主体性の回復について
支援とは、何かをしてあげることなのだろうか
前回は、「支援される人から、価値を届ける人へ」ということを書いた。
人は、支えられるだけの存在ではない。
誰かを支えることもできる。
何かを届けることもできる。
役割を持つこともできる。
山の畑で大切にしている、
「つながって、ひろがる」
という言葉も、きっとそこにつながっている。
小さな活動が役割になり、役割が人との関係になり、その関係がまた新しい可能性を連れてくる。
そんな循環を、僕たちは育てていきたいと思っている。
では、その時に支援とは何なのだろう。
何かをしてあげることなのだろうか。
困っている人を助けること。
できないことを代わりにやること。
失敗しないように先回りすること。
もちろん、それが必要な場面はある。
目の前で困っている人がいれば、手を差し伸べる。
危ないことがあれば、止める。
不安が強ければ、安心できるように関わる。
それはとても大事なことだ。
でも、支援がいつも「してあげる」だけになってしまうと、少し怖い。
なぜなら、それはいつの間にか、
本人の人生を、支援者が持ってしまうこと
につながる気がするからだ。
福祉の現場では、「本人中心」という言葉をよく使う。
とても大切な言葉だ。
でも、本当に本人中心になっているだろうか。
本人のために、と言いながら、支援者が決めていないだろうか。
よかれと思って、選択肢を狭めていないだろうか。
安全のために、挑戦する機会まで減らしていないだろうか。
「この人には難しい」
「この人はこういうタイプ」
「前にも失敗したから」
そんな言葉で、本人の可能性を静かに閉じていないだろうか。
もちろん、僕も偉そうなことは言えない。
日々の現場では、判断しなければいけないことがたくさんある。
時間も限られている。
人手も限られている。
予定もある。
安全も守らなければならない。
だから、つい支援者側が決めた方が早い。
その方がスムーズに進む。
その方がトラブルも少ない。
でも、その積み重ねの中で、本人が自分で選ぶ場面が少しずつ減っていくことがある。
気づけば、本人は「支援を受ける人」になっている。
予定を提示される人。
活動に参加する人。
声をかけられる人。
評価される人。
もちろん、それも一面では必要なのかもしれない。
でも、人は本来、それだけではないはずだ。
自分で感じる。
自分で選ぶ。
自分で迷う。
自分で失敗する。
自分でやり直す。
自分で誰かとつながっていく。
そういう力を、誰もがどこかに持っている。
僕は、それを
主体性
と呼びたい。
主体性というと、少し難しく聞こえる。
自分から積極的に動くこと。
何でも自分で決めること。
はっきり意見を言えること。
そんなイメージもあるかもしれない。
でも、僕が考える主体性は、もう少し小さい。
もう少し静かなものだ。
今日はこれをやってみようかな。
これは少し苦手だな。
こっちならできるかもしれない。
あの人と一緒ならやってみてもいい。
これは嫌だと言ってみよう。
もう少し続けてみよう。
そういう小さな感覚。
自分の中から出てくる、小さな方向感覚。
それが主体性の芽なのだと思う。
そして、その芽はとても傷つきやすい。
何度も否定されると、小さくなる。
失敗を責められると、隠れてしまう。
選んでも意味がない経験が続くと、選ばなくなる。
どうせ自分では決められない。
どうせ言っても変わらない。
どうせ怒られる。
どうせ無理。
そうやって、人は自分の人生から少しずつ離れていってしまうことがある。
だから支援とは、もしかすると、
その人がもう一度、自分の人生の主人公に戻っていくための環境を整えること
なのかもしれない。
これは、かっこいい言葉だけれど、実際にはとても地味なことだ。
選択肢を少し見えるようにする。
予定をわかりやすくする。
いきなり大きな役割を渡さない。
できたことを一緒に確認する。
嫌だと言える余白を残す。
失敗しても戻ってこられるようにする。
一人でできる場面を奪わない。
誰かと一緒ならできる形を考える。
人を変えようとする前に、場を変えてみる。
そういう、小さな環境づくりの積み重ねなのだと思う。
山の畑では、活動をいくつかの入口に分けている。
グリーンワーク。
ものづくりサポート。
ITワーク。
スマイルコネクト。
畑に出る人もいる。
室内で手を動かす人もいる。
パソコンに向かう人もいる。
お店や地域とつながる人もいる。
その日の体調や気分によって、うまく入れる活動が違うこともある。
人によって、得意な入口も違う。
だから、できるだけ「これをやりなさい」ではなく、
どこからなら入れるだろう
と考えたい。
もちろん、すべて自由にできるわけではない。
事業所には予定もある。
仕事には責任もある。
納期もある。
安全面の配慮もある。
でも、その中でも、本人が少し選べる余地はつくれる。
「今日はこっちをやってみる」
「この作業ならできそう」
「午前中だけなら行けそう」
「まず見学してみる」
そういう小さな選択が積み重なると、活動は少しずつ本人のものになっていく。
支援者が用意した活動から、本人が関わる活動へ。
やらされる時間から、自分の役割がある時間へ。
その変化は、外から見ると小さい。
でも、本人の中では大きいことがある。
たとえば、畑で草を取る。
それだけ聞けば、ただの作業だ。
でも、その草取りが、野菜の生育につながる。
野菜が収穫される。
お店に並ぶ。
誰かが買う。
「おいしかったよ」と言う。
そこまでつながった時、草取りはただの草取りではなくなる。
自分のしたことが、誰かの暮らしに届いた。
そんな感覚が、ほんの少しでも生まれる。
