『聖剣伝説 ヴィジョンズ オブ マナ』小山田Pインタビュー。誰が見ても『聖剣伝説』であると感じられるよう、まずはビジュアル面からアプローチ。開発はネットイース・桜花スタジオとの初タッグ | ゲーム・エンタメ最新情報のファミ通.com
スクウェア・エニックスより、2024年夏発売予定の『聖剣伝説 ヴィジョンズ オブ マナ』について、小山田 将プロデューサーにインタビュー。
https://www.famitsu.com/news/202403/28338051.html
已是樱花绚丽,风光明媚的季节了。すっかり春らしくなりましたね、NetEase Games平野です。
『聖剣伝説 VISIONS of MANA』はすでにチェックしていただけましたでしょうか?ついにこの作品の開発会社がNetEase Games 桜花スタジオであったことが発表されました!!
発表を記念し、今回の連続インタビュー企画は『聖剣伝説 VISIONS of MANA』の開発チームを吉田ディレクター(対談企画Vol.1参照)と共に率いた小澤ディレクターのインタビュー企画です。桜花スタジオのプロデューサー・ディレクターの業務内容だけではなく、小澤健司個人の生い立ちやキャリアに迫った内容になっています。
スタジオの理解を深めていただくことはもちろん、将来的にプロデューサーやディレクターを目指したいと考えているゲームクリエイターの方に参考になればと嬉しいです。
またファミ通さん、Gamerさんの記事に『聖剣伝説 VISIONS of MANA』のプレイ画面や制作経緯などの記載がありますので、併せてチェックしてください!
2015年に新卒で株式会社バンダイナムコエンターテインメントに入社。有名IPを用いたモバイルゲームのプロデューサーとして複数タイトルの運営と新規開発を担当。2019年12月からNetEase Games 桜花スタジオ広州開発室にプロデューサーとして参画。
幼少期に父親が買ってきたスーパーファミコンの『スーパーボンバーマン3』をきっかけにゲームと出会い、今でもインディー、PvP、アドベンチャーを中心に年間70本程度のゲームで遊ぶ。
ゲーム以外ではDJ、サバゲー、料理、最近ではミラーレス一眼での写真撮影が趣味。光の方向、空の色、目に飛びこむ影の形などスルーしがちな日常をレンズを通して観察したとき見方に変化が起こることに面白みを感じている。家では猫2匹に癒される日々を送っている。
1991年熊本県生まれです。親の都合で広島や福岡でも暮らしていました。通っていた熊本の帯山中学校はかつて全校生徒2000人超の『日本で一番1番生徒数が多いマンモス校』として君臨していて、私が通っていた時でも1000人は超えていました。
中学2年頃は反抗期真っ盛りの不良崩れをやってましたね笑 全く勉強をせずアーケードゲームに命を燃やしていました。特にセガの『アヴァロンの鍵』に夢中になり、大会に参加することもありました。学校で友達は多い方ではありませんでしたが、ゲームセンターで30歳過ぎのおじさんや高校生・大学生の気のいいお兄ちゃんお姉ちゃんたちと一緒になって遊ぶことが多かったです。抵抗なく色んな人と喋れるスキルはゲームセンターで身に付けていたのかもしれません。
そして中学3年生に進級したあたりで突如改心してガリ勉キャラに転身しました。きっかけは、おじいちゃんとの将棋です。何度も何度も戦いましたが全く勝たせてくれなくて。駒を指しながら「周りの人に迷惑かけたらまずいな」としみじみと感じるようになり、不良崩れからの脱却に成功しました。
高校は帰宅部で勉強中心の生活です。校内では2人しかいない友達と仮面ライダーのベルトの話をし続けるという闇の時代でもありました。当時『仮面ライダーディケイド』という平成仮面ライダー10周年を記念した作品が始まったことで、小学生の頃に夢中になっていたライダーたちが再び画面に登場し、隠れていた仮面ライダー熱が爆発してしまい…笑 勉強中心の生活を選択したことは結果的には良かったですが、青春は大いに失った気がします。
浪人時代は北九州予備校で過ごしました。365日12時間閉じこもって勉強し、さすがに仮面ライダーとゲームセンターに現を抜かすことはなかったです。結果的に大阪大学理学部物理学科に入学しました。
サークルは「阪大ピアノの会」に入り、別でDJとしても活動していましたね。ゲームセンターにあった『beatmania IIDX』のせいです。本物のDJがどんなことをやっているか気になり、イベントに行ってみたら想像以上に楽しくて帰り道にミキサーを購入していました笑 年間50本以上のDJオファーをこなしながら、ピアノの会での年1曲は発表会向けに演奏を仕上げる生活を過ごしていました。
120人近くいる「阪大ピアノの会」の副部長としての活動をはじめ、300人規模のクラブイベントを開催したり、アニメOP/EDを歌うアーティストと同じイベントで共演したり...色んな人との関わりを通じて高校生の時に失ったコミュニケーション力を急速に取り戻していました。完全な大学デビューです笑
当時のイベント主催の経験はゲームプロデューサーとして提案・交渉する仕事に繋がっています。
勉強の話をしておくと専攻は物理学と天文です。観測宇宙系領域で院に進み、研究を続け、自身の名前や成果を星の名前として残すことを志していました。しかしこの領域でチャンスを掴める人は一握りだという厳しさを知ったり、院卒後に一般企業に就職する際の間口が狭いことを考えて、学部生の時点で就職することを決めました。ちなみに今でも宇宙に関することは大好きです。
