湯湾岳へ続く山道。春先の空気に、緋寒桜がぽつぽつと咲き始めている。マコトは、中学の同級生たちとの十数年ぶりの会話で、一瞬であの頃に戻っていた。iPhoneをつないだスピーカーからは、昔よく聴いたスピッツが、いつの間にか藤井風に変わっていた。時間が進み、お互いの環境は変わっても、心地よい感覚は、あの頃と何も変わらない。 峠を下り始めたとき、スピードが出過ぎていることに気づいた。ブレーキを踏もうとして、足を伸ばす。届かない。もう一度、強く踏み込もうとする。それでも届かない。シートの位置を変えた覚えもないのに、つま先は空を切るだけだった。坂道は続き、カーブが迫る。背中に冷たい汗が流れる。同級生たちは談笑しているが、声は遠く、うまく聞き取れない。止めたいのに止められない。ハンドルは握っているのに、車を止めることができない。焦りで頭が真っ白になった瞬間、目が覚めた。
マコトが経営する会社の役員会議の朝だった。大胆な成長戦略と資金調達の方針を打ち出す日。うまくいけば会社は次の軌道に乗る。失敗すれば、大きな負債を背負う。果たして自分にこんな高い山を登り切ることができるのか。夢の中の坂道と、現実の状況が重なって見えた。
身支度をしながら、気になって夢の意味を「チャッピー」(Chat GPT)に尋ねてみた。車は人生や仕事、ブレーキはリスクを止める力。止めたいのに止められない夢は、スピードが上がり、責任が増えている証拠。不吉な兆しではなく、むしろ成長のカーブが立ち上がる前触れだと答えた。
確かに、夢の中で事故は起きなかった。止まれないなら、進むしかない。この山を登るのは、自分ひとりではない。力強い仲間たちとともに走っているのだと思うと、胸の奥に静かな自信が湧いてきた。
マコトはスニーカーの紐をぎゅっと結び、オフィスへ向かった。
引用:南海日日新聞 つむぎ随筆(2026年2月)掲載より