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初登板・初先発・初勝利を挙げた元プロ野球選手、齊藤悠葵が感じる営業の魅力

2006年10月1日、東京ドームのマウンドに立った19歳の未来は明るかった。高校生ドラフト3巡目の入団ながらウエスタンリーグで結果を残した齊藤悠葵は、1年目から1軍での登板機会を勝ち取る。そして、巨人打線を5回3安打無失点に抑え、ドラフト制導入以降、球団初となる初登板・初先発・初勝利を記録。この年の甲子園に優勝した同姓同名のピッチャーと重ね合わせ、広島でも“ハンカチフィーバー”への期待が高まった。

以降、新人王候補に名を連ねた2年目は、やや尻すぼみの成績となったものの、3年目に3勝、4年目には先発ローテーションを守り9勝を挙げる。傍から見れば、間違いなく順風満帆なプロ野球人生で、ここが最高到達点になるとは思ってはいなかった。

「自分で自分を追い詰めてしまいました。周囲の期待に触れたり、メディアの記事を見て、がんばろうと気負い過ぎたんです」。翌2010年から調子が上がらず、ケガも加わって、結局9年でプロの舞台を去ることになった。

27歳で迎えたセカンドキャリア。スポーツメーカーとアパレル会社を経て、現在はIT企業のマノア・リノで営業に勤しんでいる。プロ野球という選ばれた人間が集う世界で、一時期であっても輝いた男は、33歳になった今、どんな想いを抱いているのか。聞かせてもらった。


【プロフィール】

齊藤 悠葵

小学3年生で本格的に野球を始め、福井リトルシニアでは全国準優勝を経験。福井商業に進学後は1年夏から甲子園でベンチ入りし、春夏合わせ3度の出場を果たした。3年時には、林啓介(元ロッテ)との2枚看板が注目を集め、2005年の高校生ドラフト3巡目で広島東洋カープの指名を受け入団。ルーキーイヤーには、初登板・初先発・初勝利を挙げ、2009年には9勝を達成するなど、将来の左のエース候補として期待を集めた。しかし、以降はケガなどに苦しみ、2014年に引退。スポーツメーカーやアパレル会社を経て、2020年6月よりマノア・リノで営業に勤しんでいる。


きっかけは弟の存在

野球自体は、物心ついたときから近所の幼馴染や父親と一緒に楽しんでいました。ただ、当時はJリーグブームで、小学校に入っても僕らの学年では、誰も野球部に入らないと聞いて…。きっかけになったのは弟の存在です。1年生になったら迷わず入部すると言うので、「知り合いがいるなら」と一緒に始めることになりました。

左利きだったので、ポジションはずっとピッチャーです。時代もあるでしょうけど、今と比べるとすごく鍛えられましたね(笑)中学では、そこに技術面の指導も加わり、全国で準優勝することもできました。

ずっと野球ばかりしていたので、高校は推薦入学です。福井商業は県内屈指の強豪でサッカーも強いのですが、商業高校なので生徒の7割くらいが女の子。しかも、僕の入ったクラスは男が一人しかいなくて、びっくりしました。これはもう高校生活は、野球をがんばるしかないなと思いましたね(笑)クラスメートみんなと仲良くはなるんですが、野球が支えてくれた3年間でした。

3年になるまでプロはまったく意識していなかった

高校の入学時点で身長は180cmくらいあったものの、体はガリガリ。僕より実力のあるピッチャーもたくさんいましたし、練習に付いていくことだけを考えていました。でも、たまたま練習試合で関西の強豪校を相手に好投し、一気に評価が上昇。1年の夏に甲子園を経験することができました。

イメージ以上のスタートでしたが、その年の冬に肘の手術をしたこともあり、2年生のときには、同学年でロッテへ行くライバルの林啓介に一気に抜かれてしまいました。3年生を差し置いてエース格の存在で、彼がずっと投げている。それで冬のあるとき、同い年のキャッチャーに言われたんです。「あいつはあれだけ活躍しているのに、夜も居残りで練習しているぞ」と。まったく知りませんでした。

僕は電車通学で、部内では“電車バック”と言って、早めに帰らせてもらえる組だったんです。だから、いつも先輩たちと割とあっさり帰宅していましたが、そこからは変わりましたね。雪国でグラウンドが使えない分、室内で筋トレを中心にひたすらトレーニングしました。すると1ヶ月半くらいで体重が10kgほど増え、比例するように春先から球速も伸びたんです。

本当に投げるたびに上がっているような感覚で、130kmくらいだったのが140kmに届くまでになりました。その頃から林と同じようにプロが注目しているという声が耳に入るようになって、意識し始めるようになります。

それまでは、プロ野球選手になれるとはまったく思っていません。逆になりたいという想いが強過ぎると空回りするし、なれなかったらどうするのという話になるので。僕はあまり求め過ぎないスタンスでした。スカウトが来ているからがんばるのではなく、目の前の一戦に一生懸命向き合い、良いピッチングをしたいとずっと考えていましたね。

はじめは良かった。でも…

高校1年のときと同じように、プロに入ってからもはじめは良かったんです。入団前後のケガが治ってからは、投げるたびに「いける」という手応えを感じられて、10月の一軍の試合に呼ばれることに。そこで(ドラフト導入後、高卒ルーキーでは)球団初の初登板・初先発・初勝利をやったんです。

