世界で一番すごい男だと信じていた
高校を出て、私は日本、いや世界を代表するコンピュータメーカーに就職しました。仕事は大型コンピュータ用のソフトウェア開発でした。仕事自体は面白かったのですが、私は自分の境遇に大きな不満を抱えていました。
実は当時の私は、「自分は世界で一番すごい」と本気で信じていました。そんな私が、周囲の(仕事ができない)大卒社員よりも給与が安いという状況が許せませんでした。また、周囲の高卒の先輩を見れば、数年後の自分の地位や収入が想像できてしまいます。自分の才能を理解できない会社にいるのは不幸だと。勘違いも甚だしいのですが、私はそう思い込んでいました。
単身オーストラリアへ
若さゆえの勘違いは暴走を続け、入社から3年半で私は辞表を提出しました。 当然、周囲は猛烈に反対しました。「二度とこんな大企業に入社できないぞ」と忠告されましたが、自分の実力が正しく評価されれば、いくらでも待遇の良い大企業からお声がかかると信じており、彼らの言葉は耳に入りませんでした。次に行く当ては全くありませんでしたが、こんな素晴らしい自分に見合う会社が日本にあるとは到底思えませんでした。そこで、とりあえず日本を出ようと決意し、ワーキングホリデービザを取得して単身オーストラリアへ向かいました。 92年の秋のことでした。
英語学習を決意する
その頃、私はほとんど英語を話せませんでした。幸い、すぐに日本人向けのレストランのアルバイトが見つかり、食費の苦労は軽減されました。ところが、一気に友人が増えてみんなと遊びに行く機会が増えると、自分の英会話力のなさを痛感するようになりました。何より、オーストラリアで何かを成し遂げるには英語が不可欠です。しかし、貧乏暮らしのアルバイト生活では、英語を勉強するための学費を工面できるはずがありませんでした。
金がないから知恵を絞る
お金はなくても、知恵を絞り出す根気と時間だけはたっぷりありました。一計を案じた私は、知人が紹介してくれた英語学校の校長に頼み込みをしました。
「この学校でどんな仕事でもしますから、代わりに授業を受けさせていただけませんか?」
日本人らしからぬ強引さに、最後は校長も承諾してくれました。翌日から私は、日本人留学生向けのスクールカウンセラーを務めつつ、空港に着いたばかりの日本人に
「英語を話せないと苦労するよ」
などと巧みに話しかけて英語学校に勧誘し、その報酬として英語の授業を受けました。目的達成のためにあらゆる可能性を考え、知恵を絞った経験です。今日のジーアップにつながる考え方は、ここにあります。
いつか会社をつくる夢
オーストラリアでは多くの人々と出会いがありました。中でも、日本人建築デザイナーの Hさんとの出会いは私に大きな刺激を与えてくれました。将来のビジョンがなかった私とは異なり、彼は日本での起業という明確な目標を持っていました。そんな Hさんに感化され、私も起業するという目標が芽生え始めました。その頃、よく二人で海に入り、サーフボードに乗って波を待ちながら将来のことを語り合いました。そして「いつか必ず成功する」と誓い合ったのです。
94年にはビザの延長申請が却下され、一旦帰国しました。厳しいことで有名な運送会社でアルバイトをして、1年間で300万円以上の起業資金を稼ぎ、95年の2月に再びオーストラリアに戻ってきました。
あえて無謀な就職活動
今回は、型破りな就職活動をしました。具体的には、電話帳に載っている企業に片っ端から電話をかけ、雇ってほしいと交渉するという非効率的な方法です。当然、私の英語力では話が通じないことが多く、次には直接会社を訪ねて交渉するという大胆な作戦を実行に移しました。無謀な挑戦であることは承知していましたが、この苦境を心のどこかで楽しんでいる自分がいたことも事実です。
入社すればなんとかなる
ある日、ある翻訳会社がテクニカルライターを募集していることを知りました。応募しようと思いましたが、募集要件を満たしていませんでした。しかし、そこで諦めないのが私です。なにしろ私は「世界で一番できる男」なのですから、入ってしまえば実力は分かってもらえるに違いないのです。そこで、同時募集していたタイピストに応募しました。タイピングの速さに自信はありましたが、タイピストは未経験。履歴書に「タイピング速度は毎分200語」などと人間離れした数値を書き、何とか採用されました。
答えは「オフコース」
