられてよかった」と素直に思いました。
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再び愛する富士山のもとへ
期待と現実
入社前は、現在の会社でも人材関係の仕事に携われると思っていました。
しかし実際には、人材管理の業務はほとんどなく、「ミャンマーの職人が作った商品を日本で販売し、彼らを支援しよう」というECサイトの運営を任されました。
とはいえ、会社の主な事業はIT関連で、ECサイトの運営プロジェクトを担当しているのは私ひとり。たまに社長から他の仕事も任されますが、基本的には孤独で、チームとしての一体感は感じられず、日々ひとりで仕事をこなしていました。
そんな孤独な毎日を過ごす中で、私は何度も自分に問いかけるようになりました。
「俺はこのままでいいのか?せっかく日本に来られたのに、ただ孤独に事務所で働いて、帰って寝て、それだけで1日が終わる……これが自分の望んだ人生なのか?」
その頃には、孤独に働くことに限界を感じ始めていました。
そして、「自分の強みであるコミュニケーション力と日本語を活かしながら、社会に貢献できる仕事がしたい」という想いが強くなり、転職を考えるようになりました。
そこで、自分のやりたい仕事に出会える会社を探すために、転職サイトで本格的に求人を探し始めました。
ジンザイベースとの出会い
転職活動を続ける中で、いくつかの魅力的な会社と出会うことができました。
ジンザイベースを含め、2〜3社ほど面接を受けた結果、ありがたいことにどの会社からも内定をいただき、どこに入社すべきか悩みました。
そんな中で、ジンザイベースは他の会社とは少し違う魅力を感じました。フレックスタイム制やリモートワークといった柔軟な働き方が可能であり、明確に役割分担されたチーム体制、そして他国籍の方々との交流機会も豊富にありました。
さらに、会社として明確なビジョンと目標があり、社員全員がその目標に向かって力を合わせて取り組んでいる姿を見て、心を動かされました。
「このチームの一員として、自分も一緒に成長しながら社会に貢献したい」そう強く思い、私はジンザイベースへの入社を決意しました。
いまは埼玉県に住んでおり、会社までは電車で約30分ほどの距離です。週に
2〜3回ほど出社しており、同僚である多国籍のメンバーと直接会話できることや、入社したばかりの私にとって先輩方から色々学べる環境がとてもありがたく、毎日が学びの連続だと感じています。
これからもそうした日々の学びを大切にしながら、経験を積み重ね、自分に出来る形で社会に貢献していきたいと考えています。
新しい仲間を大募集中です!
ジンザイベースでは、新しい仲間を募集しています!
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