でも、2年目、3年目にはメンタル面でプロの壁を感じました。1年目は無心で投げられていたのに、「ストライクを入れなければいけない」とか「なにかしなければいけない」と心に邪魔が入り、イップス(精神面などが原因で思い通りのプレーができないこと)みたいな状態でした。小中高校と、これまではまったくそんな経験がありませんでした。それでも、コーチに「お前はイップスじゃない。フォームに問題があるんだ」と洗脳のような形で声をかけてもらい続け、なんとか重症にはならず、4年目には9勝を挙げることができたんです。

ただ5年目からも、ケガなどがありましたし、メンタルの問題を引きずっていたと思います。プロの世界は1年良ければ、次の年はそれ以上を求められます。周囲の声やメディアの記事を見て、勝手に自分で自分を追い詰めてしまいました。特に2年目は、新人王候補なんて騒がれて、気負い過ぎたりして…。それが僕の弱さですし、結局9年でプロ野球の世界を離れることになりました。

27歳で迎えたセカンドキャリア

引退してから4年間は、スポーツメーカーのショップで接客をしたり、子どもの指導をしていました。ときどきファンだった方が買い物に来てくれることもあり、プロ野球選手で良かったなと思える瞬間は、たくさんありましたね。

それから1年、アパレル会社での勤務を経て、2020年の6月からマノア・リノで働かせてもらっています。正直、野球に関わりたいという気持ちはありましたが、それだけでは生活できないのが現実です。安定した環境を求め、はじめは他社を紹介してもらうつもりで、マノア・リノを訪れました。

ただ、それがちょうど緊急事態宣言が出ているタイミングで…。当然、なかなか良い案件もなくて「うちで働かないか?」と声をかけてもらい、スポーツとも無関係の会社ではないし、自分の経験を活かせるシーンもあるかと思い、入社することをを決意。社長の武井さんが広島カープのファンだったのもツイテました(笑)

ショップで接客をしていたので、営業は初めてでしたが、人と会うことも、気さくにコミュニケーションをとることも全然抵抗はなく、スムーズに入れたと思いますね。基本的なビジネスマナーの部分も前職まででイチから鍛えられていました。メールの文面など、弱いところはまだまだあるんですが…。

業界の知識などの面で、半年経った今もわからないことはたくさんあります。周囲に相談したり、アドバイスをもらいながら、少しずつ学んでいる段階ですね。そんな自分でも、プロ野球という異分野から来た自分でも受け入れてくれる会社です。取締役の田中さんも、同じスポーツ選手で、自分の境遇にすごく共感してもらえ、普段から気さくに声をかけてもらったりしてます。

初受注はテーマパークで

営業としての自分は、けっこうガツガツしていると思いますね。なりふり構わず、案件があったらどんどん要員を提案します。貪欲さはスポーツで培った部分はあると思いますし、他の営業さんに負けたくないという気持ちも強いです。

IT知識は弱いですが、逆に知識を持ってしまうと、スキルシートと案件を見たときに、100%のマッチングではないと、提案しないかもしれない。でも、僕だったらまずは提案してみようとなる。お客様からこんな乖離があるエンジニアを提案しないでくれと言われたことはないですし、提案をすると意外とマッチすることも、「○○が足りないから」と回答をもらえることもあります。そこでの学びは次の提案に活かせますからね。

あと、この業界でとにかく大切なのはスピード感。反応が返ってきたときがチャンスなので、電話でもメールでもレスの速さが重要です。初受注のときも、平日に会社の夏季休暇を取得中に妻とテーマパークに行っているとき(笑)。回答が来るのは分かっていたので、PCを持って行ったのですが、チケットの買うために並んでいたら「マノア・リノに決めます」という電話が。妻には待ってもらい、急いで上司に連絡して、午前中までにまとめるため、その場で書類を作成しました。

そうしたら社内のグループラインに「齋藤君初受注です」と流れきて、すごくうれしかったですね。練習して試合に勝つというスポーツの喜びと同じで、プロ初勝利のときのような感覚を感じられました。

大切にしていること

電話をしたら愛想が悪いとか、確認しますと言ったのに、なかなか返事がないとか。逆の立場だったら嫌なことをやりたくないといつも考えています。

同業他社はたくさんあります。だから良い印象を持ってもらって、なにかあったら思い出してもらえるようにしたいですね。「元プロ野球選手の大きい人に連絡してみよう」でもいいんです(笑)。そういう印象を与えられるという面も、野球をしていたメリットかもしれません。

相手によって対応は変えますが、「体が大きいね」と声をかけてもらうことも多いので、そんなときは、野球をやっていて~と自分の話もします。それで、すぐにではなくても、つながりが生まれれば良いなと思っています。

プレーヤーでもある役員のように

やっぱり、この仕事をしてやりがいを感じられる瞬間は、案件とエンジニアをマッチさせられたときです。もちろん、なかなか受注できなくて苦しいときもありますが、チームで目標に向かっているので、協力しながら成果が出たときはうれしいですね。

あとは、毎月の目標を達成したらインセンティブも出るので、それもすごくモチベーションになっています。営業一人ひとりが案件とエンジニアを抱えているのですが、たとえば僕が担当のエンジニアが、違う営業の案件にマッチしたら5割、両方だったら10割が自分の数字になります。がんばりが還ってくる環境は魅力です。

今後は、役員3名のうち2名はプレーヤーでもありますし、同じくらいの数字を持って、後輩が入ってきたときに、指導できる立場になりたいというのが目標です。自分の仕事もこなしつつ、人も育て、組織を大きくしていきたいと思っています。

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