それは、主体性の回復にとって、とても大切なことだと思う。
商品研究も同じだ。
味を言葉にする。
どんな人に合いそうか考える。
ポップの言葉を考える。
商品棚の見せ方を考える。
そこには、本人の感覚が入る。
支援者が全部考えたものをなぞるのではない。
本人の感じたことが、売り場に反映される。
誰かの「買ってみようかな」につながる。
自分の言葉が外へ出ていく。
それは、少し誇らしいことだ。
主体性というのは、何も大きな自己決定だけではない。
進路を決める。
就職を決める。
暮らし方を決める。
もちろん、それも大切だ。
でも、その前に、
今日の活動を選ぶ。
自分の気持ちを少し言う。
誰かに勧める言葉を考える。
できたことを自分で確かめる。
そういう小さな自己決定がある。
大きな自己決定は、小さな自己決定の積み重ねの先にあるのだと思う。
だから僕たちは、小さな選択を軽く見ないようにしたい。
「どっちがいい?」
「どう思う?」
「やってみる?」
「今日はここまでにする?」
そんなやりとりの中に、その人が自分の人生へ戻っていく入口があるかもしれない。
一方で、主体性を大切にするというのは、本人任せにすることではない。
ここは、とても難しい。
「本人が決めることが大事です」
と言いながら、支援者が何もしない。
それは違うと思う。
本人の意思を尊重することと、放っておくことは違う。
主体性は、ただ待っていれば自然に出てくるものではない場合もある。
これまでたくさん傷ついてきた人。
選んでも無駄だった経験がある人。
失敗を責められてきた人。
自分の気持ちがわからなくなっている人。
そういう人に対して、
「さあ、自由に選んでください」
と言っても、選べないことがある。
だから、環境を整える。
選びやすくする。
見通しをつくる。
一緒に考える。
言葉にならないものを、急がず待つ。
本人の中にある小さな動きを見逃さない。
主体性を支えるには、むしろ繊細な支援が必要なのだと思う。
そして、支援者自身も揺らぐ。
どこまで手伝うか。
どこから見守るか。
止めるべきか。
待つべきか。
促すべきか。
本人の希望なのか。
周囲への遠慮なのか。
本当にやりたいことなのか。
今はまだ言えないだけなのか。
そんなことを、現場ではいつも迷う。
だから、僕たちは「これが正解」と簡単には言えない。
言えないからこそ、観察する。
記録する。
振り返る。
話し合う。
また試す。
その繰り返しが必要になる。
最近、僕たちはObsidianなども使いながら、現場で起きたことをできるだけ言葉に残そうとしている。
それは、単に記録を増やしたいからではない。
自分たちの支援を問い直すためだ。
この声かけは、本人の主体性を支えただろうか。
それとも、支援者の都合を通しただけだっただろうか。
この活動の組み方は、選びやすかっただろうか。
それとも、選んだように見えて、実は誘導していなかっただろうか。
こうした問いを残しておくこと。
あとから振り返れるようにすること。
それもまた、閉じないための営みなのだと思う。
支援者の感覚だけに閉じない。
その日の空気だけに閉じない。
言葉にして、問い直して、次の実践につなげていく。
主体性を支えるというのは、本人だけの話ではない。
事業所全体の姿勢の話でもある。
支援者が決めすぎない。
でも、放り出さない。
管理しすぎない。
でも、無責任にしない。
守りすぎない。
でも、危険にさらさない。
そのあいだで、揺らぎながら考え続ける。
少し面倒だ。
正直、とても面倒だ。
でも、たぶんそこに支援の本質がある。
人は、誰かに決めてもらうだけでは、自分の人生を取り戻せない。
でも、一人きりで放り出されても、やっぱり取り戻せない。
人と環境の間で、少しずつ力を取り戻していく。
誰かとの関係の中で、自分の声を思い出していく。
役割の中で、自分の存在を感じ直していく。
そんな過程を支えること。
それが、僕の考える主体性の回復だ。
山の畑は、完成された場所ではない。
毎日、迷っている。
支援者も迷う。
利用者さんも迷う。
活動も変わる。
地域との関係も変わる。
でも、その揺らぎの中で、少しずつ見えてくるものがある。
昨日は見ているだけだった人が、今日は少し手を伸ばす。
前は言えなかった人が、「今日はこっちがいい」と言う。
苦手だと思っていた作業の中に、意外な得意さが見つかる。
誰かに「ありがとう」と言われて、少し表情が変わる。
そういう瞬間に出会うと、僕は思う。
人は、戻ってこられる。
自分の人生へ。
自分の感覚へ。
自分の役割へ。
そして、その小さな回復は、周りにもひろがっていく。
本人が変わると、活動が変わる。
活動が変わると、関係が変わる。
関係が変わると、場が変わる。
場が変わると、また別の誰かが動き出す。
つながって、ひろがる。
主体性の回復は、一人の中だけで完結しない。
場全体へ、地域へ、少しずつ滲んでいく。
閉じない事業者であるということは、たぶん、そういう小さな回復の連鎖を信じることでもある。
支援とは、何かをしてあげることだけではない。
その人が、自分の人生の主人公に戻っていくために。
環境を整え、関係を編み直し、役割をつくり、時に待ち、時に一緒に動くこと。
山の畑は、そんな支援を目指している。
まだまだ途中だけれど。
今日もまた、小さな選択と、小さな役割と、小さな「やってみよう」の芽を見つけながら。
僕たちは、閉じない事業者であるための練習を続けている。
※次回は、「閉じない事業者論⑤」として、社会企業という生き方について考えてみたい。福祉サービスを提供する会社であることと、地域に価値をつくる会社であること。そのあいだで、僕たちは何を目指しているのか。そんなことを書いてみたい。