工芸を扱う会社を営んでいると、さぞ昔から美術が好きだったのだろうと思われることがあります。確かに好きですし、海外に行くたびに、その地域の日常の器などを買い集める習慣はありました。
しかし正直なところ、私は長いあいだ、美術鑑賞に苦手意識がありました。
難しく考えずに純粋に楽しめばいいんだ、という自分もいて、普段はそちらが表に出ているのですが、心の奥には別の感情がありました。もっと楽しむ方法があるはずなのに、私はそれを知らない。苦手意識は、そこから来ていたのだと思います。
こんなことを書くと、私たちに商品を届けてくださっている作り手の方々は不安になってしまうかもしれませんが、実際そうなのです。
だからこそ、美術鑑賞への向き合い方は、私にとって由々しき課題でした。私自身がそのものの魅力を理解できなければ、つながるはずのご縁が減ってしまうかもしれないのですから。
ちなみに私は、工芸品とアートの間に境目はないと思っています。工芸を用の美とするならば、アート性というのはカテゴリではなく要素に近いもので、その意味では、あらゆるものが内包しうると思っています。
そんな私が、仕事や個人での探求を通じて少しずつ見出してきた楽しみ方が、いまのところ九つあります。
1.直感的な鑑賞
使い方や機能はさておき、コンテキストを一切無視して、ただそこにあるオブジェとして、自分の感情と対峙する。SNSでふと流れてきた一枚に、スクロールする手が止まる。あれもこの鑑賞だと思います。物と私たちが初めて出会う瞬間は、実はこれが一番多い。最も単純だけれど、最も侮れない見方のような気がします。
2.作り手目線での鑑賞
どうしてこれを作るに至ったのか。どのような思想の遍歴があったのか。できれば生い立ちからたどりたい。これはロマンチズムと呼ばれる部分かもしれません。それを生み出した人の思想や感情を知ることで、そのものが発する価値が見えるようになっていきます。
3.身体性の鑑賞
どんなプロセスで作られたのか。手の動き、体の動きを想像する。そのときの作り手の感情も想像してみる。私の場合は、完成されたそれが、素材に戻っていく逆再生の映像を脳内で組み立てるようなイメージで見てしまいます。
4.技法の鑑賞
どのような技法が使われているのか。その技法はどのように生まれ、作り手はどうやって習得したのか。その技法でなければならなかった必然性は何か。技法は表現の道具です。技法から探求していくと、狂気じみた身体性の側面に気づくこともあります。
5.道具としての鑑賞
目利きに近いかもしれません。それを道具として使う具体的な場面を思い浮かべながら見ます。研ぎ澄まされた用の美や必然の美は、もはやアートなんじゃないかと思えることがあります。個人としては、自然の美しさもここにあるような気がしています。
6.見立て
この物は、こんなふうにも見える。こう捉えることもできる。こういう場所に置くと、こういう意味になりえそうだ。そういう、価値を立ち上げる目線です。
7.歴史目線での鑑賞
特に古いものは、作った人と、その後それを大切に保管してきた人たちのリレーで現代に残っています。つまり、その時々において、誰かがそのものに価値を見出し続けてきたということです。それを担った人が、どのような時代の、どのような暮らしの中で、何を思い、そこに何を見出したのか。その連続を想像すること。
8.空間としての鑑賞
そのものが置かれている空間、演出の全体を感じる。同じものでも、場所や演出次第で、全く別の見え方をしたり、別の意味を帯びたりすることがあります。
9.キュレーター目線での鑑賞
その物を並べることを通じて、どのような価値を示そうとしているのか。この場に何を生み出そうとしているのか、という目線です。
これらの9つの視点を得ていく中で、苦手意識はいつの間にか消えていた気がします。その代わりに、知れば知るほど、わからないことと、探求したいことが増えていきました。
その探求の中で、気づいたことがあります。日本の美をより深く鑑賞しようと思ったら、その歴史背景を知ること、そして文化を頭ではなく体でわかることが、必須になってくるということです。陰陽五行、見立て、自然との調和。どれもそういう類のものです。そして、その中心にあるのは茶の湯なのではないかと思うようになりました。
先日、30代最後の歳が始まったのを機に、お茶の稽古を始めることにしました。
年齢とともに少しずつ落ち着いてきましたが、もともと私はせっかちです。お茶のあのゆっくりとした時間が苦手で、20代の頃に、お茶は自分の人生とは縁遠いものだと感じておりましたので、少し勇気のいるチャレンジですが、あの世界の中に何があるのか、これから時間をかけて確かめに行きます。