入社後は、計画通りに「あれもしたい、これもさせてください」と上司に直談判しました。「だったら画像処理ソフトの Photoshop や Illustrator は使えるか?」「プログラムは組めるか?」などと尋ねられるたびに、私は眉一つ動かさず「もちろん!」と答えました。そして、上司が帰宅した後に書店に走り、参考書を買って必死に勉強し、徹夜してでも頼まれた仕事を仕上げました。実力があるから仕事を任されるのではなく、無理をしてでも仕事を任される状況を作り出し、期待に応えるために必死に努力するからこそ、実力がついていくのだと学びました。私はこの会社で、とても大切なことを学びました。
オーストラリアで起業する
すぐにタイピストの肩書きは取れ、DTP、翻訳者支援、社内ネットワーク管理、翻訳支援、ツールの開発など、様々な仕事を任されるようになりました。個室を与えられ、半年後には時給は入社時の5倍以上に上がりました。しかし、収入が増えると同時に、税金も高額になりました。そこで、ボスから「会社組織にしてはどうか?」と提案を受け、以前から起業を考えていたこともあり、1995年7月にオーストラリアで『G-UP COMPUTER』の事業登録を行いました。
勘違いゆえの日本での起業
オーストラリアは非常に快適な場所でした。当時は本気で永住を考えていましたが、あまりの快適さに、このままでは自分がダメになってしまうのではないかと思い始めました。そんな折、日米豪に会社を持つボスの「ビジネスを成功させるのは日本が一番難しい」という言葉に耳が止まり、「そんなに難しい場所なら、逆にビジネスを成功させて見せよう」と考えたのです。相変わらずの勘違いぶりですね。
そして1年後に帰国し、同名の会社を地元の多治見で立ち上げました。両親に保証人になってもらい開業資金を工面し、金融機関からも融資を受けました。社屋は田んぼの真ん中のプレハブ小屋。ようやくジーアップのスタートです。
長い話ですみません。
でも、話はこれからです。
どんな仕事も手当たり次第
開業後は、オーストラリアの翻訳会社や日本に戻っていたHさんからの仕事などを精力的にこなしました。大手のコンピュータ周辺機器メーカーからは翻訳やDTPを請け負い、火力発電所の膨大なマニュアルの電子化にも携わりました。
ある研究機関から「京都議定書の専門文書の翻訳をお願いできますか?」と依頼を受けた時は、いつもの癖で「もちろん」と答え、後からオーストラリアの友人に頼み込みました。また、同じ研究機関が開発した当時の世界最速スパコンの運用マニュアル作成にも携わりました。蛇足ですが、その機関がスパコンの開発を発注したのが、以前私が働いていたコンピュータメーカーだったため、「二度と入れないと言われた企業に、仕事を発注する側の一員(外注業者ではありますが)として舞い戻ってきたぞ」と、一人悦に入ったものです。公共のコンペに応募し、高い採択率を誇ったのもこの頃からでした。
数千万円の代償で得た目覚め
やがて一人では仕事を回せなくなり、仕事を手伝ってくれるメンバーも採用しました。しかし、良いことばかりではありませんでした。事業が軌道に乗ると、様々な「甘い話」が舞い込んでくるようになりました。調子に乗っていた私は、まんまと二度も引っかかってしまいました。また、取引先に逃げられたこともあります。そんなことが続き、合計数千万円の損失をかぶったことで、ようやく目が覚めました。「自分は何もすごい人間ではない」と同時に、自分が周囲に助けられてここまで来られたことに気づきました。うぬぼれすぎず、卑下することもなく、良いところも悪いところも含めて等身大の自分を見られるようになったのです。
経営危機で分かったこと
私が勘違いから完全に目覚めたのは、リーマンショックでした。仕事が激減し、厳しい経営危機に陥ったのです。私はその状況を正直にメンバーに伝えました。しかし、彼らは一人もジーアップを辞めませんでした。それどころか、会社のために頑張ろうと、これまで以上に頑張ってくれました。もし自分が逆の立場だったらと思うと、本当にみんなには頭が下がります。
すべてはメンバーのおかげ
その後、みんなの力のおかげで、受託と自社企画のシステム開発事業は再び軌道に乗り始めました。さらに、全国展開するベンチャー企業と組んで新事業に挑戦する余裕も生まれました。今まさにジーアップは、次の成長のステップに差し掛かっています。若い頃のような過信ではなく、今は冷静にそう考えています。それはすべて、メンバー全員の成長のおかげです。仕事や役割が人を成長させることを強く実感している私としては、彼らにもっと大きな仕事、もっと重要な役割を任せたいと思っています。それが、彼らの成長につながり、そしてまた会社の成長へとつながっていくと確信しているからです。