「ゲーム」を通じて人間関係が広がった体験の素晴らしさや、GBA『マジカルバケーション』など、遊んだ後でも心に残ったり、自分自身の考え方に変化をもたらすゲームに多く触れていたため「そういったゲームが作れるようになりたい!好きなことを仕事にしたい!ゲーム業界で仕事をしよう!」と思いました。
3週間の研修を経てハイターゲット向け有名IPのモバイルゲームアプリを担当する部署へプロデューサーとして配属されました。BNEのプロデューサーは開発会社・版権元・会社上層部の間に立ってプロジェクトを前に進めることが仕事になるため...配属後の早い段階で、かなり強い主体性と意思決定を伴う業務遂行を求められていました。
具体的な業務の一例を挙げてみると、
・各タイトルでの運営時の毎月の施策決定
・施策実施に必要な版権元への提案と開発会社への説明
・社内向けの通期予算設定
・タイトルマーケティングに必要な施策の提案と遂行
・オフラインイベントの企画立案・提案と遂行
になります。
もともと数字に対してのアレルギーがなかったので、KPIを細かく見たうえでの施策の提案や売上予測、期待値測定などは得意としていました。インストラクターの育成方針によって差はありますが、かなり仕事は任せてもらっていて、育つチャンスを物凄く与えて貰っていたなと感じます。
1年目で関わった新規アプリのリリースが思い出深いですね。インストラクターからゲームのキービジュアルを考えるミッションが与えられ、過去作品を100種類程度まとめて提案資料にしたところ、一つ一つのキービジュアルに対してインストラクターが「多分こういう情報とか意図があるよな」とコメントしてくれて。まさにプロデューサーの思考に触れた瞬間でした。同時にアニメ制作委員会にも参加して版権元様に対してゲーム代表としてゲームの進捗を報告・共有する業務など、一気に仕事の世界が広がっていくような体験でした。
逆に悔しい思い出もあります。担当していた主力運営タイトルの施策で、インストラクターの企画内容が絶対に上手くいくわけがないから全力で止めたいと考えまして。「やらないほうがいい理由」を資料にまとめて説明したり、喧嘩に近い口調で言い合いをしていました。
結局インストラクター案の施策を進めることになりリリースを迎えるわけですが、私の予想に反してものすごく売れて。終わってみれば全てのKPIが上がり、同様の施策の2回目を行うほどの大成功を収めました。小澤の完全敗北です。
3年近くそのIPに携わっていながら、売れるということに言われるまで気付かなかったことへの悔しさは忘れられません。その時の経験からプロデューサーとして意思決定を繰り返していく中で『本当にこれでいいのか。ユーザーさんが他に求めているもの、期待をしてくれていることはないのか』と振り返って考えたり、見えている範囲よりちょっとだけ遠くを見渡すようになりました。
バンダイナムコにいくつかある海外支社の中でも上海は中国大陸向けにモバイルゲームを中国国内の開発会社と協力して制作し、運営モデルのモバイルゲームで収益を上げる稀有な存在でした。
BNEの中で海外でゲームプロデューサーとして仕事ができるのが上海だけだったことと、中国のゲーム企業が日本に進出し始めていたこともあり、中国市場は意識していたため、どうせなら中国でゲームの仕事をしてみたいと考えて、手を挙げて異動しました。
BNE上海では中国大陸向けにサービスを行うモバイルゲームタイトルを成都や深センの開発会社と制作したり版権元とやり取りしたり…簡単に言うと日本でやっていた業務の中国版です。何度か難しい局面を経験しましたが最終的には中国市場における主力IPのタイトルを統括することとなりました。
「プロデューサー」視点で売り方や仕様の伝え方を工夫するだけではなく「ゲームデザイナー/ディレクター」としての経験を積み、脳内で思い描いたゲームを制作できるディレクション能力を得たいと考えていました。同時に一人のゲームファンとして子供の頃一生懸命遊んだゲームを作りたい、物語やゲームに終わりのあるコンソールゲームを作りたいという思いも強まったタイミングに桜花スタジオを立ち上げるというニュースが飛び込んできて、瞬時にこれだと思いましたね。
モバイルゲームのプロデューサー経験しかないので単純に転職活動をすればコンソールゲーム開発に関わることは難しかったと思います。しかし桜花スタジオのような『コンソールゲーム開発チームをゼロから作る』フェーズのスタジオであれば、企画の種を作ることやチーム規模と状況を踏まえて予算とスケジュールを組んでいくことなど、今までのプロデューサー経験でも貢献できる部分があると思いました。
最終的には、それらの経験を切り口にしてゲームデザインに関わっていけるんじゃないかと期待していました。
あと日本人のトップと事業を進められる、プロジェクトの優先度の決められる、仕事ができるということはかなりの安心材料でした。新規のスタジオかつコンソールゲームを作ったことがない会社で全部が初めて尽くしだけれど、何も出来ないでスタジオが終わるリスクは小さいだろうと判断して、桜花スタジオに賭けることにしました。
次回、いままで語られることのなかった桜花スタジオ空白の3年間。桜花スタジオで小澤プロデューサーは何をしていたのかを初めて明かしてもらいます。そしてこれから桜花スタジオはどう進んでいくのか?についても迫りたいと思います。お楽しみに!